2.新規公開資料のお知らせ
-2016年12月07日公開資料/2017年01月17日公開資料/2017年01月19日公開資料
-2017年01月31日リンク開始資料/2017年02月01日リンク開始資料
3.新しいコンテンツのご紹介 インターネット特別展「公文書に見る戦時と戦後 統治機構の変転」
4.対外活動報告
-広報活動/アジ歴へのご来館
5.関連資料の所在情報
日本国内における日本関係資料所蔵状況
-京都大学人文科学研究所/舞鶴引揚記念館/京都府立総合資料館
ヨーロッパにおける日本資料所蔵状況
-ルーマニア国立公文書館
-ベルリン自由大学キャンパスライブラリー/ドイツ連邦外務省外交史料館/ベルリン州立図書館
6.ご寄贈いただいた文献のご紹介
7.関連機関イベント情報
-国立公文書館/外務省外交史料館
シアトル、日系移民の歩み
アメリカ合衆国西岸の最北部に位置する、ワシントン州最大の都市シアトル(Seattle)。 この町が紡いできた歴史、そして現在の姿において、「移民」の存在は欠かせないものと言えるでしょう。 ここでは、「移民の町」として知られてきたシアトルにおける日系移民の人々の歩みを、アジ歴データベースから資料を取り出しながら追ってみたいと思います。
・シアトルの日本人会
1896年(明治29年)に、日本郵船株式会社が横浜港からシアトル港への直接航路を開設すると、シアトルには多くの日本人労働者が渡ってくるようになりました。 彼らの多くはダウンタウンの一角に集住するようになり、20世紀に入る頃には、日本人街(「日本町」(にほんまち)とも呼ばれます)が形成されていたようです。 また、これと同じ頃に日本人会も作られています。 「日本人会」とは一般的に、日本国外に滞在する日本人によって、例えば都市や地域ごとに結成されるコミュニティのことです。 多くの日系移民は、渡航先の地で日本人会や、同郷の人々による県人会などの団体を組織し、情報交換を進めたほか、外国の社会における自らの権利や利益の保護や拡大、また現地の人々との間の友好親善等に取り組みました。
【画像1】 シアトルの日本人街のシンボル、パナマ・ホテル(2016年3月30日筆者撮影)
「13.シヤトル商業会議所」(レファレンスコード:B08061531000)によれば(【画像2】)、1900年(明治33年)5月にシアトルで「北米日本人会」が作られています。 一方で、1908年(明治41年)1月に「日本人実業倶楽部」が作られ、これが1928年(昭和3年)1月に「シアトル日本人商業会議所」に改編・改称されています。 「北米日本人会」と「シアトル日本人商業会議所」は、1931年(昭和6年)に合併し「北米日本人会商業会議所」となっています。
また、坂口満宏氏によれば、シアトルで日本人会の組織化が始まったのは1899年(明治32年)2月頃であり、10月に会則等が整備された後、翌年にはワシントン州政府から法人の認可を受けたとのことです。 そして、1907年(明治40年)には制度を改めて「ワシントン州日本人会」(華州日本人会)に生まれ変わっています。 その一方で、ここから離脱した人々によって1910年(明治43年)に「シアトル日本人会」が組織され、一時的に2つの日本人会が並存したものの、1912年(明治45年)にはこれらが合併されて、新たに制度を整えて「北米日本人会」となったとのことです。
このように、経緯の詳細については諸説ある部分も見られるものの、シアトルの日本人会組織はおおむね1899年(明治32年)から1900年(明治33年)頃に誕生し、その後に分裂や合同を繰り返したようです。
・排日運動と「排日土地法」
シアトルで「北米日本人会」が誕生した頃のアメリカ国内では、排日運動、つまり日本人を排斥しようという動きが起きていました。 19世紀半ば以降、欧米で「アジア」に対する警戒心が高まっていく中で、アメリカ国内にはアジア諸国から労働を目的として多くの人々が渡ってくるようになっていました。 現地の労働者は、低賃金で働くアジアの人々によって自らの職が奪われることを恐れ、排斥に向かったといわれます。 こうした動きは、19世紀末頃には、特に数の大きかった中国系移民を対象として強まり、制度上でも中国からの移民が制限されるようになりました(※注1)。 やがては、早くから中国系移民と共に多数の日系移民も生活していたカリフォルニア州を中心に、以前からの労働者が、新しく入ってくる日本人労働者を排斥しようとするかたちとなり、排日の動きが激化したといわれます。 なお、当時のアメリカの制度上では、非白人であるアジア系移民がアメリカに帰化することは、事実上認められていませんでした(ただしアメリカで出生した子供には自動的にアメリカ国籍が付与されました)。
シアトルにおいてもまた、カリフォルニア州などの地域に比べれば規模は小さかったといわれるものの、排日が起きつつありました。 大きな節目となったのは、1921年(大正10年)の、ワシントン州でのいわゆる「排日土地法」の制定でした。 これを遡ること8年、1913年(大正2年)にカリフォルニア州で「外国人土地法」(英語の名称は“California Alien Land Law of 1913”)が制定されています。 この法律は、帰化資格のない外国人による土地の所有と3年以上の賃借を禁じており、事実上アジア系移民に対する制度的な排斥となりました。 しかし、当初から日系人の排斥が主な目的とされていたといわれ(※注2)、今日でも「排日土地法」という呼称が一般的となっています。 これと同様の法律が、ワシントン州でも制定されたわけです。
1924年(大正3年)に開催された、第49回帝国議会での説明資料である「2、排日諸問題/11、ワシントン州土地法違反訴訟事件」(レファレンスコード:B13081487700)によれば(【画像3】)、日系移民の農夫の人々は、土地の所有権を失うことは避けつつも、法律違反にはならないように、土地の名義をアメリカ人や、現地で生まれた自らの子供(アメリカで出生すると自動的にアメリカ国籍が与えられるためです)に書き換えるなどの対処を、この法律の施行に先立って行っていたとのことです。 しかしながら、ワシントン州の検事による追及が厳しく、法律違反として起訴される人々が出てきている一方で、その中には裁判所で起訴が不当であるとの判決を受け、勝訴した日本人もいると述べられています。
・パイク・プレイス・マーケットの日本人たち:1926年
ワシントン州での「排日土地法」の制定は、シアトル市内随一の公設市場である「パイク・プレイス・マーケット」(Pike Place Market)における日本人の活動をも大きく左右することになりました。 「12.「シヤトル」「パイク」市場」(レファレンスコード:B11092205500)は、法の制定から5年後の1926年(大正15年)6月19日付の、在シアトル日本領事館から日本本国の外務大臣に対する、このマーケットの状況についての報告です(【画像4】)。
この報告によれば、パイク・プレイス・マーケットで農作物等を販売している全152名の業者の内、日本人は過半数の82名に及んでおり、また市場内のアーケードと呼ばれる目抜きの店舗全12~13軒の内の7軒を彼らが占め、いずれの営業状態も良好です。 これに対して以前から他国の業者たちの反感が強まっており、1922年(大正11年)には、日本人の花屋を市場から追放する運動が起きています。 そして1926年(大正15年)の4月中旬には、日本人に次ぐ人数(60名)であったイタリア人業者たちが、日本人業者そのものを市場から追放することを求める請願書を市議会に提出しました。 この請願書に対しては、市議会も、また市場の経営をシアトル市と共同で担うグッドウィン(Goodwin)社も強く反対し、現状維持を求める様子が見られるため、日本人の市場関係者は楽観しているとされています。
しかしこの報告は、当該問題は「排日土地法」と関係するとし、事態の成り行きに注意を要すると指摘しています。 つまり、市場の規則上では、出店できるのはシアトル市があるキング郡内に土地を所有する農夫のみとされているのに対し、日本人農夫は「排日土地法」によってそもそも土地を所有できない、という問題点があることが説明されています。
・パイク・プレイス・マーケットの日本人たち:1931年
1929年(昭和4年)に世界恐慌が始まると、アメリカ社会は厳しい不況に陥りました。 そのような中で、1931年(昭和6年)には、パイク・プレイス・マーケットの日本人にとって、1926年(大正15年)の「事件」よりもさらに厳しい事態が起きていた様子が、「6.シアトルノ部」(レファレンスコード:B09040487400)に含まれる、この年11月10日付の在シアトル日本領事館から日本本国の外務大臣への報告からわかります(【画像5-1】【画像5-2】)。
この報告には次のように書かれています。 パイク・プレイス・マーケットでは、農夫たちが自ら栽培した作物を、賃貸の「床店」(とこみせ)、つまり屋台で直接販売しており、98軒ある屋台の場所割りや期日は、代理人による抽選によって決められます。 しかし、当時の深刻な不況の影響により、屋台の申込者は249名に上っており、厳しい争奪戦となっていました。 その中で、一部の人々は、半数以上を占める日本人業者の排斥を意図し、市場の規則の改正によって、抽選を代理人ではなく出店する農夫自らが行うことを義務付けようとする運動を起こしました。 その結果、この年の11月1日から規則が新しくなりました。
この出来事が、日本人業者にとってどのような意味を持ったのかについて、続けて説明がなされています。 すなわち、「排日土地法」により、自らの名義で土地を所有することも借りることもできない日本人農夫は、アメリカ人所有の農地の小作人であることを装うなどして農地を確保していることから、正確には法律上の意味での「真の農夫」とは言えない。 このため、「農夫」本人による抽選しか認められないことになれば、日本人農夫は事実上、市場で農作物を売ることが出来なくなる、ということだったようです。 この時、日本領事館が日本人会と協力して、シアトル市の商業会議所の有力者や市長秘書にはたらきかけ、新規則の実施が一時見合わせとなったとのことです。 しかしその後には、日本人農夫の利益が代理抽選などの不安定な基礎によっていること自体に対する疑問と、この日本人排斥の動きが再燃することに対する不安とが示されています。
・シアトル日系移民の「将来」
このような厳しい排日気運の中で、日系移民自身はアメリカ社会における自らの現在や将来について、どのように感じていたのでしょうか。 「25.在シヤトル領事館昇格関係」(レファレンスコード:B14090319300)は、1931年(昭和6年)に、シアトルに本部を置く「米国西北部聯絡日本人会」(※注3)の竹内幸次郎会長が、幣原喜重郎外務大臣に対して、在シアトル日本領事館の昇格を求めた請願書です(【画像6】)。
竹内会長は次のように述べています。 「シアトル領事館管内に在留する邦人は、目下約二萬人あり、移民の来航杜絶して以来、帰国者多く新来者絶無の状態あるにも拘らず、在留邦人の人員必ずしも減退せざるは、全く所謂第二世の増殖する結果にして、人員は増加するとも決して減退せざるの有様に有之…」、つまり、日本から新たな移民が入ってくることがない中で(※注4)、在シアトル日本領事館の管内の日系移民の数は約2万名おり、決して減っているわけではないのは、この地で出生した第2世代が増えているからであり、数は増えこそすれ減ることはないのだと。
こうした状況について竹内会長は「在留民の前途も将来漸次有望の状形に有之候」と述べ、日系移民の将来についての希望を掲げています。 ここで竹内会長が重視しているのは日米親善です。 その第一義は日米両国間の貿易の発展であり、貿易発展の背景には必ず移植民の発展があって然るべきであるとしています。
しかし、竹内会長が展望した日米親善の道は、やがて両国関係の悪化という全く逆の方角へと向くこととなります。 そして、これと共に、「将来漸次有望」とされた日系移民の前途もまた、まさに激動の時期へと向かったのでした。 1941年(昭和16年)12月の日米開戦に至ると、アメリカ政府による日系移民の強制立ち退きと収容が開始され、ここに、アメリカにおける日系移民にとって最も厳しい時代が訪れることとなります。 日系移民を「敵国人」とする制度が撤廃されたのは、戦後の1949年(昭和24年)になってからのことでした。 以降、土地所有の許可や新たな移民の受け入れといった制度改革が徐々に進められ、アメリカ社会における日系移民の人々は新たな時代を迎えることとなったのです。
【画像7-1】 今日のパイク・プレイス・マーケットの賑わい(2016年4月3日筆者撮影)
【画像7-2】 今日のパイク・プレイス・マーケットの賑わい(2016年4月3日筆者撮影)
【注1】 1882年に「中国人排斥法」(英語の名称は“Chinese Exclusion Act”)(「排華移民法」とも呼ばれます)が制定され、中国人労働者(商人などは除かれます)のアメリカ入国が禁じられました。 この措置は当初は10年間に限られていましたが、後続の法律によってその後も長期にわたって継続されることになりました。 [↑]
【注2】 例えば、簑原俊洋『アメリカの排日運動と日米関係 「排日移民法」はなぜ成立したか』(2016年)は、この法律をカリフォルニア州における排日運動の重要な契機として位置づけながら、成立過程を詳細に追っています。 なお、同書では、法律施行後、日系移民は法の「抜け道」を利用してむしろ土地所有を拡大させたとしています。 また、その後、更に厳しい制限を行うべく制定されたのが、1920年(大正9年)の新たな土地法(「第二次排日土地法」と称されています)であり、この頃には、排日運動がアメリカ全土に拡大していたことを指摘しています。 [↑]
【注3】 「米国西北部聯絡日本人会」は、在シアトル日本領事館の管轄区域である、ワシントン州のシアトル市、タコマ市、ベルビュー市、ヤキマ市などの14市、及び、モンタナ州のハーヴァー市の全15市の日本人会の代表者によって組織されるもので、シアトルに本部が置かれています。 このように領事館の管轄区域毎に設置され、区域内の日本人会をまとめる組織は、北米及びカナダでは、ニューヨーク(ニューヨーク日本人会)、シカゴ(シカゴ日本人会)、ロサンゼルス(南カリフォルニア中央日本人会)、サンフランシスコ(在米日本人会)、ポートランド(オレゴン州日本人会)、シアトル(米国西北部聯絡日本人会)、そしてカナダのバンクーバー(カナダ日本人会)が存在していました。 (米国西北部聯絡日本人会編纂『米国西北部在留日本人発展略史』による) [↑]
【注4】 日本からアメリカへの移民は、1907年(明治40年)から1908年(明治41年)の間に日米政府間で交わされた協定(「日米紳士協定」もしくは「日米紳士協約」と呼ばれます)によって制限された後、1924年(大正13年)にアメリカで制定された「1924年移民法」(英語の名称は“Immigration Act of 1924”)(「排日移民法」とも呼ばれますが、日本人のみを排斥した内容ではありません)によって完全に禁じられました。 [↑]
【参考】
佳知晃子「日米通商航海条約とカリフォルニア州土地法」,『国際政治』17号,日本国際政治学会,1961年.
貴堂嘉之『アメリカ合衆国と中国人移民 歴史のなかの「移民国家」アメリカ』,名古屋大学出版会,2012年.
黒川勝利『両大戦間のアメリカ西北部日系社会 シアトルとその周辺地域における労働、生活、市民運動』,大学教育出版,2011年.
黒川勝利「シアトル最初期の日系市民運動」,『岡山大学経済学会雑誌』第42巻第2号,岡山大学経済学会,2010年.
黒川勝利『アメリカ労働運動と日本人移民 シアトルにおける排斥と連帯』,大学教育出版,1998年.
小林徹「日系アメリカ人小史」,『長崎国際大学論叢』第2巻,長崎国際大学,2002年.
坂口満宏「日本人会ネットワーク:北米日本人会の組織と活動を中心に」,『史窓』第58号,京都女子大学史学研究室,2001年.
杉浦直「エスニック・タウンの生成・発展モデルと米国日本人街における検証」,『季刊地理学』第63巻第3号,東北地理学会,2011年.
廣部泉『人種戦争という寓話 黄禍論とアジア主義』,名古屋大学出版会,2017年.
船越亮佑「沙港日本国語学校初の初等科用日本語教科書に関する一考察」,『学校教育学研究論集』第32号,東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科,2015.
米国西北部聯絡日本人会編『米国西北部在留日本人発展略史』,米国西北部聯絡日本人会,1921年.
水谷憲一「1924年移民法における『日本人問題』」,『同志社アメリカ研究』第33号,同志社大学アメリカ研究所,1997年.
簑原俊洋『アメリカの排日運動と日米関係 「排日移民法」はなぜ成立したか』,朝日新聞出版,2016年.
簑原俊洋『排日移民法と日米関係 「埴原書簡」の真相とその「重大なる結果」』,岩波書店,2002年.
J. B. ケスラー,織完「日米関係のイメージと米国連邦制度―加州排日土地法論争を通じての一考察―:日米関係のイメージ」,『国際政治』34号, 日本国際政治学会,1967年.
国立公文書館
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商工省
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経済安定本部
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経済企画庁
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通商産業省
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経済安定本部に関する資料は、経済企画庁図書館で保管された資料です。
また経済企画庁に関する資料は、主に経済安定本部・経済審議庁の訓令綴,件名簿,庶務関係綴等です。
また通商産業省に関する資料は、多くは法令の制定・改廃等に関する文書(閣議請議文書等)や、各種規則類の制定・改廃や告示に関する文書です。
少数ながら、請願や許認可に関する文書も含まれています。
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外務省外交史料館
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外務省記録
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6門 人事
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1類 官制及官職
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3項 外国官制及外国公館
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5項 任免、賞罰、恩給其他
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6項 出張及巡廻
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7項 試験、留学生
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8項 外国大、公使館員及領事館員
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「6門 人事」には、明治・大正期の外務省における人事に関する文書が分類されており、このうち特に官制やこれに関する文書によって構成される「1類 官制及官職」の後半部分を公開しました。
今回公開分の「3項 外国官制及外国公館」には、駐日外国政府公館設置やその他外国政府の日本における利益代表に関する文書が含まれています。
「5項 任免、賞罰、恩給其他」には、日本の在外公館の大使・公使・館員・駐在武官の任免に関する文書が所収されています。
「6項 出張及巡廻」には、日本政府の官僚や武官の海外出張ならびに在外公館報告書などが含まれています。
「7項 試験、留学生」には、各省庁から海外に派遣された留学生の旅費・学業報告・帰国申請などに関する文書が含まれています。
そして「8項 外国大、公使館員及領事館員」には、駐日外国政府公館員の任免に関する文書が含まれています。
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防衛省防衛研究所
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陸軍一般史料
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中央
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終戦処理
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日本軍が保有していた兵器の引渡に関する記録、外地からの復員に関係する史料などにより構成されています。
今回新規追加公開分では、主にシンガポール駐屯の南方軍・第7方面軍の衛生関係資料や、中共地域資料概況などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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陸軍一般史料
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陸空
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南方進攻
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陸軍航空作戦に関する資料群のうち、主に第一復員局や南方軍総司令部や第三飛行師団などが作成・調製した、ジャワ・スマトラ・ビルマ・シンガポール・マレーなど南方・南西方面における航空作戦記録や報告書などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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陸軍一般史料
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陸空
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比島(決戦)
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陸軍航空作戦に関する資料群のうち、主に終戦後に第一復員局が調製した比島航空作戦記録や部隊一覧表、戦時中に第四航空軍が作成した比島捷号作戦指導関係書類綴、その他に復員者資料や飛行場大隊の陣中日誌や飛行場付近の地図・写真などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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陸軍一般史料
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陸空
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支那方面
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陸軍航空作戦に関する資料群のうち、主に終戦後に第一復員局が調製した支那方面航空作戦記録や飛行場記録、日中戦争における第4飛行団関係資料や戦時旬報綴、第15航空通信隊業務詳報、第56飛行場大隊陣中日誌、第15野戦航空補給廠業務詳報、独立飛行第4中隊戦闘詳報などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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陸軍一般史料
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陸空
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3FA
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陸軍航空作戦に関する資料群のうち、主に第3航空軍(司集団:3FA)の編成及び南西方面航空作戦・兵力配置要図・情報記録・戦時月報、第5飛行師団ビルマ方面航空作戦、第9飛行師団作命綴、第4野戦飛行場設定隊戦闘詳報・陣中日誌などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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陸軍一般史料
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陸空
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満洲方面
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陸軍航空作戦に関する資料群のうち、主に関東軍航空部隊作戦記録や、飛行第10大隊行動詳報、独立飛行第8中隊戦闘詳報、第9航空地区部隊の第2次ノモンハン事件陣中日誌、第56飛行場大隊陣中日誌などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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海軍一般史料
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③大東亜戦争
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全般
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海軍の艦船・陸上部隊に関する太平洋戦争の作戦記録全般についての資料群です。
主に、開戦までの政略戦略(昭和6年~14年)や太平洋戦争経過概要、軍令部第一部作成の情況判断資料、大本営発表記事、大東亜戦争海軍戦史、第二次世界大戦略歴などが所収されています。
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防衛省防衛研究所
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海軍一般史料
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③大東亜戦争
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ソ連
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海軍の艦船・陸上部隊に関する太平洋戦争の対ソ作戦関係の資料群です。
主に、ソ連東部方面展開の部隊戦力判断、ソ連船問題参考資料、ソ連収容所状況一覧表などが所収されています。
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滋賀大学経済経営研究所
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旧植民地関係資料
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満蒙
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中国
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朝鮮
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台湾
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南洋
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滋賀大学経済経営研究所の前身である彦根高等商業学校(1923年~1944年)調査課が収集した、当時の日本の植民地または権益の及んだ地域(満洲、蒙古、中国、朝鮮、台湾、南洋)に関する日本語で書かれた資料群です。
おもな資料は、旧植民地関係機関(満洲国国務院、朝鮮総督府、台湾総督府、南洋庁等)発行の調査研究資料、各種写真集、地図、案内パンフレットなどです。
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北海道立図書館
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北越殖民社関係資料
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合資会社北越殖民社時代(明19‐40)
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北越殖民株式会社時代(明40‐昭27) ア.全期間にわたるもの
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北越殖民株式会社時代(明40‐昭27) イ.終戦前の期間(明40‐昭20)
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北越殖民株式会社時代(明40‐昭27) ウ.戦後,解散,清算の期間(昭20‐27)
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北越殖民社関連事業(1) 社団法人野幌報徳会
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北越殖民社関連事業(2) 野幌森林防火組合
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北越殖民社関連事業(3) 野幌土地改良組合
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北越殖民社関連事業(4) その他
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個人の著述
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地図類
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その他
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江別太に移住し開拓を行った越後農民によって設立された北越殖民社(明治19年~昭和23年)の資料です。
おもな資料は、中心的人物であった関矢孫左衛門の日誌、その他同社の業務に関する様々な書類、台帳、日誌、図面などです。
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インターネット特別展「公文書に見る戦時と戦後 統治機構の変転」
実はあのルーツは戦前・戦中期にあった?あるいは戦前とは異なる形で継続していたってホント? 今回の特別展では、戦前から戦後にかけての行政組織、法律や政令などの制度の変化によって、人々の生活はどのように変わっていったのか、公文書を通じてご紹介します。 どんなキーワードから検索するのかわからないという人には、Q&A形式による解説文がおすすめ。 当該事項に関する用語をはじめ、組織一覧、組織変遷表、年表といったコンテンツに用意されたキーワードからアジ歴の関連資料に簡単にアクセスできます。
・国 内
2017年2月7日
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国立国会図書館関西館主催「平成28年度アジア情報機関懇談会」(国立国会図書館関西館)におけるプレゼンテーション
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2017年2月22日
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平成28年度 第2回 究める・つなげる「長崎の歴史」魅力発信事業(旧長崎県ミュージアム連携促進事業)実務者研修「デジタルアーカイヴの構築について」(長崎歴史文化博物館ホール)におけるプレゼンテーション
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2016年12月2日
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西南大学(中国)潘洵教授、楊宇翔講師、北京大学 徐勇教授ほか研究員3名
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2016年12月8日
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中国人民大学情報資源管理学院院長 張斌教授、王健教授及び東京学芸大学大学史資料室 戎子卿専門研究員
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2017年2月1日
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大英図書館日本部司書大塚靖代氏
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日本国内における日本関係資料所蔵状況
2016年6月に、京都市の同志社大学で行われたAAS-in-Asiaでの広報活動に際し、平野研究員と林研究員が以下の3つの機関を訪問し、資料の所蔵状況および資料のデジタル化について聞き取り調査を行いました。以下はその報告です。
京都市左京区にある京都大学人文科学研究所は、昭和4年(1929年)に外務省が管轄する東方文化事業により発足した、東方文化学院京都研究所(もう1箇所は東京研究所)に端を発します。 昭和13年(1938年)に東方文化研究所に改称され、昭和14年(1939年)には京都帝国大学に人文科学研究所が設置されました。 戦後、京都大学の人文科学研究所と西洋文化研究所(旧・ドイツ文化研究所)に、東方文化研究所が併合されるかたちで新しい人文科学研究所が発足。 当時は日本部、東方部、西洋部が存在しましたが、平成12年(2000年)以降に改組が進められ、現在は、人文学研究部(文化研究創成、文化生成、文化連関の3部門)及び東方学研究部(文化表象、文化構成の2部門)の2研究部が設けられ、附属研究施設として、いずれも東方学研究部に属する、東アジア人文情報学研究センター及び現代中国研究センター(後者は大学共同利用機関法人人間文化研究機構と京都大学の共同設置によります)が存在します。
京都大学人文科学研究所入口
書庫内の「内藤文庫」
所蔵資料は、旧日本部、旧東方部、旧西洋部にて蒐集された図書類を基礎に、現在に至るまで同研究所の研究内容に即して購入された書籍類から成っています。 旧日本部では、政治史・社会運動史・法制裁判関係図書を集積、戦前の無産政党・労働組合・農民組合、水平社・文化運動団体などの機関誌紙のコレクションが含まれます。 旧東方部では、東方文化研究所期に蒐集された漢籍が主ですが、その後近代文献、明代文献ならびに地志の整備計画が進められ、最近では、中華民国期から中華人民共和国期にかけての新聞も多数集積されています。 また、故京都大学名誉教授内藤虎次郎(湖南)博士の旧蔵書で、満蒙関係を主とする「内藤文庫」も存在します。 旧西洋部では、主に18~19世紀のフランス文献を集積、その一部は「サン=シモン、フーリエ文庫」としてまとめられています。 上記以外に、本研究所創立以来、購入または寄贈を受けてきた、器物、書籍、参考品、写真類を「資料」として所蔵しています。
所蔵資料は、研究所の来歴の中で購入及び寄贈によって蓄積されてきたものですが、現在は原則として寄贈を受け付けていません。 旧日本部所蔵の労働組合関係資料及び水平社関係資料は、コピーやマイクロフィルムによる所蔵であり、原本は所蔵していません。 旧東方部所蔵の資料としては、「内藤文庫」は内藤虎次郎(湖南)が蒐集していた書籍資料が主なため、資料的価値がそれほど高いコレクションではなく、また利用請求もさほど多くはないとのことです。 ただし満州関係資料は『満州国政府公報』や『奉天経済旬報』など当時の原本を所蔵しています。
同研究所の下部機関である東アジア人文情報学研究センターには、戦時中の写真が大量に保管されています。 このうち、人物が明確に写っているもの、あるいは取り扱いの困難な内容のものについては、所蔵情報自体の公開を見合わせているとのことです。 同センターでは、昭和13年(1938年)に東方文化研究所によって実施された雲岡石窟の調査を記録したフィルムも所蔵しており、これは「京都大学研究資源アーカイブ 京都大学デジタルアーカイブシステム」上でデジタル公開しています。 同アーカイブは、基本的に終了したプロジェクト(既に退職した研究者によるもの)の成果を公表する場であり、情報を決まったフォーマットに対応させて入力及びアップロードすることで公開用のコンテンツが成立するという仕組みです。
→「京都大学研究資源アーカイブ 京都大学デジタルアーカイブシステム」のデジタルコレクション
東アジア人文情報学研究センターでは、多くの資料のデータベースを公開しています。 資料のデジタル化については、これを担う特定の組織が存在するわけではありません。 同研究所内で多数実施されている共同研究(班)の成果としてデジタル化及びその公開が実施されますが、デジタル化及び公開システムの構築は基本的に内製で実施しているとのことです。 デジタル化及びシステム構築の内製の中心を担ってきたのが、同センター主任の、安岡孝一・人文科学研究所教授であり、同教授は各共同研究班の活動に実際に参加するなどして、その研究内容及び成果の共有目的等を十分に理解し、これに応じたシステム開発を実施しているとのことです。 デジタル化の際には画像はJPEG形式及びTIFF形式としているが、一方で、画像にテキストの埋め込み(表記されている文字の情報を1文字単位で画像上に記録すること)を行う際や、地図のデジタル化の際にはDjVu形式を用いていることも多いとのことです。
漢代から中華民国期に至る拓本のコレクションをデジタル公開する「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」データベースでは、JPEG形式での画像閲覧も可能ですが、DjVu形式による表示に多くの機能を盛り込んでいます。 すなわち、DjVu形式で画像を表示した場合、カーソルを合わせることで、1文字単位で翻刻が表示されるほか、画像上で文字をクリックすると、同データベース内の他の資料上の同一文字が1文字単位で切り出された状態の画像が一斉に呼び出され、同一文字の表記パターンを比較できる仕組みになっています。 同仕組みはいずれもオープンソースであるDjVu形式の仕組みを解析した上で、安岡教授が自ら構築したものです(同データベースは安岡教授が班長を務める共同研究班の研究成果によるものです)。
公開用システムの構築に際しては、メンテナンスや永続性を考慮してHTMLによる構成を原則とすると共に、研究資源としての共有性を高める目的から、検索結果画面や個別資料の表示画面へのリンクが可能となるようにしているとのことです。 データベースを構成するメタデータは各共同研究班からCSV等の形式で受け取り、内容については提供元の共同研究班が責任を持ちます(修正等はあくまで共同研究班からの依頼を受けて実施されます)。 共同研究(班)におけるデジタル化及びデータベース化作業に際しての予算は、従来は科研費を用いていましたが、現在は同研究所から共同利用拠点としての予算が付くため、これを用いることが多いとのことです。 デジタル化された資料はあくまで研究成果として共有されることを前提に公開しているので、二次利用は自由とされています。 ただし、書籍等で二次利用する際には引用元を示してほしいと利用者に求めています。 二次利用については、特に拓本(「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」データベース)、及び地図に関するものが多いとのことです。 「京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料」データベースについては、期せずして書道関係者が字形を参考とするために利用するケースが多く、本来の研究成果の共有目的とは異なったかたちで需要が発生しているとのことです。
なお、安岡教授からは、デジタル化された資料は確実に継承されるべきであり、当該資料に対する問い合わせに対応できないような事態は許されない、それが研究機関としての責任である、とのコメントがありました。
京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館は、第二次世界大戦終結時の主に旧満州や朝鮮半島からの引揚・復員、シベリア抑留及びそこからの引揚をテーマとする資料収蔵・展示施設です。 舞鶴港が戦後に引揚のための指定港のひとつとされていたこと、また大部分のシベリアからの引揚者の帰還港であったことに因みます。 戦後40年を機に、引揚・復員の経験者や、当時引揚者・復員兵を迎えた地元の人々の要望により、昭和63年(1988年)に舞鶴市が開設しました。 一時は指定管理者による運営を行っていましたが、現在は舞鶴市が運営しています。 平成27年(2015年)10月に、所蔵資料の一部(570点)が「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」としてユネスコ世界記憶遺産に登録されました。
舞鶴引揚記念館(引揚記念公園)
展示品(ユネスコ世界記憶遺産に登録された資料)
所蔵資料の数は現在約1万6000点、引揚者が使用していた生活用品が主ですが、一定数の引揚関係の証明書類や、抑留時に書かれた日記や手紙などの記録資料、さらにいわゆる抑留体験画約1,300点(著名漫画家によるものも多数)も含まれています。 また、復員・引揚関連の書籍約3,000冊も集積されています。 ほとんどの資料が全国からの寄贈によっています。
多くの寄贈は、所有者(引揚・復員経験者)自らが生前に「後世に受け継いでほしい」との理由でなされたもの、あるいはその没時に遺族によりなされたものだとのことです。 寄贈は毎年30件(点数ではなく件数、1件で複数点の場合もあり)程度行われ、所蔵資料は現在も増え続けています。 また、恐らくは所蔵資料の世界記憶遺産への登録の影響により、平成27年(2015年)は寄贈の数が90件にのぼったとのことです。 寄贈は基本的に全て受け入れてきていますが、収蔵庫にも限界があるため、今後は、受入れ資料は、本来のテーマである引揚及びシベリア抑留に関するもので且つ稀少性の高いものに限ることも検討されています。
収蔵資料について、これまでに職員の手でデジタル撮影が行われており、展示室に設置された端末(後述)にて資料の検索及びサムネイル画像の表示が可能です。 一部資料については大判のデジタル画像を同館ウェブサイト上でギャラリーとして公開しています。 なお、デジタル化に際しては、個人情報に対しマスキングを実施しています。
資料の二次利用は原則として所定の申請手続きを行うことで可能であり、これまでに申請件数は多いとのことです。 引揚船の乗船名簿については個人情報が多く掲載されていることから、非公開としています。 その他個人情報の扱いについては、可能であれば、寄贈者や対象者の許可を得た上で展示しているものもあります。 古い時期に寄贈されたものなど、許可が得られないものは展示せず、展示室内の端末での画像表示(上記)の際にもマスキング処理を施しています。
同館では、主に周辺地域の学校での講演や授業、旅行会社へのアピールによる修学旅行生(特に京都を修学旅行先とすることが多い関東や東海の学校にも対象を広げているとのことです)や団体旅行者の誘致、地方紙に対する投げ込み、マスコミ等の外部からの問い合わせへの積極的な対応、といった取り組みを続けており、来館者数は平成24年度に7万人弱であったところ、平成27年度には13万人へと増加しています。 また、開設以来、実際に引揚やシベリア抑留の経験を持つ人々や、その記憶を近親者等から伝えられた人々を中心に、60~70代の高齢者層の来館者が多かったところ、最近は20~50代の来館者が増加しているとのことです。
同館は平成27年(2015年)9月にリニューアルオープンしており、その際に展示品を約1500点から約800点にまで絞り、代わりに書き起こし文を付けるなど、資料内容を分かりやすく紹介する展示に務め、また書籍は新たに約1,000冊を図書コーナーに配架しているとのことです。 展示品に添えて、日本語、英語、中国語、ロシア語による背景説明に加え、同4か国語で利用できるタッチパネル式の端末が設置され、読み物や関連資料紹介、簡単なクイズを楽しめるようになっているなど、高齢者層から小学生程度の若年層までの幅広い年代の来館者、及び国外からの来館者への対応に配慮がなされています。
タッチパネル式の端末の画面
京都府立総合資料館(2016年6月28日筆者撮影)
京都市左京区にある京都府立総合資料館は、昭和38年(1963年)に、博物館(民俗系)、文書館、図書館(京都府立図書館の蔵書の一部を引き継ぎ)を兼ねる施設として開設されましたが、博物館部門の分離(京都文化博物館へ)、図書部門の改編等を経て、その後、図書(京都関係図書のみ)、古文書(京都関係)、行政文書(京都府庁・知事部局の文書が移管されたもの)、写真資料、近代文学資料を所蔵する資料館として平成28年(2016年)9月14日まで運営されていました(訪問は同年6月28日)。
美術工芸品、民俗資料等も所蔵されていますが、これらは公益財団法人京都文化財団に管理が委託されています。 平成27年(2015年)10月に、所蔵資料の「東寺百合文書」がユネスコ世界記憶遺産に登録されました。 所蔵資料は、現在、図書:約38万、古文書:約13万、行政文書:約9万、写真資料:約7万、近代文学資料:約2万となっています。
なお、訪問当時の京都府立総合資料館は、平成28年(2016年)9月14日に閉館され、同年12月23日に新館「京都府立京都学・歴彩館」が一部開館、平成29年度には全館開館が行われます。 この「京都府立京都学・歴彩館」は、旧館に隣接する京都府立大学の敷地内に位置し、施設の一部には同大学の文学部研究室及び図書館も入ります。 こうした新しい試みも取り入れながら、同館は「京都の歴史・文化に関する研究支援や学習・交流の機能を加え、京都北山の新たな文化・学習交流拠点」として運営されるとのことです。 以下は、訪問時点での状況です。
建設中の「京都府立京都学・歴彩館」
(2016年6月28日筆者撮影)
書庫内の行政文書
京都府立総合資料館が所蔵する行政文書のうち、慶応4年(1868年)閏4月29日の京都府庁成立前後から現在までの間に、京都府の知事部局において作成または受理された文書が、永年保存文書に指定された後、規定により作成から25年以上が経過して同館に移管(年間1,500~2,000冊程度移管される)されたものが「京都府庁文書」です。 また、同じく明治期から第二次世界大戦終了前までの時期に、京都府庁において業務参考資料として作成され、永年保存文書に指定されなかった文書が同館に移管されたものが「京都府庁史料」です。 この2つが行政文書の中核を成しています。 なお、資料の寄贈はほとんど実例がなく、戦前期の行政文書を個人から寄贈された例がある程度だとのことです。 京都府庁において永年保存文書とされなかった文書についても、保存年限(5年、10年、20年)が経過した後に、廃棄処分される前に同館職員が選定を行い、原課と協議の上で移管対象に加えることもあるとのことです(年間100冊程度)。 その際の選定基準としては、永年保存文書の補足となるものであるか、社会的関心の高いもの(人権関係、環境関係等)であるか、といった点を考慮しているとのことです。
資料のデジタル化については、特定の予算が存在しないために、これまでに積極的に進めることが出来ていないとのことです。 しかし、重要文化財(昭和21年までのもの)の修理事業(文化庁の補助事業)を業者委託する際には、併せてデジタル撮影も発注しており、データを蓄積しており将来的な公開を考えているとのことです。 また、新館への移行にあたってはデジタル化の推進が目指されており、平成26年度から28年度の3年間に1億円の予算を投じてこの準備が進められています。 デジタル化の対象は、行政文書については、明治初期からのもののうち、撮影が容易なもの(形状等)、状態が良好なもの、テーマとしては災害関係(特に水害)、市町村合併に関するものが優先されています。 これらの既デジタル化資料は、同館の運営するデジタルアーカイブ(個別のウェブサイトの形式)「京の記憶アーカイブ」に登録し、目録のみ公開が済んでいます。 「京の記憶アーカイブ」(平成27年11月公開))では、一部の代表的な資料についてはデジタル画像も公開されています。 また、過去に同館が公開してきた「京の記憶ライブラリ」「京都北山アーカイブズ」(いずれも現在閉鎖、館内の端末でのみ閲覧可能)の情報も「京の記憶アーカイブ」への一元化が進められています。
同館の主な利用者は、研究者(在野の研究者も多い。研究対象は琵琶湖疏水や鉄道)、大学生・大学院生(研究対象は教育史、公園史、建物疎開等)だとのことです。 また、ファミリーヒストリーを目的とする利用者は比較的少ないとのことです。 この理由としては、家系図等の関係資料がないこと、住宅地図は昭和30年代以降のもののみ所蔵されていることが考えられるそうです。 利用頻度の高い資料としては、明治期の地籍図(土地の境界を示す)、土木事業関係、明治期の地誌等だとのことです。 資料の二次利用については、原則として、所定の申請手続きを行い使用料を支払うことで可能です。同館からは承諾書が発行されます。 また、「京の記憶アーカイブ」でデジタル公開されている資料については、申請不要で自由に二次利用が可能です。
ヨーロッパにおける日本関係資料所蔵状況
2016 年9月のルーマニア・ドイツ出張に際し、丸尾資料情報専門官と佐久間研究員が以下の4機関を訪問し、日本関係資料の所蔵状況および資料のデジタル化について聞き取り調査を行いました。 以下はその報告です。
ルーマニア国立公文書館は、1831年、ルーマニア公国時代に設立された機関です。 歴史的には、公文書館は、根拠となる規範や規則があるわけではなく、歴代政権下の裁判所または修道院の裁量によって運営されてきました。 同館が保管している文書は、大半は中央官庁(大統領府、議会及び各省庁)から移管されている文書、内政記録、個人・家族の記録、経済・技術・機関の記録、地方行政記録です。
同館は、中央事務所と、首都ブカレスト市を含む43の地方事務所を有しています。 国家レベルでは650名の職員がおり、うち約500名は専門のアーキビストです。
ルーマニア国立公文書館正面
日ルーマニア文化協会関連文書
同館は、全国で50の書庫を有しており、うち7つはブカレストにあります。 国立中央歴史公文書館に5つの書庫があり、最も興味深いのは、中世からの文書や中世古典籍を保管する書庫1つと、共産主義政権時代を含む19世紀から20世紀にかけての近現代の文書を保管する書庫1つです。 後者の書庫には、18世紀に寄贈された日本の文学作品、17世紀から18世紀にかけて中国が作成した文書などが保管されています。 また、過去にワラキア、モルダヴィア、トランシルバニアに属していた記録もあります。 19世紀から20世紀にかけての近現代の文書を保管する書庫には、共産主義政権時代の文書などが保管されています。 日本関連文書には、1931年の高松宮のルーマニア訪問記録、日ルーマニア文化協会関連文書、現在の天皇陛下のご誕生をルーマニア国王に報告した文書、駐ルーマニア日本大使・公使に対する信任状、また、共産主義政権時代の文書として日本における共産党員関連の文書などが保管されています。
なお、共産主義政権時代の文書については、専門のスタッフ2名が資料の整理・公開にあたっており、一般の文書とは別の閲覧室で閲覧されています。 文書の公開までの法的期間は、ここの市民の記録、国家安全保障関連文書についてはすべて75年から100年の間です。 ルーマニア国立公文書館は、15世紀から18世紀までの勅令のデジタル化を完了させました。 ユダヤ人コミュニティー関連の文書については、同コミュニティーの代表の支援でデジタル化が行われています。 国立公文書館は多くの文化事業に参加しており、団体の、特に子供や学生の団体による訪問のため、定期刊行物が閲覧できるようになっています。 同館の広報は、広報局(Department of Publication Achievement)が、国立公文書館でも、展示、ラウンドテーブルなどの手段で行っているほか、フェイスブックを活用した広報を行っています。
共産主義政権時代の文書の閲覧室
キャンパスライブラリー(新館)入口
ベルリン自由大学は、第二次世界大戦後の1948年に、東西に分割されたベルリンにあって、ソ連占領地域にあったフリードリヒ・ヴィルヘルム大学ベルリン―Friedrich-Wilhelms-Universität zu Berlin―(今日、ベルリンにあるフンボルト大学)の離反した教授や学生により、西ベルリンに設立されました。 ベルリン自由大学は、12学部、学生数32000人を擁する総合大学として高い評価を得ており、ドイツ政府の「卓越研究計画」の拠点にも指定されています。 とりわけ人文社会科学分野の教育研究に重点が置かれていることでも有名です。 2015年春に、5学部24学科の学内の図書館を統合した人文社会科学中心とする、キャンパスライブラリーがオープンしました。 キャンパスライブラリーの建物は旧図書館と新館から構成されており、研究室や2つの教室、そして950席の閲覧席を有する、一つの教育研究棟となっています。
新館には東アジア研究、中東研究、考古学、自然科学や数学に関する図書が配架されています。 一方、旧館には、教育学、心理学、宗教学に関する図書が配架されています。 東アジア関連の図書館としては、ルール大学ボーフム(Ruhr-Universität Bochum)、ハンブルク大学 ハイデルベルグ大学の東アジア学科附属図書館につぐ国内で4番目の所蔵数で、2015年度現在で、約100万冊であり、日本研究図書は3万2千冊、韓国研究図書や関連資料は1万9千冊、中国研究図書ならびに関連資料は4万2千冊となっています。 図書や資料等の購入は各部門・各機関の例年の予算で賄われ、韓国研究部門については、さらに韓国国際交流財団、韓国国立中央図書館の寄贈プログラム“Window on Korea (2015-2019)”、韓国最高裁判所、韓国憲法裁判所、韓国国会図書館、韓国映画振興委員会、韓国古典翻訳院、LTI Korea (Literature Translation Institution of Korea)、よる助成金によって購入しています。
日本語書籍の書棚
図書は記述言語に関係なく、33科学的分類法(RVK:Regensburger Verbundklassifikation)に基づいて配架されています。 エントランスの左側に置かれたPC端末の蔵書検索サービス(Bibliotheksportal Primo)で、所蔵図書や原資料の検索が可能です。 アジア関連書籍も、ローマ字入力により、デジタル・紙媒体に関係なく蔵書検索が可能となっています。 また、大学図書館にはイメージングサービスが設けられており、著作権が切れたもの(70年前に刊行された書籍)については、大学関係者であれば無料でデジタル化をしてもらうことも可能です。
日本近現代史を専門とするDr. Schmidtpott
専門司書のDr. Peucker(左)とDr. Wagner(右)
また、その他ドイツ国内の図書館に所蔵されている書籍については、KVK - Karlsruher Virtueller Katalogによって検索することが可能です。 その他、教員および学生は個人のユーザアカウントを通して、図書の貸出しや雑誌記事のコピーの取り寄せ等も行うことが可能です。 なお、同図書館には25名もの司書が勤務し、日本研究担当の常勤司書の1名と非常勤1名のスタッフが、日本関連資料に関する問合せについて日本語で対応しています。
→KVK - Karlsruher Virtueller Katalog
その他、館内には幼児を持つ学生用の研究室やディスカッションルームが常設されており、博士論文提出を控えた大学院生向けサービスとして、3ヶ月間貸出図書を保管しておける専用の自習室(Study Carrel)が提供されています。
日本関係資料として特筆すべきものとしては、血盟団事件の弁護士の一人であった天野辰夫(愛国勤労党を結成した国家主義者)による手稿『(井上昭外十三名ニ対スル血盟団殺人被告事件)辯論要旨』が残されています(この資料の来歴については不明だとのことでした)。
『(井上昭外十三名ニ対スル血盟団殺人被告事件)辯論要旨』
『(井上昭外十三名ニ対スル血盟団殺人被告事件)辯論要旨』
『(井上昭外十三名ニ対スル血盟団殺人被告事件)辯論要旨』
『(井上昭外十三名ニ対スル血盟団殺人被告事件)辯論要旨』
血盟団事件とは、昭和7(1932)年2月から3月にかけて発生した連続テロ事件です。 国家主義者の井上日召の薫陶を受けた小沼正が井上準之助蔵相を、菱沼五郎が三井合名会社理事長団琢磨を暗殺しました。 そのほか、元老や政府の枢要を占める政治家の暗殺も計画されていました。 小沼と菱沼が従兄弟の血縁関係であったことから、被告たちが「血盟の同士」として名付けられたといわれています。 事件の背景には、昭和恐慌による未曾有の東北地方の農村不況、労働争議の頻発と当局による弾圧、政党政治の疑獄事件みる腐敗といった状況があり、国家主義者や一部の軍人に国家改造・革新運動の必要性が盛んに唱導されていた中での出来事でした。
血盟団事件の公判は、昭和8(1933)年6月28日に開始されましたが、被告たちは酒巻貞一郎裁判長と両陪席判事の忌避申立てにより第十二回で中断、あらためて藤井五一郎を裁判長として翌9年3月27日開始、同8月23日第六十四回公判で終了し、求刑は同8月28日、判決は同11月22日に下されました。 公判で、腐敗した権力を一掃する革命に殉じるとする彼らの「捨石主義」が新聞で報道されるにつれ、全国から血書の減刑嘆願書や女性の黒髪が弁護人に数多く送られたように、世論からは「世直し」壮挙とみられるようになりました。 なぜ政党政治が世間から支持されなくなっていったのか、『血盟団事件上申書・獄中日記』や『血盟団公判速記録』とともに、当時の状況を窺い知る上で、欠くことができない資料となっています。
ちなみに、天野辰夫は昭和7(1932)年、五・一五事件による国家改造が失敗に終わったことを受けて、自ら国家改造運動を計画した首謀者(内乱予備陰謀罪)として、この後神兵隊事件(政府転覆を目的としたクーデタ事件)で検挙されました。
【参考】
「血盟団事件」(執筆者 高橋正衛),『国史大辞典』第5巻,吉川弘文館,1985年.
堀真清「血盟団事件の信従者たち--小沼正・菱沼五郎・四元義隆を中心に」,『早稲田政治経済雑誌』通号329号,1997年.
血盟団事件公判速記録刊行会『血盟団事件公判速記録 上中下』,1967-1968年.
血盟団事件公判速記録刊行会『血盟団事件上申書・獄中日記』,1971年.
独外交史料館は、ワイマール共和国時代の1920年に設立された施設で、外務省と独立した建物を有しておらず、外務省の一角にあります。 アーキビストは20名います。 アーキビストの中は、アジアと日本の専門家がいませんが、各人が外交政策のあらゆる分野に対応することになっており、外交政策全てに精通していなければなりません。 独と他国との関係及び外交政策、独と他国との条約、各国情勢に関する在外公館報告などに関する文書が27kmの書架に保管されており、条約だけでも約36,000件あります。 これらの文書の一部は、旧連合国に一時接収されましたが、米英が接収した文書については全て返還されました。 ただし、ナチス関連の文書については米国が保管しています。 連合国から接収された文書は、1990年代に独外交史料館に集められました。
ドイツ連邦外務省外交史料館正面
日本関係文書は、19世紀後半からの日独関係のほか、日本と欧州諸国との関係、日清戦争及び日露戦争をめぐる日本及び周辺諸国の動向並びに同戦争当事国とドイツの関係、シベリア出兵の動き、日本及び周辺諸国の情勢に関する在外公館報告などが保管されています。
文書の公開は、連合国に接収され、返還されたもので、接収国との間で合意された文書は全て公開しています。 それ以外の文書は、連邦公文書法(Federal Archives Act)で30年後に公開されることになっていますが、個人情報については、別のルールにより、当該個人の死後10年後に公開されます。
館長のKeiper氏(右)と
レファレンス担当のvon Boeselager氏(左)
デジタル化された文書は、広くインターネットで公開されているわけではなく、研究者の要請に基づき必要な文書を公開しており、それぞれの閲覧者がそれぞれの専門分野に関する文書を閲覧しています。 閲覧者の大半はドイツ人ですが、他の欧州の閲覧者が独欧関係についての文書を閲覧することがあります。 外交文書の展示会の開催、歴史関連機関と共同での外交史編纂事業を行うことはありますが、積極的な広報は行っていません。 外国との関係で独外交史料館は、恒常的なパートナーシップを有しているわけではありませんが、プロジェクトごとに外国の組織と協力関係を結んでいます。 アーキビスト間の交流・協力については、欧州諸国との間で協力関係を有しているほか、モンゴル等のアーキビストの来訪を受け、意見交換をした実績があります。
ドイツでは、教育行政・文化行政を州が所管しているため、国立図書館(DNB)もいくつかの機関で分担して運営されています。 ドイツ国立図書館は本館のフランクフルト、東ドイツのライプチヒ(旧ドイチェ・ビュッヘライ)の2館と、西ドイツのドイチェ・ビブリオテーク、そして、ドイツ音楽資料館(ベルリン)で構成されています。 その他、これら国立図書館とは別に、ミュンヘンにあるバイエルン州立図書館、ならびにベルリン州立図書館(http://staatsbibliothek-berlin.de/de/)があります。 ドイツ国立図書館は、法定納本、全国書誌の作成が義務付けられています。 ベルリン州立図書館は、1661年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムによって創設され、1701年にプロイセン王立図書館となりました。 同図書館は1913年にウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)に建設されましたが、第二次世界大戦後に旧東ドイツ領となったため、1978年、新たに旧西ドイツ領内に別館が建設されました。 1990年の東西ドイツ統一に伴い両施設が統合され、ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)の旧館は歴史関係の図書館として、ポツダム通りにある新館は戦後関連の図書館となっています。 現在、両図書館はプロイセン文化財団(連邦および16の州が共同で法的・財政的な責任の下に運営)の予算で運営されています。
ベルリン州立図書館(新館)正面
館内の様子
またベルリン州立図書館は日本の国会図書館や、台湾の国家図書館、韓国の国立中央図書館とは、官庁交換物の交流も行っています。 同図書館の蔵書数1,100万冊のうち、東アジア関連書籍や資料は70万冊を占めています。 東アジア関連資料の多くは郊外の書庫(フリードリヒスハーゲン:Friedrichshagen)へ、児童図書・新聞等はヴェストハーフェン(Westhafen)へ、地図や文書資料は現在一時的にウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)とポツダム通りの書庫に分割して所蔵されていますが、将来的にはウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)の書庫を改装した後にこちらに移管され所蔵される予定です。 両図書館に所蔵されている資料については、閲覧請求をした時間によりますが、当日午後か遅くても翌日までに、旧館あるいは新館で受け取ることができます。 両図書館に所蔵がない書籍については、ILL(Inter-Library Loan)サービスを介して他機関から取り寄せも可能です。
ベルリン州立図書館は、Stabika(http://stabikat.de/)と呼ばれる通常のオンライン図書検索サイト以外に、その他いくつかのカタログを提供していますが、その一つに、個人文書や文書資料、出版社アーカイブ等を検索する、Kalliope Verbundkatalog (Kalliope Union Catalog)という統合検索サイトがあります。
Kalliope Verbundkatalog
東アジア部が最初に設立されたのは1922年で、現在はポツダム通りの新館内にあります(http://staatsbibliothek-berlin.de/en/about-the-library/abteilungen/ostasien/)。 現在、22名の職員が在籍しており、日本担当が7名(うち専門司書2名)、中国担当が9名、韓国・中央アジア担当が各2名在籍しています。 職員は利用者へのガイダンスやレファレンス対応、新刊購入、カタログの更新等を行っています。 また、研究者から書籍や資料の寄贈受け入れ作業も行っています。 さらに、東アジア部ではポーランドのヤギェウォ大学と共同で、第二次世界大戦期にポーランドに疎開していた戦前期の東アジア関連書籍やコレクションをヴァーチャルコレクションとして統合するデジタル化プロジェクト(Berlin-Krakow Project: The Digitisation of East Asian Berlinka)を行っています。 同コレクションには、清朝の李鴻章や李氏朝鮮国王の高宗のアドバイザーを務めた、パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Moellendorff:1847-1901)のコレクションも含まれています。
→Berlin-Krakau Projekt: Digitalisierung ostasiatischer Berlinka
なお、現在東アジア部が所蔵する古典籍等のコレクションについては、ベルリン州立図書館のサイト(DIGITALISIERTE SAMMLUNGEN: http://digital.staatsbibliothek-berlin.de/)からオープンアクセスで検索することが可能です。 “Japonica”の分類をクリックすると、江戸から明治時代の写本や印刷書籍だけでなく、いくつか巻物を含むコレクションなども閲覧することができます。
CrossAsia
また、東アジア部ではハイデルベルグ大学図書館と同大学の南アジア研究所と共同で「Crossasia – FID Asia」という特設サイトを運営しております。 このサイトは、主にアジア研究を行う学生や研究者向けに、登録後有料ではありますが、アジアに関するデータベースや電子ジャーナルや電子書籍サービスを提供しています。
本年度中に皆様からご寄贈いただいた、アジ歴やアジ歴公開資料が言及・引用されている文献のご紹介です。
編著者名
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書 名
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出版元
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出版年
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潘洵・著,徐勇・監修,波多野澄雄・監修,柳英武・訳
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重慶大爆撃の研究
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岩波書店
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2016
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宮下雄一郎・著
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フランス再興と国際秩序の構想 第二次世界大戦期の政治と外交
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勁草書房
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2016
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部落解放・人権研究所衡平社史料研究会・編,金仲燮・監修,水野直樹・監修
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朝鮮衡平運動史料集
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解放出版社
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2016
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関誠・著
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日清開戦前夜における日本のインテリジェンス 明治前期の軍事情報活動と外交政策
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ミネルヴァ書房
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2016
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東京大学平賀譲研究会・編,呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・編
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平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどる
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文藝春秋
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2008
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滋賀県県政史料室・編
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公文書でたどる近代滋賀のあゆみ(淡海文庫 52)
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サンライズ出版
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2013
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黄自進・主編
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國共關係與中日戰爭(中央研究院近代史研究所蒋介石研究群専書)
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稻郷出版社
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2016
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相原佳之,尾形洋一,平野健一郎・編
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東洋文庫蔵汪精衛政権駐日大使館文書目録
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東洋文庫
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2016
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古結諒子・著
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日清戦争における日本外交 東アジアをめぐる国際関係の変容
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名古屋大学出版会
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2016
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廣部泉・著
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人種戦争という寓話 黄禍論とアジア主義
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名古屋大学出版会
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2017
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期 間
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イベント名
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備 考
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リンク
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2017年
2月21日~3月19日 |
福岡共同公文書館平成28年度特別展「国立公文書館所蔵資料展 公文書で再発見! 近代日本と福岡のあゆみ」
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国立公文書館では、所蔵資料をより多くの方々にご覧いただくため、平成24年度より、各地の公文書館等で展示会を開催しています。
平成28年度は、福岡共同公文書館において所蔵資料展を開催します。
「大日本帝国憲法」、「終戦の詔書」、「日本国憲法」(以上は、複製による展示となります。)や「民撰議院設立建白書」、「国民所得倍増計画」など教科書でおなじみの資料のほか、福岡県内8都市の空襲被害の状況を伝える「戦災概況図」や「昭和の大合併」に関する文書など、明治から昭和戦後期までの日本と福岡の歴史を物語る貴重な資料を、福岡共同公文書館所蔵資料とともに、ご覧ください。
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2017年
4月8日~5月7日 |
平成29年春の特別展「誕生 日本国憲法」
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平成29年春の特別展では、施行70年の節目にあたる日本国憲法の制定過程をたどります。
「憲法大臣」としてその誕生に大きな役割を果たした金森徳次郎にも注目し、憲法がどのような経過をたどって生まれてきたのかを、当館所蔵の基本資料を中心に展示します。
期間中は特別に日本国憲法の原本をご覧いただけます。
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期 間
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イベント名
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備 考
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リンク
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2017年
1月10日~3月31日 |
企画展示「国書・親書展~ヨーロッパ編(2)~」
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国書・親書とは、国家の元首が相手国の元首に宛てて発出した手紙のことで、いずれにも、元首の署名(サイン)が記されています。
外交史料館では、江戸幕府徳川家の将軍、明治天皇、大正天皇、昭和天皇が諸外国から受け取った国書・親書を数多く(約1,100通)所蔵しています。
本企画展示では、これらの国書・親書のうち、明治初期から昭和戦前期にかけてヨーロッパ諸国の元首から送られた代表的な国書・親書を展示します。
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【編集後記】
アジ歴ニューズレター第22号をお読みいただきありがとうございました。
今回は関西及びヨーロッパの「関連資料の所在情報」を充実させてお届けしました。
次号以降も引き続き利用者の皆様に役立つ情報をお届けしていきたいと考えております。
どうか今後ともご愛読頂けますようよろしくお願いいたします。
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