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ベートーヴェンの「第九」といえば、日本では年末の恒例行事として、「第九」の演奏会が多くのオーケストラによって開催されています。そんな日本人になじみ深い「第九」、すなわちベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125が日本で初演されてから、2018年でちょうど100年になります。初演の日付は1918年6月1日、場所は徳島県の板東町(現在の鳴門市)、当時この地に置かれていたドイツ兵俘虜収容所のなかでの出来事でした。
※近代の日本では、捕虜のことを「俘虜」と呼んでおり、アジ歴公開資料のなかでも「俘虜」と記載されています。この文章でも、資料の表記に従い「俘虜」と表記します。
1914年7月に第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を根拠に英・仏・露など連合国の一員として参戦します。日本軍は、敵国となったドイツが中国で租借していた青島など山東半島の要地を攻略し、ドイツやその同盟国であるオーストリア・ハンガリー帝国の軍人・兵士を多数俘虜にしました。彼らを収容するため、日本国内各地に俘虜収容所を設置するとともに、陸軍大臣の下に国際赤十字との連絡機関である俘虜情報局を設置しました。また、外務省も在外公館を介して、俘虜の処遇などに関して関係各国との交渉にあたりました。
俘虜収容所は、青島占領直後の1914年末の時点では東京(のち習志野に移転)、静岡、大分、松山、丸亀、徳島、久留米、熊本、大阪(のち広島県の似島に移転)、姫路(のち青野原に移転)、名古屋、福岡の全国12カ所にのぼりました。その後段階的に整理・統合が行われ、講和後の1920年に収容所が閉鎖された時点では、習志野、板東、久留米、似島、青野原、名古屋の6カ所でした。
明治以降の日本は近代的で対等な外交関係を確立するため、自らが「文明国」であることをアピールする必要に迫られていました。そうした外交政策の一環として、当時欧米列強が戦争遂行の規範としていた「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦条約、1899年発効)の規定を遵守することに努めました。(※ハーグ条約批准の御署名原本はref.A03020484400)この条約には俘虜の人道的取り扱いについての規定があり、第一次大戦の俘虜収容所でもこれを遵守するという方針が貫徹されました。その結果、俘虜は一部の例外的事件を除いておおむね人道的に処遇されました。
こうした人道的処遇の一環として、収容所では俘虜たちによる様々な活動が許されていました。ジーメンス・シュッケルト社の日本支社をはじめとする滞日ドイツ人から、書籍や楽器(画像1)、サッカーボール(蹴球)(ref.C10073237000参照)などの寄贈を受けていたこともあり、収容所の中で演劇や音楽、スポーツなど様々な文化的活動が展開されたのです。板東をはじめ久留米や習志野などいくつかの収容所ではオーケストラや合唱団が結成され、定期的に演奏会が行われていました(画像2)。第九の初演もその一環でした。第九以外のベートーヴェンの交響曲についても、4番、5番「運命」、7番、8番などが収容所オーケストラによって日本初演されています。そのほか、収容所オーケストラではヨハン・シュトラウス2世のワルツ『美しく青きドナウ」やシューベルトの「未完成交響曲」など、様々な作品が演奏会で取り上げられています。
こうした演奏会は基本的に収容所内で俘虜を聴衆として開催されましたが、一部の収容所では一般の日本人を聴衆とした演奏会も開催されました。日本人の聴衆を対象とした最初の「第九」演奏(1~3楽章のみ)も、久留米収容所のオーケストラによるものでした。
ちなみに、日本人が初めて「第九」を演奏したのは1924年1月の九州帝国大学フィルハーモニー(現在の九大フィル)の演奏会(第4楽章のみ)、全曲の初演は同年11月の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の演奏会でのことでした。
音楽以外にも、たとえばサッカーでも日本人との交流は盛んでした。名古屋や似島などの収容所では、俘虜のチームと地元の中学校や師範学校のチームの試合が行われ、ドイツの高いサッカー技術が学生たちに伝えられたといいます。
ところで、俘虜の取り扱いが特に人道的だったと評され、第九の初演の地でもある板東俘虜収容所の所長だった松江豊寿(1872年-1956年)(画像3)は、戊辰戦争で敗者となった会津藩士の息子で、のちに会津若松市長も勤めました。また、東京と習志野の俘虜収容所の所長で、在職中に病死した西郷寅太郎(1866年-1919年)は、西南戦争で敗死した西郷隆盛の嫡男です。幕末維新期の戦争の敗者に連なる人々が収容所の責任者のなかにいたことは、これまた「敗者」であるドイツ人俘虜への処遇のあり方を考える上で、大変興味深い点だと思われます。
収容所で俘虜たちを人道的に扱う一方で、俘虜を様々な企業で有給労役させる動きも起こります。当時のドイツは様々な分野で日本より技術水準が高かったため、俘虜たちが持つ技術を企業活動に活用しようとしました(画像4)。収容所が閉鎖された後も、俘虜のなかにはそのまま日本に定住し、日本社会にドイツの技術や文化を伝える人々が現れました。かれらの存在によって、バウムクーヘンなどのドイツ菓子、ソーセージやロースハム、パンなど現在でもなじみ深いドイツの食文化、そしてゴム製品などの工業技術が日本で定着するようになったのです。
このように、俘虜への人道的な取り扱いで知られた日本の俘虜政策ですが、1930年代以降国際的な孤立を深めるなかで、国際条約を遵守する意識が希薄になっていきます。特に太平洋戦争では、俘虜となった連合国側の兵士たちに対する虐待が問題となり、戦後にBC級戦犯裁判で責任を追及されることとなります。
第九の日本初演の背景には、こうした日本の俘虜政策の歴史が隠されているのです。皆さんも年末に「第九」を聞くときに、このことを思い出してみてください。
アジア歴史資料センターでは、外務省外交史料館や防衛省防衛研究所戦史研究センターが所蔵する、第一次世界大戦中に設置された俘虜収容所に関する公文書を公開しています。
(→外務省外交史料館所蔵 ドイツ軍俘虜関係簿冊一覧へ)
(→防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵 ドイツ軍俘虜関係簿冊一覧へ)
(→防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『欧受大日記』所収ドイツ軍俘虜関係資料一覧へ)
※このほか、「俘虜」もしくは「捕虜」をキーワードとした検索結果のなかに、上記以外のドイツ軍俘虜に関係する若干の資料が含まれます。
【参考文献】
富田弘『板東俘虜収容所』(法政大学出版局、1991年)
習志野市教育委員会編『ドイツ兵士の見たニッポン』(丸善ブックス、2001年)
横田庄一郎『第九「初めて」物語』(朔北社、2002年)
内海愛子『日本軍の捕虜政策』(青木書店、2005年)
瀬戸武彦『青島から来た兵士たち』(同学社、2006年)
大津留厚・藤原龍雄・福島幸宏『青野原俘虜収容所の世界』(山川出版社、2007年)
ベートーヴェン・ハウス ボン編『「第九」と日本 出会いの歴史』(彩流社、2011年)
明治時代、不平等条約改正を目指す政府は、欧米諸国と対等な外交関係を築くために、欧化政策を推進しました。その一つが、西洋音楽の導入です。1879(明治12)年、文部省内に音楽取調掛(以下、「取調掛」)が設置されると、西洋音楽導入の動きが本格化しました。
アジ歴の資料に、『音楽取調成績申報書』〔Ref.A07062217700〕があります。これは1884(明治17)年に取調掛長の伊澤修二が文部卿大木喬任に上呈した、取調掛の4年間にわたる事業報告書です。それによれば、1879年に提出した『音楽取調ニ付見込書』において、取調掛は三つの大綱を掲げました。そのうちの一つが「将来国楽ヲ興スベキ人物ヲ養成スル事」でした。そこで西洋及び日本音楽の専門家を養成すべく、1880(明治13)年に音楽伝習生22名の入学を許可し、唱歌やピアノなどを習得させました。さらに1883(明治16)年には「文部省音楽取調掛規則」を制定し、4年間のカリキュラムも整備されました【画像1】。
1887(明治20)年、取調掛は東京音楽学校に改称・発展され、現在でもよく知られる音楽家を輩出していきます。それでは、両機関の教員や卒業生にはどのような人物がいて、どのような音楽活動をしたのでしょうか。アジ歴の資料をもとに、それらを見ていきたいと思います。
取調掛初期の教員としては、お雇いのアメリカ人音楽教師、ルーサー・ホワイティング・メーソンが重要な役割を果たしましたが、1882(明治15)年に任期満了となった後は、新たにドイツ人のフランツ・エッケルトを雇いました。このとき、エッケルトは海軍省の軍楽教師としてすでに雇われていたため、現在では防衛省防衛研究所にエッケルトに関する資料が多く残されています。例えば、エッケルトが海軍省に雇われたときの条約書〔Ref.C09101868800(7~14画像目)〕、文部省が海軍省に対して、エッケルトに取調掛でも和声学や管弦楽を教えてもらえないかと打診するやり取り〔Ref.C09103590000〕などがあります。なお、エッケルトは1880年に国歌「君が代」に和声を付けた人物でもあり、その楽譜も見ることができます【画像2】。
そのようなお雇い音楽教師たちに師事し、1885(明治18)年に取調掛の第一期卒業生となったのは、幸田露伴の妹である幸田延でした。幸田延はボストンやウィーンへの音楽留学を経て、東京音楽学校の教授となり、教え子たちを世に送り出しました。
その1人が、童謡「赤とんぼ」を作曲したことで知られる山田耕筰です。山田耕筰は1908(明治41)年に本科声楽部を卒業し、詩人の北原白秋と組んで多くの音楽作品を生み出しました。アジ歴の資料からは、「大日本警察の歌」及び「警察行進曲」【画像3】、「大陸軍の歌」【画像4】という軍歌を2人で手掛けていたことが分かります。
もう1人、幸田延から声楽を習い、かつ山田耕筰を指導したのが、オペラ歌手の三浦環です。三浦環は、1904(明治37)年に本科声楽部を卒業し、嘱託の教員、次いで助教授になりました。1915(大正4)年には、日本人プリマドンナとしてプッチーニ歌劇「蝶々夫人」をロンドン・オペラハウスで初めて演じたことがきっかけで、世界にその名を轟かせることとなりました。アジ歴では1940(昭和15)年発行の資料において、ハンセン病の療養所で歌唱を披露する写真を見ることができます〔Ref.A17110111800(160画像目)〕。
この三浦環と北京出身の留学生との関係を示す貴重な資料が、現在も外務省外交史料館に残されています。その留学生の名前は史永芬、芸名を白光といいます。1938(昭和13)年、東和商事映画部製作・日中協同映画「東洋平和の道」で主演デビューを果たした白光は〔Ref.B05016228900(2~12画像目)〕、来日して三浦環歌劇音楽学院の声楽科に入学しました。このとき、白光は外務省文化事業部長宛に奨学金の給付を受けられるよう申請しており、学院長であった三浦環も白光のために証明書を提出しています【画像5】。さらに1939(昭和14)年に東京音楽学校選科に入学し、引き続き給付を受けられるよう申請しています〔Ref.B05015504400〕。
留学を終えた白光は、1942(昭和17)年に上海に渡り、女優兼歌手として活動しました。そして、当時では珍しかった厚みのある低音の歌声や西洋の歌唱法などが話題を呼び、かの李香蘭と並ぶ「七大歌星(スター歌手)」の1人に数えられるまでになりました。1949(昭和24)年には香港に赴き、プッチーニ歌劇「トスカ」を改編した「一代妖姫」での演技が注目を集め、「一代妖姫」は白光の代名詞となりました。
東京音楽学校は、1949年に東京芸術大学音楽学部となり、現在も多くの音楽家を世に送り出しています。アジ歴の資料は、このような音楽や音楽家に関する記録を探すときにも有効かもしれません。
【参考文献】
中村理平『洋楽導入者の軌跡 ―日本近代洋楽史序説―』刀水書房、1993年。
田辺久之『考証三浦環』近代文芸社、1995年。
邱淑婷『香港・日本映画交流史 ―アジア映画ネットワークのルーツを探る―』東京大学出版会、2007年。
王勇・鮑静「別様歌喉 一代妖姫 ―白光―」『音楽愛好者』2007年第2期。
吉田孝『毫モ異ナル所ナシ ―伊澤修二の音律論―』関西学院大学出版会、2011年。
平高典子「幸田延のボストン留学」『論叢』(玉川大学文学部紀要)54、2013年。
後藤暢子『山田耕筰 ―作るのではなく生む―』ミネルヴァ書房、2014年。
・国 内
6月12日
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近畿大学文芸学部文化・歴史学科特別セミナーでのデモンストレーション
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6月20日
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GACoS情報探索ガイダンス(東京大学本郷キャンパス)でのデータベース講習
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6月22日
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GACoS情報探索ガイダンス(東京大学駒場キャンパス)でのデータベース講習
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・当センターへのご来館
5月24日
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上田薫スタンフォード大学フーバー研究所ジャパニーズ・ディアスポラ・コレクションキュレター
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開催期間
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イベント名
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内 容
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リンク
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2018年
7月21日~9月1日 |
武士でありながら太政大臣の地位まで昇りつめ、武家政権を打ち立てた平清盛。2018年はその清盛の生誕900年に当たります。そこで、今年の夏の企画展では清盛の栄華から平家一門の滅亡までを描いた古典文学の傑作『平家物語』を取り上げます。
実は『平家物語』には教科書に掲載されている有名なエピソードのほかにも、奇妙で不思議な逸話が多く収められています。本展では当館所蔵の貴重な写本・版本から、真夏にふさわしい怖い話を中心に紹介。怨霊・天狗が暗躍する『平家物語』の怪異の世界に迫ります。 |
開催期間
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イベント名
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内 容
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リンク
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2018年
6月12日~10月11日 |
明治150年記念展示「条約書にみる明治の日本外交」
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平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から150年の節目の年に当たります。本展示では,外交史料館が所蔵する条約書等を通して,明治の日本外交の歩みをご紹介します。
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【編集後記】
団体などが主催する行事・研究会、学校の授業等において、アジ歴の紹介や利用ガイダンスなどを行うことが出来ます。ご希望の方は下記の「お問い合わせ先」までお知らせください。
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