-2019年3月11日公開資料(外務省外交史料館>戦後外交記録>B’門、C’門、E’門)
-2019年3月28日公開資料(外務省外交史料館>戦後条約書)
-2019年3月29日公開資料(大分大学経済学部教育研究支援室>大分高商・経専コレクション)
2.今日の資料
-「満洲国」をめぐる国際関係―満洲国承認問題と外国公館の設置 <アジア歴史資料センター研究員 大野太幹>
3.新しいコンテンツのご紹介
-アジ歴グロッサリー「公文書に見る明治日本のアジア関与」
4.関連資料の所在情報
-アメリカ / インド / ポーランド
5.対外活動報告
6.関連機関イベント情報
-国立公文書館 / 外務省外交史料館
① 外務省外交史料館>戦後外交記録>B’門 条約、協定、国際会議、国際機関
・1類 国際管理機関>1項 対日管理>0目
極東委員会の設立経緯や対日理事会の議事録に関する簿冊を公開しました。
・2類 国際連合>0項>0目
国際連合の設立経緯や日本の加盟に関する簿冊を公開しました。
・2類 国際連合>1項 総会>0目
第1回から第8回までの国連総会に関する簿冊を公開しました。
・2類 国際連合>3項 経済社会理事会(ECOSOC)、専門機関>2目 産業・貿易,3目 交通・通信・気象,4目 学術・文化・宗教,5目 衛生・保健・麻薬,6目 社会・労働・人権
国連と連携する各種専門機関への日本の加盟に関する簿冊を公開しました。
2類 国際連合>3項 経済社会理事会(ECOSOC)、専門機関>2目 産業・貿易
2類 国際連合>3項 経済社会理事会(ECOSOC)、専門機関>3目 交通・通信・気象
2類 国際連合>3項 経済社会理事会(ECOSOC)、専門機関>4目 学術・文化・宗教
2類 国際連合>3項 経済社会理事会(ECOSOC)、専門機関>5目 衛生・保健・麻薬
2類 国際連合>3項 経済社会理事会(ECOSOC)、専門機関>6目 社会・労働・人権
・2類 国際連合>7項 条約、協定>0目
国連特権免除条約や国連軍地位協定に関する簿冊を公開しました。
・3類 賠償>1項 本邦>1目 中間賠償
対日賠償政策における調査報告書や中間賠償実施に関する簿冊を公開しました。
・3類 賠償>1項 本邦>2目 平和条約関係
サンフランシスコ平和条約第14条に基づく賠償実施のため構成された、賠償実施連絡協議会の人事記録や幹事会議事録に関する簿冊を公開しました。
・4類 講和会議及び条約>1項 対日講和>1目 サン・フランシスコ会議及び平和条約
サンフランシスコ平和条約実施に関する簿冊を公開しました。
・4類 講和会議及び条約>1項 対日講和>2目 個別講和
日印平和条約締結に関する簿冊を公開しました。
・5類 二国間>1項 政治、特殊>0目
旧日米安全保障条約締結に関する簿冊を公開しました。
・5類 二国間>2項 通商、金融、移住>0目
セイロンなど各国と日本の間に締結された貿易協定に関する簿冊を公開しました。
・5類 二国間>4項 交通、通信、気象、海事>0目
イギリス及びタイと日本の間に締結された航空協定に関する簿冊を公開しました。
・6類 多数国間>4項 産業>0目
国際小麦協定や国際捕鯨取締条約への日本の加入、国際捕鯨委員会の会議に関する簿冊を公開しました。
② 外務省外交史料館>戦後外交記録>C’門 国防、軍事
・2類 一般軍事、軍備>0項>0目
「終戦に伴う本邦軍事処理関係雑件」の簿冊を公開しました。
・2類 一般軍事、軍備>6項 基地、施設>0目
「在日駐留国連軍基地および施設関係」の簿冊を公開しました。
③ 外務省外交史料館>戦後外交記録>E’門 経済
・1類 本邦経済>0項>0目
日本の経済についてGHQとの来往信要旨や会談要旨に関する簿冊を公開しました。
・1類 本邦経済>1項 財政・金融>1目 租税、手数料
「本邦税制及び課税関係雑件/シャープ使節団来日関係」を公開しました。
・1類 本邦経済>2項 商業、保険>1目 会社、組合、商業団体
北支開発及び中支振興株式会社などに関する簿冊を公開しました。
外務省外交史料館>戦後条約書
・多数国間条約
降伏文書及びその調印とともに連合国から手交された指令第一号と、それに引き続く指令第二号、中国や韓国など各地で調印された現地日本軍の降伏文書を公開しました。
・二国間条約>アジア
インドネシアやカンボジアなどアジア13か国と日本の間に締結された、実務的な協定や交換公文に関する文書を公開しました。
大分大学経済学部の前身である大分高等商業学校、大分経済専門学校が、大正末期から昭和20年にかけて収集した資料の一部(約8,400点)を電子化し公開。本邦および旧植民地関係機関(満洲国、朝鮮総督府、台湾総督府、各地の商工会議所、企業等)が発行した調査資料などで、内容は産業、経済全般にわたる。12の地域別(一般及日本、台湾、朝鮮、アジア・東亜一般、満洲・関東州、支那、南洋一般、東インド諸島、タイ、ロシア、アメリカ合衆国、国際・世界)に分類。
1931年9月18日、関東軍により満洲事変が引き起こされ、1932年3月1日には、対外的には独立国であると主張された「満洲国」が成立しました。その後、1933年2月24日に実施された国際連盟総会の投票において、独立国であるとする満洲国の正当性が否決され、日本側全権代表の松岡洋右がその場を退席し、のちに日本が国際連盟を脱退したことは周知のとおりです。
現在では、満洲国は日本の「傀儡国家」として位置づけられており、中国では傀儡を意味する“偽”という言葉を付して「偽満洲国」ないしは「偽満」と称されています。しかし、当時満洲国が国際社会からまったく隔絶して存在していたのかというと、必ずしもそうではありませんでした。満洲国は限定的ではありますが他国との間で外交関係を有しており、満洲国消滅すなわち日本敗戦時まで、満洲国にはいくつかの外国公館が置かれていたのです。
満洲国の外交については日本側がコントロールしていたと考えられており、それゆえ日本外務省の文書の中に、満洲国と他国の間の国交や在外公館設置に関わる文書が多数含まれることとなりました。本稿では、主に外務省外交史料館により提供された「戦前期外務省記録」に含まれている文書に基づき、満洲国に置かれていた外国公館が、なぜ、どのようにして設置されたのかについて紹介したいと思います。
満洲事変後、国際連盟はリットン調査団を派遣し、日本の軍事行動の正当性を調査しましたが、日本はリットン調査団の報告書が公表される直前の1932年9月15日に満洲国との間で日満議定書を締結し、最初に満洲国を承認しました。その後、国際連盟総会で満洲国の正当性が否定された後、最初に満洲国を承認したと考えられているのはバチカン(ローマ教皇庁)です。バチカンは1934年2月20日に吉林駐在司教ガスペーを満洲国におけるローマ教皇庁代表に任命し、その旨を1934年4月18日にガスペーより外交部大臣・謝介石宛の書簡によって伝えました (※注1) 。【画像①】
カトリック教団は満洲事変以前から満洲で活動しており、北平(北京の別称)大司教の管轄下に置かれていましたが、満洲国成立により教区を中国から分離させ、吉林駐在司教ガスペーが管轄することを決定したのです(※注2) 。これを以って、事実上の満洲国承認と考えられており、当時は「宗教的承認」とも称されていました(※注3) 。但し、バチカンは満洲国に外交使節団を派遣することはなく、公館も開設されませんでした。バチカンが満洲国を承認した理由については諸説あり、満洲国におけるカトリック教徒保護のため、満洲国を反共の砦になり得ると見なしたためなどが考えられています (※注4)。
バチカンに続いて満洲国を国家承認したのは、中米の国エル・サルバドルでした。エル・サルバドルは1934年3月3日付を以って満洲国を承認した旨を駐日総領事レオン・シグエンサに通告し、同年5月19日にシグエンサから駐日満洲国公使・丁士源に伝えられ、その中で両国の関係について「今後無限ニ鞏固ニスヘキ商業関係ノ設定セラレンコトヲ祈願スル」と述べました(※注5) 。これにより、エル・サルバドルは日本を除いて、最初に満洲国を政治的に承認した国となりました。しかし、実際には、それまで満洲国とエル・サルバドルの間にはほとんど交流はなく、貿易関係は皆無だったと言われています。
1938年8月に至り、満洲国とエル・サルバドルの間で修好通商条約締結の交渉が開始されましたが、エル・サルバドル側が積極的ではなく、結局締結されることはありませんでした(※注6) 。【画像②】
修好通商条約締結の交渉は進展しませんでしたが、同じ時期にエル・サルバドル側から新京(現在の長春)に名誉領事館開設を希望する旨の打診があり、エル・サルバドルは1939年5月2日に満洲国側の推薦により、新京在住の実業家・王荊山を在新京名誉領事に任命し、満洲国側は同年6月20日にエル・サルバドルの首都サン・サルバドル在住のラファエル・アッチェを名誉領事に任命しました(※注7) 。
エル・サルバドルがなぜ満洲国を承認したのかには諸説ありますが、太平洋戦争開戦後に執筆されたと思われる日本外務省の分析資料では、エル・サルバドルがもともと反米的な外交政策を採っていたこと、および1931年12月のクーデターによって成立したマキシミリアノ・エルナンデス・マルチネス政権をアメリカが1934年1月まで承認しなかったことへの腹いせから、スティムソン国務長官の不承認主義を無視して早急に満洲国を承認したとしています(※注8) 。しかし、飯島みどり氏が指摘するように、エル・サルバドルによる満洲国承認は、アメリカのマルティネス政権承認後に行われていることから、アメリカへの対抗措置というだけでは整合しない部分もあります(※注9) 。飯島氏の指摘のとおり、エル・サルバドルによる満洲国承認については、エル・サルバドル側の外交文書等に基づく研究の進展が望まれます。
その後は、イタリア(ムッソリーニ政権)1937年11月29日承認、スペイン(フランコ政権)1937年12月2日承認、ドイツ(ナチス政権)1938年2月20日承認、中華民国(汪兆銘政権)1940年11月30日承認など、枢軸国ないしは日本の影響下にある政権による承認が続きました。
最後に満洲国において公館を開設したのはタイでした。シャム(1939年6月にタイに国名変更)は国際連盟総会の投票において唯一棄権した国であり、それゆえ日本では「親日国」と認識されていました。しかし、シャムはその後も中立の立場から満洲国を承認しませんでした。
満洲国はシャムから米穀を大量に輸入しており、シャムにとって重要な輸出先であったと考えられます。一方、満洲国側では、対シャム貿易は赤字が続いていました。そのため、満洲国はシャムとの間で「求償的貿易協定」、すなわち満洲国が輸入する額の半分をシャムが満洲国から輸入する協定の締結を望んでいました。その想定では、満洲国はシャムから米穀・生ゴム・錫・木材など、シャムは満洲国から大豆・豆粕・豆油・柞蚕糸・絹紬・西瓜の種・硫安などをそれぞれ輸入することとなっていましたが、シャム側はそれら満洲国産品の需要がほとんどないという理由で応じませんでした (※注10)。
1938年12月のピブーン政権成立後は「親日」的な傾向が強くなったとされ、大連に貿易事務官を設置したりしましたが、日本側はタイについて「現状ニ於テハ満支ニ関シ政治的影響アル行為ハ極力回避セントスルノ意向ト認メラルル」と見ており、「経済的接近ヨリ延イテ政治的接近ニ引摺ル様工作スルコト適当ナルヤニ思考セラル」といった思惑がありました (※注11)。【画像③】
タイ(ピブーン政権)はその後日本と接近し、1941年8月5日に公式に満洲国を承認しました (※注12)。タイは日本との間で攻守同盟を結んでおり、日本との関係を考慮した上での満洲国承認でした。両国はそれぞれ、1942年5月19日に鄭禹(前奉天市長)を駐タイ公使に、同年6月10日にビラ・ビラヨーター少将(前駐日本大使館付武官)を駐満洲国公使にそれぞれ任命しました(※注13) 。しかし、1944年10月に至り在満洲国タイ公使館内において、公使と一等書記官および三等書記官の間で感情的な対立が生じ、一等書記官と三等書記官が在日本大使館に転任することとなり、在満洲国特命全権大使・山田乙三は「同公館ハ斯ル内部不統一ニヨル抗争ニ終始シアル為メ活動ハ一般ニ低調ニシテ殆ンド見ルベキモノナシ」と報告しています(※注14) 。その真偽のほどは不明ですが、太平洋戦争の情勢悪化によりタイ本国との人事異動が滞る状況下での閉塞感のようなものが見て取れます。
これまで、在タイ満洲国公使館および在満洲国タイ公使館の具体的な活動はほとんど明らかにされていませんが、タイ国立公文書館には満洲国承認に関する政策決定、満洲国公使館とのやり取りに関する文書などが多数所蔵されています(アジ歴ニューズレター第24号参照)。タイと満洲国の関係についても、それらの一次史料を利用した研究の進展が期待されます。
他方、満洲国では国家承認を伴わない公館開設というケースもありました。満洲事変以前から、ハルビンや奉天(瀋陽)など満洲の主要な都市にはソ連・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリア・オランダ・ベルギーなどが公館を開設していました (※注15)。
満洲国成立後、外交部総長・謝介石の名を以って「建国通告」が関係17か国宛に発せられ、各国が中華民国との間で締結した条約に基づく権利を引き続き承認する旨が通知されました。これに基づき、上述の各国は満洲国を承認していませんでしたが、駐満洲国公館は継続して置かれることとなったのです。
例えば、ソ連は満洲事変後、ハルビンに総領事館、大連と満洲里に領事館を開設していました。ソ連は満洲国を公式に承認することはありませんでしたが、満洲国成立当初から、事実上承認するという考えがあったと言われています(※注16) 。満洲国側は、1934年9月の「水路協定」締結、1935年3月に妥結した「北満鉄道買収」を以って、ソ連が事実上満洲国を承認したものと見なしていました。1938年7月以降は張鼓峰事件やノモンハン事件の勃発、1939年2月の満洲国の日独伊防共協定参加などにより満洲国とソ連の関係が悪化し、満洲国によるハルビンのソ連総領事館圧迫、ソ連領内の満洲国領事館圧迫などが生じましたが、そうした状況下でも日本側当局はソ連公館の引揚が起きないよう配慮していました (※注17)。【画像④-1・④-2】
その後、1939年9月にノモンハン事件停戦協定が成立し、1941年4月13日の日ソ中立条約において満洲国の領土保全および不可侵の尊重が明記されたことにより、満洲国とソ連の関係が改善したため、満洲国側はハルビンのソ連総領事館を「準承認国之部」に分類していました(※注18) 。しかし、1945年8月9日のソ連軍進攻が満洲国崩壊を決定付けたことは周知のとおりです。
特殊な事例としては、ポーランド領事館のケースが挙げられます。満洲国のポーランド人は主として、ロシアによる中東鉄道の敷設とハルビンの都市建設に従事するため、技術者として満洲に来た人々でした。満洲国成立後もポーランド人はハルビンを中心に1500人ほど居住しており、白系ロシア人・ソ連国籍の人々に次いで3番目の外国人人口を占めていたとされています。
ポーランドは1918年の独立後、1920年に在ハルビン領事館を開設していたと言われていますが(※注19) 、中国と正式な国交を樹立していなかったため、この領事館は公式に承認されたものではありませんでした。そのため、ポーランド政府は満洲国に在住しているポーランド人を保護するため、正式な領事館の開設を希望していました。
ポーランド側と満洲国側の交渉の結果、1938年10月19日に領事館を相互に設置することで合意しました(※注20) 。ワルシャワ大学教授エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ氏とアンジェイ・タデウシュ・ロメル氏の著書では、ワルシャワにある中央近代文書館所蔵史料などにより、駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメルと駐日満洲国大使・阮振鐸の間で、領事館相互設置・領事の任命・領事館員および在留市民に対する最恵国待遇と経済協力に関する覚書が交わされたことが明らかにされています。駐ハルビン領事には前駐トルコ大使館商務官イェジィ・リテウスキーが任命され、1938年10月27日付で満洲国側より認可状が発給されていますが、同年4月1日より実質的な業務を開始していたとされています(※注21) 。他方、満洲国からは朝鮮人の朴錫胤が駐ワルシャワ総領事として1939年5月にホノルル経由で赴任しました(※注22)。
ほどなくして第二次世界大戦が勃発すると、ドイツの圧力が強まる中で1941年10月4日に駐日本ポーランド大使館が閉鎖され、ハルビンのポーランド領事館も閉鎖が検討されることとなります。但し、満洲国側は「領事認可状ノ取消ヲ通告スルニ止メ暫ク事態ヲ見送ル」方針でした(※注23) 。【画像⑤】。
結局、ハルビンのポーランド領事館は1941年12月16日に閉鎖され、館員は1942年6月1日にハルビンを離れたと記録されています (※注24)。しかし、領事館閉鎖後は日本側の認可により後継組織として非公式の「ポーランド後見人委員会」が設置され、在満ポーランド人の保護を担ったと言われています (※注25)。
以上のように、満洲国には承認国・未承認国に関わらず、各国の国益や自国民保護のためなど様々な理由で公館が開設されていました。満洲国においては、外交上の重要な決定はすべて日本の外務省が主体となっていたため、日本側の外交文書でその概要を知ることができるのです。もちろん、日本側の外交文書だけでは一面的な見方になってしまうことは確かです。今後、当事国側の文書も利用した研究が進めば、当時の満洲国をめぐる国際関係のまた違った側面を見ることができるかもしれません。
【注1】「在吉林羅馬法皇庁代表「ガスペー」司教ヨリ満洲国外交部大臣謝介石宛公文」(Ref.B02032044200)。[↑]
【注2】情報写真送付ノ件」在満洲国特命全権大使菱刈隆、1934年5月3日(Ref.B04012538500)。[↑]
【注3】田口芳五郎『満洲帝国とカトリック教』カトリック中央出版部、1935年。[↑]
【注4】松本佐保『バチカン近現代史 ローマ教皇たちの「近代」との格闘』中公新書、2013年、112-113頁「コラム3 満州国承認」。[↑]
【注5】「在本邦「サルバドル」総領事「レオン・シグエンサ」ヨリ在本邦満洲国公使・丁士源宛公文」(Ref.B02032044100)。[↑]
【注6】「満洲国「サルヴァドル」国間修好通商条約関係一件」(Ref.B04013535000)。[↑]
【注7】「3.「サルヴァドル」国」(Ref.B14090507400)。「満「サ」間名誉領事館設置並修好通商航海条約締結問題」(Ref.B02130129800)。[↑]
【注8】 「エル・サルバドル国による満洲国承認の経緯」(Ref.B02030857200)。[↑]
【注9】飯島みどり「ある「親日国」の誕生―「満洲国」問題と1930年代エル・サルバドル外交の意図―(その一)」(『岐阜大学教養学部研究報告』第32号、1995年、59-60頁)。[↑]
【注10】「満暹間求償貿易協定締結ニ関スル件」バンコク村井公使より広田外務大臣宛、1938年5月18日(Ref.B04013716700)。[↑]
【注11】「駐日貿易事務官復活ニ関スル件」1939年9月30日在タイ特命全権公使村井倉松より外務大臣野村吉三郎宛(Ref.B15100445400)。[↑]
【注12】「在本邦泰国公使「ピャシー・セナ」ヨリ外務大臣豊田貞次郎宛公文」(Ref.B02032045300)。[↑]
【注13】 「鄭公使ニ対スル「アグレマン」ノ件」東郷外務大臣より在満梅津大使宛、1942年5月21日(Ref.B15100197900)、「「タイ」国駐満公使任命ノ件」坪上大使より東郷外務大臣宛、1942年6月17日(Ref.B15100228600)。[↑]
【注14】「「タイ」駐満大使館員赴任ニ関スル件」新京山田大使より重光大東亜大臣宛、1944年10月3日(Ref.B15100228600)。「駐満泰国公使館ノ内部確執ニ関スル件」在満洲国特命全権大使山田乙三より外務大臣重光葵宛、1944年10月11日(Ref.B14090520300)。[↑]
【注15】在奉天総領事・吉田茂より外務大臣幣原宛「外国領事館調ベ報告ノ件」(Ref.B15101034400)。在哈爾賓総領事代理・郡司智麿より外務大臣幣原宛「在哈爾賓外国領事館調査報告ノ件」(Ref.B15101034500)。[↑]
【注16】寺山恭輔「スターリンと満州―1930年代前半のスターリンの対満州政策」(『東北アジア研究』No.9、2004年)100-101頁。[↑]
【注17】「第一九八号」哈爾賓鶴見総領事より有田外務大臣宛、1938年11月4日(Ref.B02030837800)。[↑]
【注18】満洲国外交部特派員公署「駐哈各外国領事館員表」1943年6月1日現在(Ref.B14090655800)。[↑]
【注19】チャイェフスキ イェジィ著・鈴木健夫訳「中国東北部におけるポーランド人(1897~1949)」(『Север』No. 33、2017年3月)153頁。[↑]
【注20】 「満波領事館相互設置ノ件」陸軍省軍務課(Ref.C01003396600)。「満波間領事館設置相互承認ニ関スル交渉経過(第一輯)」駐日満洲国大使館、1938年4月5日(Ref.B14090518000)。「駐哈波蘭国領事ニ対スル認可状発給ノ件」特命全権大使植田謙吉より外務大臣有田八郎宛、1938年11月28日(Ref.B02032045500)。[↑]
【注21】エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ、アンジェイ・タデウシュ・ロメル(柴理子訳)『日本・ポーランド関係史』彩流社、2009年、159-161頁。[↑]
【注22】「満洲国朴錫胤総領事(朝鮮人)寄港ニ関スル件」在ホノルル総領事水澤孝策より外務大臣有田八郎宛、1939年5月24日(Ref.B15100226600)。[↑]
【注23】「波蘭国否認ニ関スル件」新京梅津大使より東郷外務大臣宛、1941年11月12日(Ref.B14090518000)。[↑]
【注24】 満洲国外交部特派員公署「駐哈各外国領事館員表」1942年7月1日現在(Ref.B14090655700)。[↑]
【注25】チャイェフスキ イェジィ前掲論文、159頁。[↑]
今回の特別展では、明治期の日本と東アジアの関係に着目し、外政を主とする中央省庁・行政機関・各種専門教育機関の変遷や、交通・通信・工業などの整備にスポットを当て、日本が西欧列強やアジア近隣諸国といかなる関係を築いてきたのかを探ります。
1.アメリカ議会図書館(→ウェブサイト)
アメリカ議会図書館(Library of Congress、略称LC)はアメリカ連邦議会に付属する国立図書館です。創立は1800年、現在の本館”Thomas Jefferson Building”は1897年に開館しました。大半の日本関係資料は本館にあるAsian DivisionのAsian Reading Roomで閲覧できますが、資料自体は別館で管理されています。
LCは占領期に日本から接収した多数の資料を所蔵しています。軍から接収した資料のほか、植民地期の台湾や朝鮮の資料、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が作成・収集した資料が含まれます。接収資料のうち公文書等の資料は1970年代までに日本への返還が行われ、現在所蔵している資料の大部分は図書資料です。1990年代に日本人研究者による整理が行われ、目録として田中宏巳編『占領接収旧陸海軍資料総目録 米議会図書館所蔵』(東洋書林、1995年)が刊行されています。目録刊行の後も日本軍関係資料の調査・登録が続けられ、現在ほぼ作業は完了しています。整理番号”CLC U21”の資料群に合計5,978点が登録されています。現在公開されているオンラインカタログのメタデータは刊行目録よりも情報量が豊富で、一部のメタデータには日本語など原語の文字情報も入っています。
一次資料は基本的に日本に返還されましたが、1921年のワシントン海軍軍縮会議の随員が作成した「華府会議報告」など、少数の一次資料が現在も所蔵されています。公文書等の一次資料については、メタデータに”mss”や”Manuscript”とタグ付けされていますので、絞り込み検索が可能です。
LCでは、外部機関によるデジタル化事業も含めて資料のデジタル化を進めています。日本に関係するデジタルコレクションとしては、日本の国立国会図書館(NDL)と共同製作した”Japanese Censorship Collection”が公開されています。未返還の検閲図書資料をデジタル化したもので、NDLのサイトや館内端末でも閲覧できます。
2.国立公文書記録管理局(→ウェブサイト)
国立公文書記録管理局(US National Archives and Records Administration、略称NARA)は1934年創設、アメリカ合衆国政府の公文書や貴重資料を保存管理する公文書館です。傘下に多数の分館や地域資料館、大統領図書館等を擁していますが、その中心となるのがワシントンD.C.の本館(ArchivesⅠ)と、メリーランド州カレッジ・パークのArchives Ⅱです。
本館はおもに第一次世界大戦前の記録資料、連邦議会の資料、家系調査や軍人履歴調査等に利用される資料等を所蔵・公開しているほか、博物館施設を併設しています。2階に独立宣言書・合衆国憲法・権利章典の原本が常時展示されているほか、同じ階の常設展示では、NARAが所蔵する公文書等やその管理方法についてわかりやすく展示しています。1階では2013年から公文書を活用した人権に関する展示が常設されています。
ArchivesⅡは1994年開設、ワシントンD.C.から離れたカレッジ・パークにあるため、大きなカフェテリアや長期滞在者用ロッカーなどが用意され、ワシントンD.C.との間の職員用シャトルバスが一般利用者に開放されているなど、利用者の便宜を図っています。
アメリカの公文書は、一部の機密資料をのぞいて作成後30年でNARAに移管されます。連邦議会の公文書は連邦議会に所有権がありますが、NARAで資料の画像データを閲覧することができます。現在NARAではオンラインの検索・画像閲覧システムが運用されていますが、資料の多さや資料構造の複雑さから、調査にあたってはアーキビストのレファレンスを受けることが推奨されています。
終戦後に連合国軍は日本の陸海軍や各官庁から文書を接収し、その一部はのちにNARAに移管されました。それらの原本は1950~60年代に大半が日本に返還され、現在のNARAには日本からの接収文書の大きなコレクションは存在しません。その他の日本関係資料としては、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)関係、極東国際軍事裁判(東京裁判)関係、軍のインテリジェンス関係、沖縄占領統治関係などの資料が所蔵されています。これらの資料については、国立国会図書館が継続的にマイクロフィルムでの購入を行っており、憲政資料室で閲覧することができます。
NARAでは館として資料のデジタル化に取り組むほか、2010年からパートナーシップ制度を活用して外部機関の資金による所蔵資料のデジタル化を推進しています。”Ancestry”や”Fold3”などの民間企業によるデジタル化の場合、一定期間内はオンライン公開が企業の有料サイトに限定され、NARAでは館内の端末のみアクセス可能となっています。所定の期間が経過し、企業側の同意が得られた資料は館外からも無料で閲覧可能になります。現在デジタル化済みの資料のうち約半数はパートナーシップによるデジタル化です。デジタル化した資料は原本の閲覧が停止され、特別な事情がない限りマイクロフィルムかデジタル画像での閲覧となります。なお、NARAや外部機関によるデジタル化事業のなかで、日本関係資料に対する集中的なデジタル化作業は、東京裁判関係資料などを除いてほとんど行われていません。
3.国立航空宇宙博物館 ウドバー・ハジー・センター(→ウェブサイト)
国立航空宇宙博物館(Steven F. Udvar-Hazy Center, National Air and Space Museum)は、スミソニアン学術協会が管理運営する博物館です。1946年に創設され、Washington D.C.中心部の本館と、ダレス国際空港に隣接する別館ウドバー・ハジー・センター(2003年開館)から構成されています。主な展示品は航空機や宇宙船で、日本関係としては、本館に零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、別館に紫電改などの日本軍機やB29エノラ・ゲイなどの米軍機が展示されています。別館にはアーカイブズのリーディング・ルームが開設され、航空や宇宙に関する現物資料や文字資料を閲覧することができます。
別館のアーカイブズは2012年に開室しました。2018年には本館のアーカイブズの収蔵品が別館に移管され、2019年には図書部門と共用のリーディング・ルームが増設されました。現物資料のほかマイクロフィルムなども所蔵しており、デジタルフィルムスキャナーで閲覧できます。
別館アーカイブズが所蔵するアジア歴史資料としては、”Captured German And Japanese Aviation Technical Documents”(マイクロフィルム資料)と”World War II Japanese Bombing Collection, 1945”(現物資料)があります。
”Captured German And Japanese Aviation Technical Documents”は、Air Documents Division, Technical Information Section (T-2), Air Material Command at Wright Field, OHが収集した、占領下の日本とドイツから接収された航空関係資料を撮影したマイクロフィルムです。日本関係では、日本国内の機関から接収したと思われる航空技術関係の研究資料や、日独間の技術提供に関するドイツの公文書などが含まれています。
”World War II Japanese Bombing Collection, 1945”は個人が博物館に寄贈した資料群で、連合国軍による日本空襲の写真資料や報告書等に加え、空襲の前後に宣伝目的で散布された「伝単」が含まれています。
1.インド国立公文書館(→ウェブサイト)
インド国立公文書館(National Archives of India、略称NAI)はImperial Record Departmentとして1891年に創設された、インド連邦政府文化省が管轄するアーカイブズ機関です。連邦政府の機関等から移管を受けた公文書や、歴史資料を所蔵・公開しています。総合リーディング・ルームに加え、民間組織や個人単位の資料コレクションを扱うプライベート・アーカイブズ部門が開設されています。休館日は日曜日と公休日となっています。
資料閲覧には、以下の手続きが必要です。まず、事前に以下の書類を用意します。①在インド大使館・領事館発行の紹介状(letter of introduction)、②所属機関発行の在籍証明書、③パスポートのコピー(顔写真、ビザ、住所の各ページ)、④資料閲覧申請書(NAIのHPからダウンロード)。リーサーチ・ルームの受付で上記の書類を提出し、資料閲覧許可証の発行を受けます。許可証に署名し、閲覧担当職員に渡すことで、閲覧が可能になります。
資料の検索にはPC端末でポータルサイト”Abhilekh Patal”か冊子目録かを使うのが基本です。資料の出納は10:00、12:30、15:00の1日3回で、それまでに出された申請をまとめて行う方式です。1回の出納冊数は20点までですが、短時間で返却すれば、追加で別の5点を出納することもできます。翌日以降に同じ資料を再度閲覧することも可能です。出納した資料は一週間以内に返却しなければなりません。
資料の複製はコピー機による複写が一般的ですが、要望があればデジタル媒体による提供も可能です。資料の写真撮影は禁止されており、デジタルデータを端末からプリントアウトすることもできません。資料の複製についての詳細は、閲覧室の担当アーキビストにご確認ください。
日本との関係にまつわる資料として、チャンドラ・ボースとインド国民軍(INA)に関する多数の資料がプライベート・アーカイブズ部門で公開されています。プライベート・アーカイブズ部門では、INAに関する資料群を複数公開してますが、そのうち”ACC No.623 I.N.A.RECORDS”と題された資料群は、1997年に国防省から移管されました。大半はイギリス軍のINAに対するインテリジェンス活動の資料ですが、「シンガポールで回収(Recover)された」と記された資料や、インド独立連盟昭南(シンガポール)支部に関わる資料、ヒンディー語で書かれた軍隊教範類なども含まれています。(ボースについては、2016年に別のポータルサイト”Netaji Subhas Chandra Bose Papers”で、インド政府が機密解除した303ファイル(約4万ページ)が公開されました。)
NAIでは、資料の保存と海外研究者の利便性向上のため、資料のデジタル化を進めています。閲覧室の端末で画像を閲覧できるほか、ポータルサイト”Abhilekh Patal”でも一部の資料画像公開を行っています。
2.ネルー記念博物館・図書館(→ウェブサイト)
ネルー記念博物館・図書館(The Nehru Memorial Museum & Library, 略称NMML)は、インド連邦政府文化省が管轄する施設です。1964年にインド初代首相ジャワハラール・ネルーが亡くなった後、彼の旧邸を博物館・図書館として利用する形で開館しました。邸宅の東側が博物館、西側が図書館となっています。インド国内外の学術研究に利用されています。
図書館内にあるマニュスクリプト(Manuscripts、手書き資料)部門では、1200件近くの組織や個人のコレクションを保存・公開しています。主なコレクションとしては、ネルーやマハートマ・ガンディーなどの重要人物や、インド国民会議や全インド女性会議などの組織があります。また、独立運動家や政治家、外交官など、現代インドを築いた人々のオーラルヒストリーをまとめた冊子資料も多数収集・所蔵しています。
博物館・図書館の休館日は土日及び指定された休日となっています(マニュスクリプト部門は土日も休館)。「指定された休日」には宗派別の祝日も含まれるなど複雑なので、事前に館に問い合わせるか、駐日インド大使館などで確認したほうがよいでしょう。
マニュスクリプト部門を利用する場合、以下の手続きが必要です。まず、事前に以下の書類を用意します。①在インド大使館発行の紹介状(no objection letter)、②所属機関発行の紹介状(利用者の研究テーマを明記)、③パスポートのコピー(顔写真、ビザ、入国記録の各ページ)、④パスポート用写真2枚。これらの書類をマニュスクリプト部門に提出するとともに、利用申請書類をその場で記入し、登録料500ルピーを支払います。(詳細は館の公式サイトを確認してください。)
なお、ネルーのコレクションのうち、1947年以降の資料を閲覧する場合には、これらの書類に加えて館長宛の閲覧許可申請書(様式任意)を提出する必要があります。
資料の出納は10:00、12:00、14:30の1日3回で、それまでに出された申請をまとめて行う方式です。1回の出納冊数は10冊です。
マニュスクリプト部門では資料原本の写真撮影は禁止されており、すべてコピーでの受け渡しとなります。冊子体資料の場合、複写範囲はコレクション全体の4分の1までに制限されています。複写物の受け渡しは、早くても翌日以降となるので注意が必要です。資料のマイクロフィルムも作成されており、同館の図書部門が管理しています。マイクロ化された資料については、プリントアウトかCDに複製しての交付が可能となっています。
日本との関係に関する資料として、さまざまな個人コレクションのなかにチャンドラ・ボースやインド国民軍(INA)関係者との間でやりとりされた手紙などが存在します。その他、ボースの側近やINA関係者、「婦人部隊」の参加者等から聞き取ったオーラルヒストリーの記録(英語版)も多数所蔵しています。
1.中央歴史文書館(→ウェブサイト(ポーランド語))
中央歴史文書館(ポーランド語:Archiwum Główne Akt Dawnych)は、1808年に「The General Home Archives」として設立され、ポーランド分割後(1795~1918年)に作成された公文書、およびポーランド中央政府・州政府・その他公的機関の文書を管理・所蔵しています。ポーランド独立後の1918年より、「The Central Archives of Historical Records」と改称され、現在に至っています。ワルシャワには主要な文書館が3館あり、中央歴史文書館はそのひとつです。他の2館は中央近代文書館とデジタルレコードアーカイブであり、中央近代文書館については後述します。3館ともポーランド文化省ポーランドアーカイブ局(The Head Office of Polish Archives , Ministry of Culture)の管轄下にあり、ポーランド国立公文書館本部(The Head Office of Polish State Archives)が所管しています。
中央歴史文書館では、12世紀から1918年までの歴史文書を所蔵しており、それぞれに担当部署(Division)があります。その内訳は以下のとおりです。
- (1)王族コレクション(Royal Archives)
- 12世紀半ばから18世紀末までのポーランド王国により作成された文書から成りますが、第二次大戦時に破損、散逸したものが多く、総数は多くありません。第二次大戦前は簿冊を立てて並べ70kmあったものが、第二次大戦後は7kmとなっています。
- (2)ポーランド分割時期の文書
- 1795年から1918年までのポーランド分割時期に作成された文書から成り、地域社会に関する文書、個人の資産に関する文書が含まれています。
- (3)個人文書コレクション(Private Archives)
- 1918年以前に作成された個人文書から成り、その中にはオフィシャルな内容が記載されているもの、例えば官僚が王に送った書簡などが含まれます。ポーランド独立に尽力した著名な政治リーダー、ユゼフ・ピウスツキに関する文書も一部含まれています。但し、ピウスツキ関係文書の大半は中央近代史文書館にて所蔵されています。
- (4)地図コレクション
- 地図や図面のコレクションであり、大半が手書きのものです。
上記に加え、閲覧室セクション、デジタルセクション、修復セクションがあります。
中央歴史文書館の主要なコレクションとしては、ユダヤ人コレクションもあり、主に16世紀から18世紀までのポーランドにおけるユダヤ人コミュニティに関する文書から成り、その多くが教会の記録(出生・死亡に関する記録など)となっています。
アジア関連資料としては、上述の個人文書コレクションや地図コレクションの中に、日本ないしは満洲に関わる資料が一部含まれていますが数量は多くありません。
なお、ポーランドにおける中央および地方の文書館を網羅した統合検索サイトがあり、同検索サイトを利用すれば、中央歴史文書館の所蔵資料も検索することができます。但し、英語ページは用意されているものの、目録はすべてポーランド語で作成されているため、ポーランド語のキーワードによる検索が必要となります。Archival resources online:https://szukajwarchiwach.pl/
資料のデジタル化については、約300万画像がデジタル化済であり、現在ではスキャニングによりJPEG画像データを作成しています。1990年代よりマイクロフィルムによる保存を行い、所蔵資料の3分の1がマイクロ化されていますが、現在ではマイクロフィルムの作成は行っていないとのことです。目録データはISAD(G)に依拠して作成され、大半がデジタル化されており、上述の通りオンラインでの検索も可能で、またEuropeanaにも参加しています。
同館のスタッフは70名ほどであり、その約半数がアーキビストです。同館のアーキビストは歴史学・古代ポーランド語学を専門とする方が多く、その他の人文科学を専門とする方もいます。修復セクションのスタッフには、美術の専門家に加え、バクテリアを対象とする生物学の専門家も在籍しているとのことです。
2.中央近代文書館(→ウェブサイト(ポーランド語))
中央近代文書館(ポーランド語:Archiwum Akt Nowych)は、ポーランド独立後の1919年2月に国家元首となったユゼフ・ピウスツキにより設立されました。同館では1919年以降、現在に至るまでの中央政府および各省庁で作成された文書を所蔵しています。1939年の時点で簿冊を縦に並べて35kmに及ぶ文書を所蔵していましたが、その約97%がドイツ占領下で失われたと言われています。現在では、簿冊を縦に並べて25kmに及ぶ文書を所蔵しているとのことです。それらのうち、主要なコレクションとしてはピウスツキ文書などがあります。
日本およびアジア関係資料としては、外務省の外交文書の中に多くが含まれています。中央近代文書館の所蔵資料も、上記の統合検索サイトArchival resources onlineで検索が可能となっています。
とくにポーランドと日本は対ソ連情報戦や、満洲国におけるポーランド領事館設置問題などで緊密に連絡を取っており、日本関係資料、満洲関係資料として多くの文書を所蔵しています※(↓)。例えば、上記の統合検索サイトで「Mandżuria(満洲)」・「Mandzukuo(満洲国)」といったキーワードで検索すると、関連資料を探すことができます。満洲関係資料の中には、例えば個人が所有していたと思われる1920~1930年代のハルビンで撮影された写真資料などがあります。また、満洲国関係では、ポーランドの在ハルビン領事イェジィ・リテウスキーからポーランド外務省に送られた書簡、満洲国の在ワルシャワ総領事・朴錫胤よりポーランドの外務大臣への書簡、満洲国国務総理大臣・張景恵よりポーランドの外務大臣宛書簡などが所蔵されています(今日の資料「満洲国をめぐる国際関係」参照)。
閲覧に際しては、事前に上記の検索サイト等で探した資料につき閲覧申請を出し、閲覧許可証がメール添付で送られてくるので、それとパスポートを持参して同館に行けば、すぐに閲覧が可能となっています。また、館内での手持ちのカメラによる資料撮影も可能です。
・国 内
6月19日
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GACoS情報探索ガイダンス(東京大学本郷キャンパス)でのデータベース講習
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開催期間
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イベント名
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内 容
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リンク
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2019年5月25日(土)~7月7日(日)
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当館では、板垣退助・江藤新平らが提出したことで知られる民撰議院設立建白書をはじめとした建白書や、大日本帝国憲法で国民の権利として規定された請願権に基づいて国民から政府に提出された請願書を所蔵しています。
本展では、建白・請願に関する制度の変遷とともに、時代を映し出す建白書や請願書から、当時の人びとが紙にこめた願いをご紹介します。 |
開催期間
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イベント名
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内 容
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リンク
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2019年7月2日(火)~10月4日(金)
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明治2年7月8日(1869年8月15日),外務省が創設され,初代外務卿(がいむきょう)に沢宣嘉(さわ・のぶよし)が就任しました。以後,外務省はわが国外交活動の中心として,その使命の遂行に努力し,今日さらに,わが国の発展と世界の平和のために尽力しています。
令和元(2019)年は,外務省が創設されてから150周年の節目の年にあたります。本展示では,外務省創設から150年の間に結ばれた諸外国との条約書等を中心に,外務省が所蔵する史料を通して,日本外交150年の歩みをご紹介します。 本展示がこれまでの日本外交の歩みをお伝えするとともに,これからの日本外交のあり方を考えて頂くきっかけとなれば幸いです。 |
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2019年
7月27日(土)、 8月24日(土) |
本年7月と8月の第四土曜日に本館・別館を開館します。なお,本館閲覧室については平日と異なり予約が必要です。
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団体などが主催する行事・研究会、学校の授業等において、アジ歴の紹介や利用ガイダンスなどを行うことが出来ます。ご希望の方は下記の「お問い合わせ先」までお知らせください。
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