オリンピックと日本
今年(2016年)は四年に一度のオリンピック・イヤーに当たります。 近代オリンピックが始まったのは第1回アテネオリンピック(1896年)からですが、日本が参加し始めたのは第5回ストックホルムオリンピック(1912年)からのことでした。 以後日本はオリンピックとどのように関わり、活躍を拡げていったのか、その足跡を公文書の記録のなかから辿ってゆきましょう。
・初期の活躍―初参加そしてメダル獲得まで(1912年~1920年)
近代オリンピックが始まった第1回アテネオリンピック(1896年)から第4回ロンドンオリンピック(1908年)までは、主に欧米の国々の選手だけで行われました(英連邦植民地からの参加を除く)。 近代オリンピックの創始者であるクーベルタン男爵は、アジアからの参加を視野に、国際オリンピック委員会(IOC)の日本代表委員となり得る人材を求めました。 その結果、1909年に講道館柔道館長の嘉納治五郎氏に白羽の矢が立ち(レファレンスコード:B07080282000)(【画像1】(仏語原文)・【画像2】(日本語訳)参照)、1911年嘉納氏を中心に後の日本オリンピック委員会(JOC)の母体となる大日本体育協会が設立されました。
日本初の参加となる第5回ストックホルムオリンピック(1912年)には、陸上短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2選手が参加しました。 ですが三島は予選落ち、金栗は途中棄権に終わり、世界との差を痛感する大会となりました。 金栗はこの時の日記に、「これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり」、と悔しさを滲ませています。 またオリンピックはアマチュア選手による参加が主体であり、日本はまだ資金面で必ずしも恵まれた環境にはなく、その後選手の育成や参加をどのように行ってゆくかが大きな課題となりました。
第一次世界大戦による中止(第6回ベルリンオリンピック(1916年))を経て再開された第7回アントワープオリンピック(1920年)では、大日本体育協会が政府に対して選手派遣の費用補助を願い出るものの(※注1) 、結果的に認められず寄付金で賄うことになりました。 それでもテニスのシングルス(熊谷一弥)とダブルス(熊谷・柏尾誠一郎)で日本初となる銀メダル2個を獲得するなど、一定の成果を残す大会となりました。
・日本選手活躍の拡大(1920年代)
第8回パリオリンピック(1924年)でも大日本体育協会は選手派遣の政府補助を申請し(※注2) 、6万円が給付されました(現在の価格で約7000万円)。 この時も選手たちは予選会を通じて選抜されましたが、その中でも異例とも言えるのが、レスリング日本代表の内藤克俊でした。当時内藤はアメリカのペンシルバニア州立大学のレスリング部主将を務めていましたが、同年5月に排日移民法が施行され、アメリカ代表として国際大会に出場できなくなることを危惧しました。 そのため、同大学学長の推薦を受け、同州選出のダニエル・リード上院議員を通じて日本代表として参加できるよう駐米日本大使館へ働きかけ(レファレンスコード:B04012501700)(【画像3】参照)、その結果内藤はレスリング日本代表として出場し、見事銅メダルを獲得しています。 これは同大会日本代表唯一のメダルでした。
4年後の1928年は、初めての本格的な冬季オリンピックとして第2回サン・モリッツ(スイス)冬季オリンピックが開催され(第1回シャモニー(フランス)大会(1924年)は実験的開催)、クロスカントリーやスキージャンプ競技などに高橋昴主将以下6名が参加し (※注3)、日本初の冬季オリンピック参加となりました。 そして夏季大会では、第9回アムステルダムオリンピックにて、織田幹雄(三段跳び)と鶴田義行(競泳200メートル平泳ぎ)が日本初の金メダル、また人見絹枝(陸上女子800メートル走)が日本女子初の銅メダルを獲得するなどの好成績を収めました。 当時の田中義一総理兼外務大臣は、「帝国役員選手諸君一同の奮励努力に依り未曽有の成績を収め我『スポーツ』の名声を内外に挙けたるは我国民の誇とする所にして誠に欣快に堪えす深く其成功を祝すると共に諸君の労苦に対し茲に深厚なる謝意を表す」との賛辞を送っています(レファレンスコード:B04012502100)(【画像4】参照)。
【画像3】 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第一巻 5.第八回(パリ)(51画像目)
【画像4】 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第一巻 6.第九回(アムステルダム) 分割4(45画像目)
・戦争に翻弄されたオリンピック(1930年代)
そしてこの時の第9回アムステルダムオリンピック(1928年)日本選手団団長を務めた山本忠興や永田秀次郎・東京市長を中心に、日本にオリンピックを招致する運動が高まってきます。 1932年ロサンゼルスで開催されたIOC総会で東京は正式に開催地に立候補し、1936年ベルリンのIOC総会で「1940年東京オリンピック開催」が正式に決定されます。 (1940年東京オリンピック招致に関しては、アジア歴史資料センターのインターネット特別展「知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化」内の「東京オリンピック、1940年 ~幻のオリンピックへ~」と、インターネット特別展「『写真週報』にみる昭和の世相」内の「幻の東京オリンピック」をご参照ください)
【画像5】 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻 2.第十回(羅府) 分割4(31画像目)
【画像6】 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第三巻 3.第十一回(伯林) 分割2(57画像目)
第10回ロサンゼルスオリンピック(1932年)は、前年に勃発した満洲事変により日本に対する国際世論が悪化していた中で開催されました。 実際に1932年の満洲国建国はオリンピックの「満洲国代表」問題を引き起こし、満洲国体育協会が満洲国代表として派遣しようとした劉長春選手は華北に逃れ、彼は最終的に中華民国代表として参加しました―これは中華民国史上初のオリンピック参加でもあります。
この大会で日本は、男子競泳で6種目中5種目で金メダル(100メートル背泳ぎでは金・銀・銅の表彰台独占)、さらに南部忠平(三段跳び)や西竹一(馬術)も金を獲得するなど、金7個・銀7個・銅4個という目覚ましい活躍を遂げました。 またそれ以上に、首位争いの選手らにコースの内側を譲った竹中正一郎(陸上5000メートル)や、競技中に愛馬の疲労を案じて途中棄権した城戸俊三(馬術)など、日本選手のスポーツマンシップに対して高い称賛の声が送られ、「本大会は満洲上海事件以来の対日悪感情を殆と一掃し我国に対する米国の敬愛と親善の念を著しく高めたるは最も大なる収穫なり」と報告されています(レファレンスコード:B04012503000)(【画像5】参照)。
その4年後、第11回ベルリンオリンピック(1936年)では、三段跳びの田島直人(日本同種目3大会連続金)やマラソンの孫基禎、「前畑がんばれ」という実況で有名な前畑秀子(女子平泳ぎ200メートル:日本女子初の五輪金)など、金6個・銀4個・銅8個という前回ロサンゼルス大会と劣らぬほどの戦績を残しました。 ですがこの時の大会の日本側の公文書には、ナチスが本大会を通じていかに「平和的」であるかを内外に誇示するために、宣伝に非常に力を入れていたという点に多くの記録が割かれています。 国際観光局による調査資料は、本大会におけるドイツの宣伝体制を仔細に報告しつつ、「宣伝の規模と組織に於てこれ程のものは世界に前例がない」とドイツが誇っている様子を伝えています(レファレンスコード:B04012503500)(【画像6】参照)。
その後国際情勢は徐々に悪化し、1937年日中戦争勃発により東京オリンピック開催への反対論が国内外で高まるようになりました。 1938年7月15日、日本政府は1940年東京オリンピック開催辞退を閣議決定し、翌日東京大会組織委員会は正式に開催を断念します(この間の経緯は、前述のアジア歴史資料センターのインターネット特別展をご参照ください)
戦前の日本の公文書に記録されたオリンピックとは、このような選手派遣の苦労や、活躍の拡がり、大会招致に向けた取り組み、さらには当時の国際情勢に対する外交官らの鋭い視点などを含めた形で、克明に記録されています。 オリンピック大会で活躍する選手たちの「舞台裏」で、政府や関係者らがどのように裏方で働きかけ支えてきたか、彼らの残した記録は時を経たいまも静かに訴えかけてきます。
【注1】「「アンヴェルス」市ニ於ケル「オリムピック」競技会ニ本邦選手参加方ニ関スル件」1919年8月8日(レファレンスコード:B04012501500 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第一巻 4.第七回(安土府) 分割1 (6~7画像目))[↑]
【注2】大日本体育協会「請願書」1920年2月(レファレンスコード:B04012501700 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第一巻 5.第八回(パリ) (2~7画像目))[↑]
【注3】「「オリムピック」冬季競技本邦参加方ニ関スル件」1927年12月9日(レファレンスコード:B04012501900 件名:国際「オリムピック」競技大会一件 第一巻 6.第九回(アムステルダム) 分割2 (5画像目))[↑]
【参考】
池井優「一九四〇年〝東京オリンピック〟 招致から返上まで」、入江昭、有賀貞編『戦間期の日本外交』、東京大学出版会、1984年
池井優「戦前日本の文化外交 オリンピックを中心として」、『外交史料館報』第10号、1996年12月
何文捷「第10回オリンピック大会満州国選手派遣問題に対する日本と中国の対応 日本外務省外交史料と中国新聞「申報」の分析を通して」、『体育史研究』第17号、2000年3月
田原淳子「第12回オリンピック東京大会の開催中止をめぐる諸外国の反応について 外務省外交史料館文書の分析を通して」、『体育学研究』第38巻第2号、1993年7月
橋本一夫『幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで』、講談社学術文庫、2014年
Sandra Collins, The 1940 Tokyo Games: The Missing Olympics: Japan, the Asian Olympics and the Olympic Movement, Routledge, 2007.
国立国会図書館「本の万華鏡」-「第15回 もう一つの東京オリンピック」(2014年2月)
・2015年度AAS年次大会(於アメリカ・シカゴ)への参加(2015年3月27日~29日)
AAS(Association of Asian Studies:アジア研究学会)はアジア地域を専門分野とする研究者の学術交流・情報交換などを目的として、1941年に設立されたアメリカの学術団体です。 毎年3月に開催される年次大会では、世界中のアジア研究者が3000名近く集います。 昨年の年次大会は、シカゴのシェラトン・シカゴ・ホテルを会場として、3月26日から29日までの4日間にわたって開催されました。 会期中、人文社会科学系を中心に322のパネル・セッションが行われ、参加者は全部で3074名にものぼり、大会は盛況のうちに終わりました。
一昨年同様、ブースでは、アカデミック関係の利用者がアジ歴にどのようなサービスを求めているのかを把握するため、訪問者に対してアジ歴利用促進のためのアンケート調査を行いました。 前回の2014年度AAS年次大会(於アメリカ・フィラデルフィア)では、アジ歴の認知度が3割であったのに対し、今回の調査では6割近くの方に認知されていることがわかりました。 また、アジ歴資料を閲覧する際に8割以上の方が、DjVu形式ではなく、JPEG形式の画像フォーマットを利用していることがわかりました。 このような利用現状を踏まえて、昨年度の新規公開資料については、試験的にPDF形式による画像フォーマットで閲覧できるように対応しました。 また、本年10月から運用を開始する次期アジ歴システムでは、すべての画像資料のPDF形式及びJPEG形式での閲覧が可能となります。
アジ歴のブースの様子
システム面での改善点については、昨年度の同様、テーマ別の用語検索機能を希望する声が多く、こうした要望を受けて、テーマ別歴史検索ナビ アジ歴グロッサリー検索「公文書に見る終戦-復員・引揚の記録-」を公開しました。 今後も、利用者の声を正確に把握するために、引き続きアンケート調査に取り組んでいくつもりです。
・全米日本語教育学会(AATJ)主催オープン・フォーラムにおける広報活動(2015年3月26日)
全米日本語教育学会(American Association of Teachers of Japanese: AATJ)は、米国における日本語教育を促進する目的で発足し、初中等・高等教育機関の日本語教師等によって運営されている学会です。 毎年、AAS年次大会と日時を合わせて同一会場で春季大会を開催しており、2015年度春季大会はAAS年次大会前日の26日にシカゴ・シェラトン・ホテルにて開催されました。 同日夕方には、在シカゴ総領事館と共催で同総領事館広報文化センターにてオープン・フォーラムが開催され、アジ歴職員は本件フォーラムに招かれて参加するとともに、広報活動を行いました。 フォーラムでは、大鷹正人・在米国日本大使館公使の挨拶に加えて、宮川繁・東京大学総合教育研究センター特任教授(MIT言語学教授兼任)による講演が行われました。 宮川教授の講演タイトルは、「オープン・エデュケーション―大学教育の役割の変遷(Open Education-Transforming the Educational Mission of the University)」というもので、オープン・エデュケーションの歴史、オープンコースウェア(Open Course Ware:OCW)やインターネット公開講座(Massive Open Online Course :MOOC)への期待と戦略などが述べられました。 講演後、MOOCの教材として、アジ歴資料の利用可能性等について、宮川教授と意見交換することができました。
・韓国国立外交院外交安保研究所(ソウル)及び啓明大学校国際学大学(大邱)でのアジ歴紹介
(2015年5月27日~28日)
2015年5月、アジ歴では大韓民国の2つの場所で、波多野センター長による講演と、平野研究員によるアジ歴紹介を行いました。
まず、5月27日に、ソウル特別市内にある国立外交院外交安保研究所を訪れました。 国立外交院は大韓民国における外交官の養成機関です。 そして、同院内に設置されている外交安保研究所(2012年に旧・外交安保研究院から移行しました)は、外交安保分野における韓国政府のシンクタンクとして外交政策研究を行っている機関です。
ここで行われた波多野センター長による講演「サンフランシスコ講和体制と日韓関係」には、この機関に所属する研究者の方々や、ソウル大学校等の研究者の方々が参加されました。 この時、参加者の皆さんにアジ歴の韓国語版リーフレットを配布したほか、司会をされた同研究所の曺良鉉教授からもアジ歴のご紹介をいただきました。 その後、主に研究所の方々に対してアジ歴をゆっくりご紹介する機会をいただきました。 まず、アジ歴の事業の概要及び意義についての説明を行った後に、実際のサービスの紹介と、データベース上の韓国・朝鮮関係資料の紹介を行いました。
参加者の方々からは、「歴史認識問題への1つの取り組みとして、アジ歴が資料の共有化という役割を担うという設立理念があるのならば、アジ歴が公開すべき資料は、第二次世界大戦終結あるいはサンフランシスコ講和条約締結までの時期のものというよりは、むしろそれ以降の歴史認識問題が展開する時期のものが重要と考えるべきではないか?」というご意見や、「朝鮮総督府の行政文書の類はどこに所蔵されているのか?」といったご質問が寄せられました。
アジ歴紹介の様子(波多野センター長)
次に、翌5月28日には、大邱の啓明大学校に移動しました。 同大の国際学大学(学部)の日本学科には多くの研究者や学生が在籍し、韓国内における日本研究の1つの拠点となっています。 今回は、この日本学科の学生・教員の皆さん約60名に向けたアジ歴紹介を行いました。会場は大型の階段教室だったので、正面の大画面を利用しながら、実際にアジ歴のホームページやコンテンツを紹介し、さらに韓国・朝鮮関係資料の紹介を行いました。 続いて、波多野センター長が大学主催の講演「サンフランシスコ講和体制と日韓関係」を行いました。
アジ歴紹介に参加された学生の皆さんは、必ずしも歴史学専攻ではなく、また、アジ歴を知っているという方もほとんどおられませんでしたが、熱心に話を聴く姿も見られました。 その一方で、教員の皆さんの関心は非常に強く感じられ、とりわけ資料紹介に際しては、三・一独立運動時の陸軍資料などに対して強い興味が示されていました。 また、事後の意見交換等の際には、アジ歴をこれまでも利用してきたという教員の方から、アジ歴のサービスを非常に高く評価する声をいただきました。
以上のように、一昨年のソウル大学校と国民大学校に続き、韓国におけるアジ歴紹介の試みとなりました。 やはり、特に教員や研究者の方々を中心に、既にアジ歴を知っている、使っているという方からは、高い評価や公開資料拡大についての期待をいただく一方で、若い学生さんを中心に、近代日韓関係史や近代日本史、あるいは近代韓国・朝鮮史に関心がありながら未だアジ歴を知らないという方もおられることから、引き続き、韓国での認知度向上の機会を探ってゆくことが重要だと思われます。
・2015年度AASアジア大会(於台北)への参加(2015年6月22~24日)
AAS(Association for Asian Studies:アジア研究学会)はアジア地域を専門分野とする研究者の学術交流・情報交換などを目的とした北米を拠点とする学術団体です。 AASのアジア大会は、2014年にシンガポールで第一回大会が開催され、2015年の第二回大会は台湾、2016年の第三回大会は京都で開催されました。 2017年は韓国で開催される予定です。
今回のアジア大会は中央研究院(台北市)で開催され、6のラウンドテーブルと105のパネルセッションが行われました。 今大会の参加者は、3日間で約600人に上りました。
アジ歴はパネルセッションが行われた主会場の展示スペースにおいてブースを出展し、広報活動を行いました。 アジ歴ブースには各セッションの合間、あるいは昼休みの間に多くの来訪者がありました。 ブースでは、アジ歴リーフレット、広報グッズを配布しながら来訪者に説明を行うとともに、アジ歴データベースについてのアンケート調査も実施しました。
アジ歴のブースの様子
アジ歴ブースへの来訪者には、台北での開催ということもあり、中国研究および東南アジア研究を専門とする研究者が比較的多く、日本研究を専門とする研究者は多くありませんでした。 そのため、すでにアジ歴データベースを利用しているという研究者は多くありませんでしたが、アジ歴データベースには中国や東南アジアに関する資料、および中国語や英語で書かれた資料も多数含まれている旨説明したところ、今後ぜひ使ってみたいという研究者もいました。 今回の広報活動においては、上述のようにこれまでアジ歴を利用したことのない新規の利用者を開拓することができ、非常に有意義なものとなりました。
・国 外
2016年
3月30日~4月6日 |
AAS(アジア研究学会)年次大会(シアトル)でのブース出展
/ワシントン大学東アジア図書館での意見交換・所蔵資料調査
/国立公文書館シアトル分館での意見交換・所蔵資料調査
/ボーイング歴史アーカイブスでの意見交換・所蔵資料調査
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・国 内
2016年6月9日
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東京大学駒場図書館でのプレゼンテーション
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2016年
6月24日~28日 |
AAS-in-ASIA(アジア研究学会アジア大会)(京都)でのブース出展
/京都大学人文科学研究所での意見交換・所蔵資料調査
/舞鶴引揚記念館での意見交換・所蔵資料調査
/京都府立総合資料館での意見交換・所蔵資料調査
/関西大学でのプレゼンテーション
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2016年3月24日
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琉球大学附属図書館沖縄関係資料室 冨田千夏氏
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2016年4月12日
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台湾中央研究院近代史研究所副研究員兼档案館主任 張哲嘉氏
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2016年7月6日
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ワシントン大学東アジア図書館日本研究司書 田中あずさ氏
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2015年3月のアメリカ出張に際し、松尾資料情報専門官と佐久間研究員が以下の2機関を訪問し、日本関係資料の所蔵状況および資料のデジタル化について聞き取り調査を行いました。以下はその報告です。
シカゴ大学
シカゴ大学は1890年に創立された世界的に評価の高い名門私立大学で、ノーベル賞受賞者を多数輩出しています。 現在の学生数は、学部生約5,700人、大学院生約9,500人で、フルタイムの常勤教員2、200名です。 シカゴ大学での東アジア研究は1936年に中国研究が始まったことに遡ります。 1950年代後半に日本研究プログラム、1980年代に韓国研究プログラムが開始され、委員会は現在、これらのプログラムに東アジア言語・文明学部を加え東アジア研究センターに発展しました。 センターには中国・日本そして韓国と3つの研究委員会が設けられ、それぞれを専門とする教員が所属しています。 訪問時の日本研究委員会の統括者であった東アジア言語・文明学部准教授Susan L. Burns(日本史研究)と同じく同学部准教授Hoyt J. Long(日本文学研究)、准教授Chelsea Foxwell(日本美術史)と意見交換を行い、アジ歴にある写真・地図等の資料をご紹介した後、所蔵資料の調査を行いました。
・シカゴ大学レーゲンシュタイン図書館・東亜図書館(Regenstein Library in Chicago)(→ウェブサイト)
レーゲンシュタイン図書館は、シカゴ大学にある6つの図書館のひとつで、1970年に完成。 7階建の建物に、主に人文社会科学系の450万冊以上の図書を収蔵しています。 5階に東アジア関係図書を収蔵した東亜図書館(East Asian Collection) があります。
東亜図書館は1936年設立。 北米有数の東アジアコレクションとして知られ、約85万冊以上の東アジア言語(主に中国語、日本語、韓国語)のコレクション(書籍、新聞、定期刊行物、原稿、石版、マイクロフィッシュ、マイクロフィルム、CD-ROM等、デジタル図書を除く)を所蔵しています。 この他、チベット語、モンゴル語、満州語の文献や、約6万冊の英語や他の西欧言語の書籍も保有し、蔵書の言語別内訳は、中国語が55万冊、日本語が23万冊、韓国語およそ9万冊となっています。
レーゲンシュタイン図書館
Foxwell准教授 (左)とYuan Zhou博士(中央)
日本関係コレクションは、1950年代以降にシカゴ大学で日本研究が始まって以降、整備が進み、特に70~80年代には地域研究(Area Studies)の重要性が認識されたこともあり、大学の助成及び日本から金銭面のサポートがなされて拡大しました(代表的なコレクションは、大阪地域の各企業からの寄付金を基に構成される「日本研究大阪コレクション」)。 特に、蔵書の多い分野は文学・歴史・美術・漢学・宗教史等。 また、ミシガン大学と共同で、日米友好基金(Japan-United States Friendship Commission)から日本関係文献購入のための助成金を得て、ミシガン大学と共同収集、共同利用も行うなど、内外の大学との交流も活発に行っています。
レーゲンシュタイン図書館の3階には、ジャズ関連資料(レコード・CD・書籍)のコレクションをまとめたユニークな書庫もあり、広く利用に供されています。
今回の関連資料の所在調査では、同図書館に所蔵されている、【1】波多野乾一コレクション、【2】松本文庫中国関係新聞切抜綴、【3】Japanese materials Chinese military and political organizations in the 1930's and 40'sの3点を調査しました。 いずれも、マイクロフィルムに収録されています。
【1】波多野乾一(1893~1963)は、大阪毎日新聞、時事新報等の北京特派員、北京新聞主幹等をつとめたジャーナリスト・中国研究者であり、戦前、外務省情報部嘱託、興亜院嘱託を務めました。 同資料の目録からは、外務省情報部作成の中国共産党の動向調査書などが多く含まれていることを事前に確認していましたが、あいにく同館では該当する資料は欠番となっており、未確認に終わりました。 なお、同コレクションは、(財)東洋文庫に所蔵されている資料と合わせて一つのコレクションをなしています。
また、アジ歴の外務省外交史料館>調書>情報局には、波多野乾一が選述した『中国共産党 一九三二年史~一九三七年史』が収められています。
【2】外務政務次官(昭和12年6月~14年1月)や民政党議員を務めた松本忠雄が収集した、清末・民国初期の日本語および中国語新聞から中国関係の記事や台湾、朝鮮、南洋を初めとする海外事情の新聞記事の切抜です。 旧東京都立大学図書館が購入した資料の複製(マイクロフィルム10本)を所蔵しています。 なお、松本(忠雄)記録とよばれる、彼が外務政務次官時代、外務省保管記録のうち、特に政治、外交、条約、借款関係等の主要記録を筆写した史料は、明治・大正・昭和にわたる約300冊に及ぶもので、昭和17年の外務省の火災、終戦時の焼却処分等によって消失した「原本記録」を補填しうる貴重な記録となっています。 「松本記録」(外務省外交史料館>外務省記録)については、アジ歴で閲覧が可能です。
松本記録のマイクロ資料
中国国民党組織や軍組織のマイクロ資料
【3】同盟通信社南支総局資料室等の作成にかかる中国国民党組織系統や軍組織一覧表等が収められたコレクションで、1930、40年代の国民党政権の人事や政治機構を知る上で欠かせない一級資料となっています。 目録はないため、マイクロフィルムの外箱に記載された資料件名をたよりに探すしかありませんが、同資料は、同盟通信社南支総局資料室編『重慶政権党政軍組織並重要人名録』1943年の名前で、東洋文庫での閲覧も可能です。
【参考】
波多野乾一コレクション目録(国立国会図書館蔵)
Eizaburo Okuizumi, Norio Okada, Materials on China, 1920-1950, from Japanese research sources : a user's guide to the microfilm edition of the Hatano Collection, University of Chicago, East Asian Library, 1990.
座談会「松本記録について―寄贈の経緯と史料的価値」『外交史料館報』第5号、1992年3月
・シカゴ大学マンスエト図書館 (The Joe and Rika Mansueto Library)(→ウェブサイト)
マンスエト図書館は、2011年に新設された図書館です。 既存の大学図書館の収容能力が限界に近づいたことから建設が決定されました(図書館の名前は、建設に際して多額の寄付を行ったマンスエト夫妻の氏名に由来しています)。 フロアには180の閲覧席の横には、資料保存のためのデジタル部門が併設されており、閲覧席の下には、350万冊を収容できる地下7階建の自動書庫と検索システム(Automated storage and retrieved system, ASRA)を備えています。 デジタル部門の撮影機材は多岐にわたり、資料のタイプに応じたデジタルスキャン用、オーバーヘッドカメラ、傷んで背割れしそうな書籍用のブックスキャナーを含めて合計5台を導入して、図書館所蔵の劣化資料のデジタル化を行っています。 その他にも画像補正用のスキャナーや地図などの大型資料をデジタル化するためのスタジオなども設置されており、様々な資料のデジタル化に対応できる体制となっています。 なお、デジタル化の画像形式についてはPDFを採用しています。
閲覧席
デジタル画像補正機材
ノースウェスタン大学
ノースウェスタン大学は、1851年創立の名門私立大学です。 全米の大学総合ランキングでは常に上位に入っています。 シカゴ郊外のエバンストンにメインキャンパスが、シカゴ市内にメディカルスクールのキャンパスや大学病院等があり、海外(カタール)にもサテライトキャンパスを有しています。 学生数は、学部生と院生を併せて約8,000人が在籍しています。 松尾資料情報専門官と佐久間研究員は、Laura Hein教授(近現代日本経済史)と意見交換を行うとともに、アジ歴の地図や写真といった資料の絞り込み検索機能や英語での検索方法について紹介する機会を得ました。
・ノースウェスタン大学文書館(Northwestern University Archives)(→ウェブサイト)
ノースウェスタン大学エバンストン・キャンパスには、Main Library 及びCharles Deering Libraryがあり、現在はMain Libraryが大学図書館の中枢の機能を担っています(1933年から1970年までCharles Deering Libraryが中央図書館の役割を果たしていました)。 大学アーカイブは、Charles Deering Libraryの中に存在しています。
大学アーカイブズはノースウェスタン大学の歴史に関するあらゆる資料を収集し研究利用に資するために、1935年に設立されました。 保存資料については、ノースウェスタン大学の非現用法人文書だけではなく、大学教員の研究成果や大学の刊行物、さらには音声資料、写真、映像資料などを広く収集し、一部デジタル化資料等(Football collection)を公開しています。 なお、米国アーキビスト協会の大学アーカイブ部が策定したガイドラインに従い文書管理を実施しています。
大学アーカイブズ資料保存庫の入口
出納の様子
資料の所在調査については、【1】ジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore)文書、【2】コールグローブ(Kenneth W. Colegrove) 文書の調査を行いました。
【1】慶應義塾大学法学部法律科の開設に尽力した、ノースウェスタン大学教授ジョン・ヘンリー・ウィグモア(1868―1943)の寄贈文書であり、全部で約160の無酸性保存ボックスに分類されており、その内約14箱のボックスに、日本法律史の講義ノートや民法典論争期のお雇い外国人ボアソナード(明治政府法律顧問)との交流をしめす書簡、論文や研究資料、あるいは慶應義塾大学でのエピソードや福澤諭吉との交流を示す資料などの日本関連資料が含まれており、徳川時代や明治初期における日本の近代法の形成過程をうかがい知る上で貴重な資料群となっています。
ウィグモア文書
コールグローブ文書(左が大山郁夫)
【2】日本占領期にGHQ憲法問題担当政治顧問をつとめた、コールグローブ(1886-1975)ノースウェスタン大学教授)の個人文書です。 なお、ノースウェスタン大学には、日本占領のための民政要員を教育する学校(CiVil Affairs Training School)が設置され、彼はそこでも講義を行っていました。 コールグローブは、大山郁夫(労農党委員長・早稲田大学政治経済学部教授)がアメリカに亡命した際(1932~1947)に公私にわたり庇護しました。 また、大山もノースウェスタン大学政治学部調査員としてコールグローブの研究助手を務めたことから、明治憲法についての論説や、明治憲法に対するコールグローブから大山への質問等のやり取り等の資料が残されています。 同文書は日本国憲法の成立過程における思想的変遷を研究する上で、欠かせない資料となっています。
【参考】
ARCHIVAL AND MANUSCRIPT COLLECTIONS Guide to the Kenneth W. Colegrove (1886-1975) Papers
Provost Marshal General's Office 旧蔵 “History of Military Government Training”(国立国会図書館憲政資料室所蔵)
梅森直之「ある「亡命」の経験―大山郁夫、エヴァンストンでの5150日」、『早稲田政治経済学雑誌』第341号、2000年1月.
2015年6月の台湾出張に際し、松尾資料情報専門官と大野研究員が以下の2機関を訪問し、日本関係資料の所蔵状況および資料のデジタル化について聞き取り調査を行いました。 今回訪問した2機関の状況は以下の通りです。
・国家図書館(National Central Library)(→ウェブサイト)
国家図書館は、もとは1933年に国立中央図書館として中国の南京において設立が準備され、その後日中戦争の激化に伴い、1937年に重慶へと移転され、1941年に正式に設立されました。 日中戦争の終結後、中国における内戦の影響で1948年末から1949年にかけて、同館が所蔵する貴重書が台湾に移送され、中国における国民党の撤退に伴い、最終的に1954年2月に台北において再度正式に開設されました。
同館は台湾唯一の国立の中央図書館として法定納本機関に指定されており、台湾で出版されるすべての出版物について収集・目録作成・保存を行い、学術研究や一般の利用に供することとなっています。同館が正式に開館した1956年以降収集した出版物(主として台湾で刊行された出版物・政府刊行物・図書等)は400万冊に達します。 そのうち、同館が所蔵する日本関係資料は約20万冊あります。
国家図書館の外観
館内の様子
同館の所蔵資料は、上述の中国から運ばれた貴重書コレクションを除くと、1949年以降に台湾で出版された中国語図書が主であり、戦前期(日本統治期)の台湾に関係する資料は多くが国立台湾図書館に所蔵されています。 同館が所蔵する日本統治期の資料は約600点あり、それらは1954年以降に収集されたものとなっています。 それらの日本統治期の資料はすでにデジタル化されていますが、すべて同館内でのみ閲覧が可能となっています。
その他の日本語資料については、購入・寄贈、ないしは日本の国立国会図書館との交換によるものです。 上述の日本統治期資料を含む、すべての日本語資料は、同館内の日韓文閲覧室において一般の利用に供しています。 国家図書館が所蔵する日本語資料についても、同館の蔵書検索システム(館蔵目録査詢系統)で検索することが可能です。
前述の貴重書コレクションについては、同館内の善本書室において所蔵されています。 善本書室では、1万2900セットを超える清朝期以前の古典籍(約13万5000冊)を所蔵しており、それらには敦煌文書(巻物)、宋代・金代・元代・明代の書籍、手稿本、写本、注釈書などが含まれています。 これらの貴重書は檜造りの特別な書棚に入れて保管されており、原則として閲覧には複製、ないしはデジタル化したものを供しています。
日韓文閲覧室
善本書室
また、同館においては台湾内外の漢学研究を推進することを目的として、1981年に「漢学研究資料及服務中心」(漢学研究資料サービスセンター)が設置されました。 「漢学研究資料及服務中心」は1987年に「漢学研究中心」(漢学研究センター)と改称され、現在に至っています。 同センターでは、主に中国語の簡体字で書かれた図書を中心に所蔵しています。
同館における資料のデジタル化については、台湾政府のデジタル化計画(1998~2012年)に参加する形で始められ、2002年にデジタル化資料のデータベースを開設しました。 デジタル化の対象としては、上述の日本統治期資料や貴重書コレクションに加え、清朝期から日本統治期にかけて作成された書契、家譜、金石拓片(金石文の拓本)、絵葉書、卒業アルバムなど多岐に亘ります。 上記のデジタル化対象資料については、同館所蔵の資料以外に、個人や団体および民間の図書館などから原本を借用し、デジタル化したのちに返却するというケースもあるとのことです。
国家図書館のデジタル化資料については、インターネット上で公開されているのは目録データおよびサムネイル画像のみであり、同館内のネットワークでのみ資料全文ないしは画像を公開しています。
また、インターネット上の特別展示のコーナーもあり、例えば「臺灣記憶(Taiwan Memory)」では、日本統治期の台湾を撮影した写真や絵ハガキなどを閲覧することができます。
・国家発展委員会档案管理局(National Archives Administration, National Development Council)(→ウェブサイト)
国家档案管理局は、2001年11月に行政院研究発展考核委員会の管轄の下に設立され、2014年1月より国家発展委員会の管轄下に移されました。 档案管理局の主な業務としては、「国家档案」の移管・収集、および所蔵・公開、文書管理に関する規則やガイドラインの策定、文書管理システムの整備、行政機関への文書管理指導、および所蔵文書・資料の公開などがあります。
台湾においては、2002年1月に成立した「档案法」(Archives Act)に基づき、永久保存の対象として指定された各行政機関の文書はすべて档案管理局に移管され、「国家档案」として一元管理されることとなっています。 その他に、各行政機関で作成・保管されている文書は「機関档案」と称されています。 「国家档案」に指定された文書については、特殊な事情がある場合を除き、遅くとも30年以内に一般の利用に供することが同法第22条で定められています。
「国家档案」の選定および档案管理局への移管については、原則としてまず各機関において「档案法」に基づき保存年限の終了した文書につき「国家档案」に該当するかどうかを鑑定したのち、その結果を档案管理局に報告して審査を受けることとなっています。 また、档案管理局が移管すべき文書を指定するケースもあります。 档案管理局による「国家档案」に指定すべき文書の選定には、多くの方法がありますが、そのひとつとして、例えば、客観的選定、すなわち法律の規準に基づいて判断するものと、主観的選定、すなわち専門家による委員会の意見などを考慮して判断するものなどがあります。
档案管理局に移管された「国家档案」は、全宗(fonds)・系列(series)・案(file)・巻(item)の四階層に配列され、管理されています。 档案管理局が所蔵する資料としては、紙媒体のみでなく、写真・映像資料・電子媒体など多様な形式があります。 また、行政文書だけでなく、民間からの寄贈・寄託や購入による収集も行っています。
日本関係資料としては、日本敗戦後の日本側財産接収(接収日産)に関する文書、在留日本人の送還(遣送日僑)に関する文書、抗日救国団に関する文書等が所蔵されています。 档案管理局の所蔵資料の詳細は、以下のサイトでご覧いただけます。
また、档案管理局が運営する「国家档案資訊網(A⁺)」(国家档案検索システム)を利用すれば、キーワードによる検索が可能です。档案管理局が作成する「国家档案」の目録データは、上述の全宗・系列・案・巻に従って整備されており、項目としては「全宗名」・「案名」・「档案起迄日期(档案作成年月日)」・「档案産生者(作成者)」・「媒体型式」・「内容摘要(概要)」・「主題(テーマ)」・「数位化資訊(デジタル化状況)」が含まれており、上記項目のうち、「全宗名」・「案名」・「档案起迄日期(档案作成年月日)」・「档案産生者(作成者)」・「内容摘要(概要)」・「主題(テーマ)」が検索の対象となっています。
上記の文書や資料閲覧のため、档案管理局には資料閲覧室(国家档案閲覧センター)および展示スペースも併設されており、収蔵資料を広く一般の利用に供しています。
国家档案閲覧センター
展示スペース
2009年には、档案管理局が主体となり、他のアーカイブ機関・図書館・博物館・大学等と協力して、それぞれの機関の所蔵資料を横断的に検索できるシステム(档案資源査詢整合平台 Archives Cross Boundaries, 通称ACROSS)を構築しました。 ACROSSの参加機関には、国史館・中央研究院・国家図書館・国立台湾図書館・故宮博物院・国立台湾大学などがあります。
資料のデジタル化については、2015年6月の時点で所蔵文書全体の5%がデジタル化済となっています。 デジタル化の対象については、閲覧頻度の高いものと破損の可能性が高いものを優先的にデジタル化しています。 デジタル化済の資料については、同局内のネットワークで閲覧が可能となっており、また利用申請を提出して許可されたものについては、デジタル化した複製物の提供、もしくは電子メールによる提供も可能となっています。
資料のデジタル化に加え、2013年には電子記録サービスセンター(Electronic Documents and Records Service Center)を档案管理局内に設置し、電子公文書・電子認証等の普及促進、情報技術開発等を行っています。
2015年11月に、広島県呉市で行われた全国博物館大会への出張に際し、大野研究員と佐久間研究員が広島県立文書館を訪問し、日本関係資料の所蔵状況および資料のデジタル化について聞き取り調査を行いました。
・広島県立文書館(→ウェブサイト)
広島県立文書館が開館するに至る経緯は、日本学術会議の勧告(昭和34年11月「公文書散逸防止について」)を契機とした広島県立文書館設立期成会の設立にまで遡ります。 この運動によって、文書館の設立及び官公庁の廃棄文書選別保存の必要性が関係方面に説かれると、昭和41年3月から広島県の廃棄行政文書の選別・収集作業が開始されました。 また、昭和43年4月から昭和59年3月にかけて広島県史編さん事業(全27巻)で収集した資料等の保存・管理も必要となったことから、昭和63年10月に広島大学工学部跡地の一角(広島県情報プラザ内)に広島県立文書館が設置されました。
同館では広島県庁で作成される膨大な量の行政文書のうち、廃棄予定の文書から、毎年一部を選別・収集しています。 また選別後30年が経過した行政文書をもう一度ふるいにかけ、こうした二度にわたる選別作業で歴史資料として重要な行政文書、約57,000冊を、永久保存史料として保存しています。 行政文書以外にも、行政資料(県・国・市町村が刊行する各種行政刊行物、外郭団体や民間団体の刊行物を含む)が約104、000冊、古文書(県庁作成でない文書の総称で寄贈・寄託されたもの。一部は文化財に指定)約249,000点、さらに県史編さんに利用された史料を含む複製資料、約236万コマ約40,000冊(古文書を撮影したマイクロフィルム等)、都道府県史、市町村史、郷土に関する図書約23,000冊を所蔵しています(平成28年3月31日現在)。 文書館が保有・保管するこれら資料は、個人若しくは団体の秘密保持又は公益上の理由により利用提供が不適当なものを除き、原則として公開されることになっています。
行政文書の中には、第二次世界大戦の終戦後、連合国軍による日本占領の開始後の昭和21年に、中国四国地方に英連邦占領軍が進駐し、間接統治が行われた経緯から、復員・引揚関連資料をはじめ、英連邦軍による占領期の行政文書を含めて、約57、000冊(平成28年3月31日現在)が所蔵されています。 また広島県は移民数の多い県でもあり、広島県史編纂時に収集した『日伯新聞(サンパウロ)』、『伯剌西爾時報(サンパウロ)』、『桜府日報(サクラメント)』、『馬哇新聞(ハワイ)』『日米(サンフランシスコ)』、『大陸日報(バンクーバー)』、『コロラド新聞(デンバー)』『山東新聞(デンバー)』を利用者の閲覧等に供しています。 また、同館が『広島県移住史』を刊行するにあたって、複製収集した移民関係写真(『広島県移住史写真目録』も有り)も閲覧利用に供されています。 その他、多数の原爆資料を所蔵するほか、同館が所蔵する「広島市 田中嗣三資料」に含まれる『LIVING HIROSHIMA(生きているヒロシマ)』(廣島縣觀光協會,昭和24年)の写真原稿(原爆投下による廃墟から復興へと歩み出す広島の様子を写したもの)については、広島県立文書館HPにてデジタル公開されています。 また、利用の多いデジタル資料として、明治期から昭和戦前期の絵葉書である「長船友則氏収集資料」があります。
所蔵資料の様子
所蔵資料の様子
また、同館では利用促進を目的として、毎年3月に『広島県立文書館だより』を発行し、行政文書や県内の古文書に関する情報・記事・寄稿文のほか,新たに収集・公開した資料の紹介、催し物、刊行物のお知らせを掲載しています。
【参考】
広島県立文書館 収蔵文書の紹介〈2010.6.16~9.4〉 駐留軍と県行政
広島県立文書館『LIVING HIROSHIMA(生きているヒロシマ)』写真原稿一覧、平成21年(2009)7月
アジ歴インターネット特別展「アジ歴グロッサリー 公文書に見る終戦―復員・引揚の記録―」 「呉地方復員局」
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7月16日~8月27日
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平成28年度 第2回企画展「ようこそ地獄、たのしい地獄」
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凄惨で残酷、おどろおどろしい地獄の世界―でもどこかちょっぴり楽しそう!?
古代インドを起源とする「地獄」は、仏教や道教と共に日本へ伝来して以降、土着の信仰などと混ざり合い、独特のイメージを形成しました。
本展では主に平安時代から室町時代にかけて成立した様々な古典籍から、古来、日本人が描いてきた「地獄」のイメージとその死生観についてご紹介します。
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期 間
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イベント名
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備 考
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リンク
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7月7日~9月30日
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特別展示「幕末へのいざない 第1部:黒船・開国・激動の幕末」
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ペリー来航から大政奉還に至る幕末の政治・社会の動きを、このたび国の重要文化財に指定された「通信全覧」と「続通信全覧」によって紹介し、ペリー来航の情報がどのように伝えられたのか、攘夷に揺れる日本はどのように外国と向き合ったのかを探っていきます。
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10月11日~12月27日
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特別展示「幕末へのいざない 第2部:西洋との出会い~幕末うぉーく~」
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「通信全覧」と「続通信全覧」から、西洋文明との接触や幕末の外国公使館に関する史料を展示予定です。
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【編集後記】
アジ歴ニューズレター第20号をお読みいただきありがとうございました。
今回は「対外活動報告」や「関連資料の所在情報」を充実させてお届けしました。
次号以降も引き続き利用者の皆様に役立つ情報をお届けしていきたいと考えております。
どうか今後ともご愛読頂けますようよろしくお願いいたします。
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