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「こどもの国」の戦争―弾薬庫から子供の遊び場へ―
「こどもの国」は、神奈川県横浜市青葉区と東京都町田市にまたがる丘陵地帯にある、敷地約100ヘクタール(東京ドーム約21個分)におよぶ自然豊かな遊び場です。開園は、現在の天皇皇后両陛下のご結婚に由来します。ご成婚を祝して全国から集まったお祝い金を元手に、「子供のための施設に使ってほしい」という天皇皇后両陛下のご提案から建設計画がスタートし、開園へと至ったのです。
1965(昭和40)年の開園以来、のべ入園者は4000万人を超え、週末は子供連れでにぎわう「こどもの国」ですが、戦時中、その敷地には、国内最大級の陸軍の弾薬製造・貯蔵施設「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同塡薬所」(いわゆる田奈弾薬庫)がありました。本稿では、アジ歴資料を基に、田奈弾薬庫の建設から解体までの経緯をたどってみたいと思います。
同地に弾薬庫が建設されることになったのは、1930年代末のことでした。1938(昭和13)年に、神奈川県側の地主が集められ、土地の買収に応じるように迫られたといいます。1940(昭和15)年5月20日付けで近衛師団経理部長が畑俊六陸軍大臣に提出した「接待費使用方の件申請」(レファレンスコード:C07091608500)からは、土地買収に尽力した官民に、一人あたり3円50銭(現在価値で約1万円)の接待費が申請されていたことがわかります(【画像1】)。
施設の建設は急ピッチで進められ、1941(昭和16)年1月には、各地から持ち込まれた部品に火薬を詰めて、地雷、手りゅう弾、対戦車砲、高射砲などの砲弾を製造する作業が始まり、戦地に向けて砲弾を送り出すようになりました。当初は、最寄りの国鉄(現在のJR)長津田駅まで弾薬などをトラックで運び、長津田駅から横浜線で横浜港まで輸送していましたが、1940(昭和15)年春には、長津田駅までの鉄道(現在の東急こどもの国線)敷設工事が始まり、1942(昭和17)年頃からは弾薬庫から直接鉄道を使って貨車輸送できるようになりました。
この鉄道敷設工事の進んでいた1940(昭和15)年8月、長津田駅に外資系企業が進出しようとしたことで、安全保障上の懸念が浮上しました。当該企業は、工作機器の輸入、製造、加工、販売などをおこなっているドイツ系商社でした。もともと横浜線は、山梨県や群馬県の生糸を横浜港へ運ぶために敷設された路線で、長津田周辺は外資系企業にとって比較的アクセスの良い立地だったようです。
1940年8月29日、外資系企業による工場建設の話を察知した東京陸軍兵器補給廠は、横浜憲兵分隊長に対し、当該工場の内容や作業の種類などの調査を求めました。これに対して、横浜憲兵分隊は直ちに調査をおこない、9月11日付けで、当該企業の役員名や株主名簿、外国人社員数、新設工場の事業内容、同社にかかわる陸軍関係者の名簿などを回答しています。回答を受けた東京陸軍兵器補給廠の上部組織にあたる陸軍兵器本部は、9月19日付けで陸軍省に宛てて、極秘文書「防諜上外国人の資本による工場建設阻止せられ度件」(レファレンスコード:C01004814000)を提出しました(【画像2】【画像3】)。文書では、軍事施設の出入口に外国人が自由に出入りできる工場が存在するのは防諜上不適当と考えられるので、至急、工場建設の中止を手配してほしいと述べています。このように外資系企業の進出は、現場の兵器補給廠においては、安全保障上、深刻な問題と捉えられたのですが、陸軍省の出した結論は、この程度の事項は、防諜上差し支えないとのものでした。
施設の整備が進んだ田奈弾薬庫では、戦時中、勤労動員された学生を含む3000人が砲弾などの製造に従事し、国内最大級の弾薬製造・貯蔵施設となりました。終戦時に貯えられていた弾薬は、15~20万トンにもおよぶといわれています。沖縄を除く本土への空襲で投下された弾薬が合計で約16万トン、沖縄戦で使用された弾薬・砲弾が約20万トンだったとされていますので、田奈弾薬庫に残された弾薬は途方もない分量でした。
残された弾薬は、弾薬庫から湾港まで運び出された上で米軍に引き渡され、海中に投棄されました。莫大な量の弾薬は、処分するだけでも大変な手間でした。1945(昭和20)年10月30日付けの「軍需品等の引渡概況調査報告の件通牒」(レファレンスコード:C15010993300)は、東部軍管区参謀長から第一復員参謀長に宛てて、弾薬等の引渡状況を通知したものです(【画像4】)。湾港まで運んだ後に米軍に引き渡すという現行のやり方では、引渡作業は数年におよぶと予想し、集積所でそのまま米軍に引き渡すか、海中投棄の際に使用する湾港の数を増やすよう、連合軍と折衝することを求めています。
旧日本軍の弾薬が運び出された後も、田奈の地はかつての農村へと戻ることはありませんでした。代わって、米軍の弾薬が運び込まれてきたのです。1950(昭和25)年~1953(昭和28)年の朝鮮戦争では、米軍の弾薬庫として活況を呈しました。弾薬庫としての使用が減り、地元への返還が本格的に検討されるようになったのは1960(昭和35)年に入ってからのことです。
現在でも、こどもの国の敷地には、頑丈なコンクリート製の弾薬庫跡が複数残っています(【画像5】)。あなたの身の周りにも、気をつけて探してみると、さまざまな戦争の跡があるかもしれません。アジ歴の資料は、そうした郷土の歴史をたどる手がかりにもなりそうです。
水沢光(アジア歴史資料センター研究員)
・国 外
2017年8月26日~9月4日
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第15回EAJS(欧州日本研究協会)国際会議におけるブース出展/ポルトガル国立図書館・ポルトガル国立公文書館における意見交換・所蔵資料調査
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2017年9月13日~18日
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EAJRS(日本資料専門家欧州協会)オスロ大会における報告
↓アジ歴報告の動画はこちら https://www.youtube.com/watch?v=8rwaeKRUbhk /ノルウェー国立公文書館における意見交換・所蔵資料調査 |
・国 内
2017年11月6日
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2017年11月7日~9日
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図書館総合展におけるブース出展
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韓国における日本関係資料所蔵状況
・韓国国立中央図書館(→ウェブサイト(日本語))
国立中央図書館は、韓国を代表する図書館として、韓国内外における書籍等を体系的に収集・保存・公開しており、所蔵資料は約1,100万点に及びます。1923年に創設され1945年まで運営された旧朝鮮総督府図書館の資料を引き継いでおり、多数のアジア歴史資料を所蔵していることでも知られています。旧朝鮮総督府図書館は、朝鮮の植民地統治に資する参考図書や朝鮮に関する文献を整備することと並んで、朝鮮研究に必要な和漢洋書を収集することを運営方針にあげていました。このうち東洋書の多くは日本語関係の資料でした。日本語関係資料は、明治以前に刊行された古典籍と、日本植民地期に出版された書籍の2つに大きく分けられます。古典籍のなかには、鎌倉時代の写本や版本などの貴重書もあります。一方、日本植民地期に刊行された資料は、当時「新書」と呼ばれた書籍で、東洋書だけでも14万冊に及びます。これらの資料の多くは現在デジタル化されており、国立中央図書館のサイト(注1)で、タイトル、著者名などから検索することができます。また、同館がサービスを提供しているサイト「朝鮮総督府官報活用システム」(注2)では、朝鮮総督府が1910年から1945年まで発行した「朝鮮総督府官報」を公開しており、朝鮮総督府官僚の任命、異動、退任などの状況や、行政機関や各種団体の設立や改廃などの情報を調べることができます。
注1)http://www.nl.go.kr/nl/dataSearch/data_wm.jsp
上記サイトを含め本記事(韓国における日本関係資料所蔵状況)で紹介するサイトは基本的に韓国語で制作されていますが、日本語資料については、日本語キーワードで検索することが可能です。ネット上で全文を閲覧できる資料も数多くありますので、ご興味を持った方は、是非、アクセスしてみてください。
注2)http://gb.nl.go.kr/
【参考文献】安惠璟著、中尾道子訳「韓国国立中央図書館所蔵の日本関係資料」『日韓の書誌学と古典籍』勉誠出版、2015年。
・韓国国家記録院(→ウェブサイト(日本語))
国家記録院は、重要な歴史資料を体系的に収集・保存・管理する韓国の国立アーカイブです。2004年に、それまであった政府記録保存所(1969年設置)を改称して設立されました。国家記録院では、韓国所在の朝鮮総督府文書の大部分を所蔵しています。所蔵する総督府文書は、以下の二つに大きく分かれます。一つは、朝鮮総督官房文書課が管理していた資料で、多くは、地方行政機関が自らの行政活動に関する文書等を総督府中央に送付したものです。二つ目は、総督府所属の中央行政機関や地方行政機関で保存されていた資料です。詳しくは、同院が出版した資料目録『政府記録保存文書目録』(1977年~1985年刊行)および資料解説『日帝文書解題』(2004年~刊行)をご覧ください。また、資料の一部は、同院のサイト(注3)で「独立運動関連判決文」「日帝強制占領期被害者名簿」「日帝時期建築図面アーカイブ」「地籍アーカイブ」「朝鮮総督府記録物」などのコンテンツ名で公開されています(サイト上では韓国語でコンテンツ名が記載されています)。
【参考文献】 村上勝彦「韓国所在の朝鮮総督府文書」(井村哲郎編『1940年代の東アジア』アジア経済研究所、1997年)。[インターネット上で閲覧可能]
・国史編纂委員会(→ウェブサイト(韓国語))
国史編纂委員会は、朝鮮に関する歴史資料の調査収集、編纂を担う韓国を代表する国立研究機関です。1997年にユネスコの世界記憶遺産に選ばれた朝鮮王朝実録の復刻版の刊行や現代韓国語訳のインターネット公開などでも知られています。国史編纂委員会が所蔵する貴重資料の一つに、朝鮮史編修会資料があります。朝鮮史編修会は、1925年に設置された朝鮮総督府直属の研究機関で、『朝鮮史』(1932年~1938年刊行)編纂のために多数の資料を収集しました。資料は、図書5,000冊、写真4,500巻に及び、その中には、在朝鮮日本公使館や領事館と日本外務省との間の秘密電報や公文書などの写真資料も含まれています。また、国史編纂委員会では、韓国国内における朝鮮史研究者の利便性を図るため、海外所蔵の朝鮮関係資料を積極的に複写収集しており、アメリカ、ロシア、日本、中国、イギリスなどから膨大な資料を体系的に収集しています。研究に役立つデジタル資料の公開にも積極的で、同委員会の運営する「朝鮮史データベース」(注4)では、朝鮮総督府職員録、朝鮮総督府中枢院などの一次資料のほか、日本植民地期の新聞、雑誌などを一括して検索することができます。
【参考文献】
羅愛子著、滝澤規起訳「近代韓日関係史料とその活用について―国史編纂委員会所蔵および刊行資料を中心に―」『東京大学史料編纂所研究紀要』第11号、2001年。[インターネット上で閲覧可能]
タイにおける日本関係資料所蔵状況
・タイ国立公文書館(→ウェブサイト(タイ語))
タイ国立公文書館は1916年に国立図書館の一部門として設置され、1952年より文化省芸術局 (Fine Arts Department, Ministry of Education) の管轄下に置かれています。
同館で所蔵している史料は、およそ日本の明治維新と同時期のラーマ5世統治期(1868~1910年)以降の行政文書が主であり、それ以前の史料は国立図書館に所蔵されています。分類については、タイにおける立憲革命が起きた1932年までが王の在位ごと(ラーマ5世~ラーマ7世)となっており、例えば「ラーマ5世」のファイル中に政治・外交・軍事といったテーマ別の目録が採録されている形となっています。立憲革命後の1932年以降は各省庁別の分類となっています。 データベースによる検索は対象が非常に限られており、基本的に冊子目録かカード目録で史料を探す形となっています。史料のデジタル化についても限定的であり、主に写真資料がデジタル化されていますが、同館内ネットワークのみの閲覧となっています。ちなみに、デジタル化された写真資料の中には戦後における昭和天皇とタイ国王の訪タイ・訪日時のものが含まれています。
日本関係資料については、上記のとおり、1932年までは各王統治期のファイル、1932年以降は各省庁のファイルの中に含まれています。例えば、外務省のファイルは対象の国別に目録が作成されており、No.25が日本となっています。また、国務院のファイルには在タイ外国公館の活動に関する文書が含まれており、その中に日本の公館に関する文書もあります。外交文書の中には日本の外務省および在タイ日本公館との間で交わされた文書も含まれており、それらは日本語で記されていますが、目録上では日本語の文書を含むか否かは判別できないため、タイ語が読解できなければそれらの文書を探すのは難しくなっています。
その他、タイ国軍最高司令部のファイル中には「太平洋戦争中におけるタイ・日本関係」と題する目録があり、1冊分すべてがタイと日本の軍事的な関係に関する文書となっている。この目録は元大阪外語大学教授・吉川利治氏の助力の下で作成され、その旨が目録中にもタイ語で記載されています。同資料群の中には、「泰国在勤帝国陸軍武官室」の用箋に記された杉山元からピブーンへの挨拶状、日本軍の移送にタイの鉄道を使用するための協定書などがあり、その内容は多岐に亘ります 。(注5)
上記に加え、タイは「満洲国」を承認していたという歴史もあり、満洲国に関わる文書も多数所蔵されています。国務院文書の中には、満洲事変後、満洲国を承認すべきかどうかを協議した際の議事録があり、承認した際の文書は国務院・外務省の文書にそれぞれ分類されています。また、タイに置かれた満洲国公使館との交換文書も外務省文書の中に多数含まれています。それらの文書には、「駐箚泰国満洲帝国特命全権公使 鄭禹」や「在タイ国特命全権大使 坪上貞二」の名義で書かれた文書が多数含まれており、自主外交の権限を持たなかった満洲国外交の一端が窺われます。興味深い資料としては、日本敗戦後の在タイ満洲国公使館の処遇に関わる文書もあります。
満洲国に関わる文書には、タイ語に加え、中国語・日本語・英語で書かれた文書が含まれており、それらによって内容の概略を知ることができますが、前述のとおり目録上は言語の情報がなく、目録自体がタイ語で記されているため、タイ語が読解できなければ利用は難しいと思われますが、海外に残されている太平洋戦争前後の日本関係史料という意味で、やはり重要な資料であると言えるでしょう。
注5)吉川利治氏によるタイ国立公文書館所蔵資料を利用した研究には、以下のものがあります。『泰緬鉄道:機密文書が明かすアジア太平洋戦争』同文舘、1994年。『同盟国タイと駐屯日本軍―「大東亜戦争」期の知られざる国際関係―』雄山閣、2010年。
開催期間
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イベント名
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内 容
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リンク
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2018年
1月13日~3月10日 |
太田道灌は、15世紀後半に関東で活躍した武将で、和歌に優れた知勇兼備の人物であり、江戸城を築いたことでも知られています。道灌は、扇谷上杉氏に仕え、享徳の乱(享徳3年〔1454〕に勃発した関東の大乱)で活躍し、また、彼が築いた江戸城が、近世に江戸幕府の本拠地となったことから、後世に名将と評価されました。本展では、当館所蔵の太田道灌に関連する資料を展示し、太田道灌の生涯と中世の江戸との関わりを紹介します。
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2018年
1月20日~3月18日 |
国立公文書館では、平成24年度より、各地の公文書館等で展示会を開催しています。 本年度は、福井県文書館・福井県ふるさと文学館との共催で所蔵資料展を開催します。本展示会では、当館で所蔵している、明治時代前期の重要な公文書や福井ゆかりの人物に関する資料、福井県の成り立ちに関する資料などを、福井県文書館・福井県立図書館等の所蔵資料と併せて展示し、明治時代前期の日本と福井の軌跡をたどります。
※会場は福井県ふるさと文学館です。国立公文書館ではありませんので、ご注意ください。 |
開催期間
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イベント名
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内 容
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リンク
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2018年
1月11日~4月17日 |
明治150年記念展示「国書・親書にみる明治の日本外交」
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平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から150年の節目の年に当たります。本展示では,各国の元首が明治天皇に送った国書・親書等を通して,明治の日本外交の足跡をご紹介します。
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【編集後記】
アジ歴地名・人名・出来事事典
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