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アジ歴ニューズレター
【アジ歴ニューズレター 第27号 2019年1月31日発行】
目次
※署名記事の内容は、執筆者個人の見解に基づくものであり、当センターの公式見解ではありません。
新規公開資料のお知らせ
【2018年8月24日公開資料】
・国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和21年~29年
 勲章の制度は、太政官布告第54号(明治8年)で創設されました。この資料は、その裁可書及び関係書類を年別、月日順に編集したものです。外国人叙勲や褒章等も含みます。アジ歴では今回、昭和21年から昭和29年までの資料を公開しました。
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和21年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和22年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和23年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和24年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和25年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和26年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和27年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和28年
  国立公文書館>内閣>叙勲裁可書>昭和>昭和29年

【2018年10月12日公開資料】
外務省外交史料館>戦後外交記録>A’門 政治、外交、国際紛争

・1類 本邦外交>0項>0目
 「ポツダム宣言受諾関係一件」・「連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件」・「渉外連絡会議関係一件」・「連絡調整中央委員会幹事会議事録」・「終戦連絡各省委員会議事録」・「「執務報告」綴/終連の部」など、終戦処理関係の簿冊108冊分を新規公開しました。

・1類 本邦外交>1項 調査研究>0目
 「本邦の対外政策調査研究関係雑集/対アジア政策関係」のうち朝鮮・中国・ソ連関係の簿冊、および「本邦の対外政策調査研究関係雑集/外務懇話会関係」、「各国の対日政策関係事項半月報」などを公開しました。

・1類 本邦外交>2項 対アジア及び中東諸国>1目 アジアの部
 日本とネパール、インドネシア、カンボジア、ラオス、ベトナム間の外交関係に関する簿冊を公開しました。

・1類 本邦外交>3項 対欧州及びアフリカ諸国>1目 英連邦の部
 日本とイギリス本国、および英連邦諸国(スリランカ・パキスタン・オーストラリア・インド・ニュージーランド)との外交関係に関する簿冊を公開しました。

・1類 本邦外交>3項 対欧州及びアフリカ諸国>2目 フランス(旧連合、旧共同体を含む)
 日本とフランス本国、および仏領インドシナとの外交関係に関する簿冊を公開しました。

・2類 諸外国外交、国際政治>3項 国際政治問題>0目
 簿冊「国際共産主義及びその活動関係/コミンテルン・コミンフォルム関係」を公開しました。

・3類 本邦内政>0項>0目
 「日本国憲法関係一件/研究資料」、「旧日本外地状況雑件 第1巻」を公開しました。

・7類 国際紛争>1項 戦争>0目
 「朝鮮動乱関係一件」の簿冊5冊を公開しました。

・7類 国際紛争>2項 紛争、動乱>0目
 簿冊「第二次世界大戦関係雑件/戦後処理問題に関する米英仏ソ等外相会議関係」を公開しました。

【2018年11月5日公開資料】
・国立公文書館>商工省>経済安定本部
 経済企画庁図書館で保管された資料です。

【2018年12月7日公開資料】
・国立公文書館>財務省>財務省>明治大正財政史編纂資料>勝田家文書
 租税・貨幣・西原借款など財政・金融関係資料のほか、大蔵大臣などを務めた勝田主計(1869-1948)の戦前の日記、来簡等を含みます。

・国立公文書館>財務省>財務省>昭和財政史資料>第9号
 「昭和財政史資料」の第1号から第8号までの資料は、関東大震災以降、昭和13(1938)年ころまでに、大蔵省の各局で作成又は取得した資料です。収集期順に、第1号から第8号まで8区分され、それぞれが38分類のもとに、整理分冊されています。
 アジ歴では、第1号から第8号までは公開済みでしたが、今回第9号を公開しました。第9号は、昭和初年から終戦までの資料を対象とし、分類は第1-8号と同様です。



外交史料館からのお知らせ

 外務省外交史料館ではインターネット上での所蔵史料検索サービスを開始いたしました。アカウント登録は必要なく,どなたでも利用できます。戦前期の国書・親書の一部は電子画像でご覧頂けると共に,その他の史料目録情報(戦前期と戦後期の一部)については,アジ歴の同史料目録へリンクができるようになっています。

外務省外交史料館所蔵史料検索システム
https://www.da.mofa.go.jp

利用案内
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001744.html

システムの使い方
https://www.da.mofa.go.jp/help/help.html


今日の資料

佐藤冨五郎日記を繙く ―70年の時を超えて―

  「戦時下のマーシャルで、飢えで亡くなったお父上が書いた日記を形見に持つご子息がいる」
 そんな話を耳にしたのは、私がマーシャル諸島共和国の首都マジュロで暮らしていた2014 年春のことでした。その後ご縁あって私はご子息の佐藤勉さんと知り合いました。
 勉さんの父、佐藤冨五郎氏は敗色が濃くなった1943(昭和18)年4月に充員召集を受け、同年7月に横須賀を出航。海軍第64警備隊が防備するマーシャルのウォッチェ環礁へ配属されました。

 アジア太平洋戦争において、マーシャルでは約2万人の日本兵が命を落としました。戦闘でほぼ全滅した部隊もあれば、補給路を絶たれ、敗戦まで餓えとの闘いを強いられた部隊も少なくありませんでした。冨五郎氏がいたウォッチェ環礁では、制空海権を奪われてから敗戦までの1年9ヶ月、約4000人の兵士が自給自足を強いられました。冨五郎氏もそのうちのひとりでした。1945(昭和20)年4月に栄養失調で亡くなる数時間前まで、冨五郎氏は日々の記録と遺書を2冊の手帳に細やかに記していました。39年の生涯でした。
 父の記憶がない勉さんにとって、遺された手帳だけが唯一の形見でした。私は勉さんの永年の夢であった日記の全文解読に挑むことになりましたが、解読にはさまざまな人の助けが必要でした。当時の戦況や軍隊用語、人名や地名を特定する上では公文書や戦史史料を参考資料としました。

佐藤冨五郎氏が日記を書いた二冊の手紙
佐藤冨五郎氏が日記を書いた2冊の手帳
1.戦友を捜して

 手帳は、戦後しばらくしてからご家族のもとに届きました。送り主は山梨在住の原田氏という人物であることは同封の手紙からわかりましたが、名前と住所が記載されていた封筒の行方がわからなくなっており、原田氏の消息は掴めませんでした。
 手紙に原田氏は冨五郎氏と「同年」兵の「戦友」と書いています。冨五郎氏と同じ1906(明治39)年生まれであれば現在112歳になるため、原田氏の足跡だけでも追うことはできないかと私は手探りで資料を探しながら日記解読を進めました。
 冨五郎氏の所属部隊は、海軍第64警備隊です。インターネットで「64警備隊」と検索するとアジ歴資料「生存者給与通牒控綴」を見つけました。

 この資料は1945(昭和20)年8月20日に作成されました。敗戦後、停戦協定成立に伴い第64警備隊生存者の給与打ち切りを記した通牒記録です。
 度重なる空襲により紙とペンが残っていることも貴重であろう環境下で、主計大尉北島秀治郎が生き残った兵士ひとりひとりの名前を書いた光景が浮かび上がります。復員船の到着を待ち侘びながら、亡くなった戦友の顔も思い浮かべたことでしょう。
 この名簿に原田姓の人物は2人います。手紙によると原田氏は冨五郎氏を「戦友」と呼んでいるので、原田氏も冨五郎氏と同じ所属部隊にいたと思われます。2人の原田氏どちらかが日記を届けてくれた原田氏ではないかと考えました。
 また、手紙には「内地へは可愛い妻子を残してあるんだものちょっと死ねないね。等と何時も話す事は妻子の事ばかり。」と冨五郎氏と交わした会話が記されています。この会話から、原田氏にも妻子がいたと推測されます。通牒の扶養員数に注目してみると、原田文三氏は空欄、原田豊秋氏には漢数字の「七」が記されています。妻子がいたであろう原田氏に扶養者がいたと推測すると、原田豊秋氏である可能性が高そうです。その後、防衛省所蔵史料で原田豊秋氏の本籍地は山梨、生まれは冨五郎氏と同じ1906(明治39)年であることがわかりました。こうして、山梨から手紙を送った「同年」兵の「戦友」原田氏は、原田豊秋氏であることが明らかになりました。

生存者給与通牒綴
生存者給与通牒控綴(Ref.A03032167800、24コマ)
右から6行目:原田豊秋氏、右から7行目:壁巣弥之助氏


2.兵長の名は

 日記は、おもに鉛筆とペンで書かれています。風雨にさらされた紙の劣化により、肉眼では文字の判読が難しい箇所も多々ありました。文字を見えるままに書き起こすと文意が通らないこともあり、その場合は前後の文脈や冨五郎氏の書き癖を考慮しながら解読を進めました。

十九日 晴。畑清掃、増産足ノムクミノ為メ休ム別虫取タコ三ヶ生ヤシ一ヶヒロウ、頂ク
 ×巣兵長オリメジ行ク途エネヤニ寄リワラジゾーリヲ恵ンデヤ古物デアツタ

 これは1945(昭和20)年2月19日の日記です。冨五郎氏はこの時エネヤ島管理の任務に就いていました。
 ×と置いた文字は、最後までなかなか解読できませんでした。よく眺めると「辟」という文字に見えます。×の次に「巣」の文字があり「兵長」と続くことから「×巣」は人物名であると仮定してみました。
 人名を明らかにするのであれば、戦友の原田氏を特定できた「生存者給与通牒控綴」が再び参考になるかもしれません。今度は「辟巣」に似た苗字がないかという視点で目を通してみました。
 すると、奇しくも原田豊秋氏の左隣に壁巣弥之助氏という人物がいます。
 もう一度、日記原本を見てみました。「辟」の下に「土」は書かれていません。

佐藤冨五郎日記原本 佐藤冨五郎日記原本 (画像調整を施しているため、実際の原本とは色味が異なります)

 1943(昭和18)年4月に充員召集を受けた頃から綴った文章を読み進めると、冨五郎氏には漢字のへんやつくりを省略して書く傾向が見られました。「壁」の部首「土」を省略して「辟」の字を書いたと考えると、73年前の2月19日、冨五郎氏がいるエネヤ島へ壁巣弥之助氏がやってきて、冨五郎氏が壁巣氏に古物の草履をあげた場面を思い浮かべることができます。

3.航海の記録

 人物名のほかにも、資料から冨五郎氏の日本からウォッチェまでの移動経路を垣間見ることができました。日記の記述から、冨五郎氏は1943(昭和18)年7月9日に横須賀を発ち、8月1日にウォッチェ島へ到着するまで3隻の船を乗り継いでマーシャルを目指したことがわかりました。ウォッチェ到着前日にクワジェリンを出港し、途中カツオ釣り等を行ったと記していることから、3隻目は漁船のような小舟に乗り換えたことは推測できましたが、船名はわかりませんでした。
 多くの部隊は、戦時日誌を記しています。冨五郎氏がウォッチェへ向かった1943(昭和18)年7月の第64警備隊戦時日誌と戦史史料によると、元漁船「第五愛鷹丸」は7月31日にクワジェリンを出港し、翌8 月1 日に80 名余の兵士を乗せてウォッチェ環礁へ向かったと記されています。日記には書かれていなかった部隊の詳細な足取りを複数の資料によって辿ることができました。

昭和17年11月1日~昭和18年11月30日 第64警備隊戦時日誌(4)(ref:A03032167800、アジア歴史資料センター)
昭和17年11月1日~昭和18年11月30日 第64警備隊戦時日誌(4)(Ref.C08030497100、41コマ)

 2016(平成28)年春、私はご子息勉さんと冨五郎氏が眠るウォッチェ島を訪れました。かつて冨五郎氏が日記を綴り、戦友と語らい、食糧増産に励んだ島には、今もなお戦争の爪痕が至る所に残ったまま70年以上の月日が流れていました。朽ちゆく戦跡を通して、わずかながら冨五郎氏が見た当時の光景を思い描くことはできましたが、飢えと闘う日々がどのようなものであったかを想像することは困難でした。
 帰国後、冨五郎氏の日記を繙いてみると、戦況の悪化とともに自身の身体に浮腫、腹痛、下痢などの症状があらわれる様子を日々克明に記し、自らの死と対峙していた姿が浮かびあがりました。死期が近づくにつれ、文字が大きく乱れていく筆跡からも体力や気力が奪われていく様子がまざまざと伝わってきます。
 命が尽きる直前まで書き続けることを選び、戦友の原田豊秋氏に2冊の手帳を家族へ届けてほしいと願った冨五郎氏が伝えたかったこと。それは、子どもたちが読めるように漢字にはルビを振り、遺書に綴った、公の記録からはこぼれおちてしまう家族への想い。そして、「ガ死ダ 食モノナシ」と目立つよう斜めに二度書いた形跡が物語るように、自身の死が戦闘によるものではなく飢えであることでした。
 「元気デ、ホガラカニ オイシイモノデモタベテクラシテ下サイ」
 冨五郎氏が70年前にそう記し、願った未来を私たちはいま生きているのでしょうか。平成の終わりに、冨五郎氏の静かなる声と公文書資料を繙きながら、いまと未来を問わずにはいられませんでした。


【参考文献】
仁平義明「佐藤富五郎一等兵曹の遺書・戦場日記」(『白鴎大学論集』第25巻第1号、白鴎大学、2010年)
大川史織編『マーシャル、父の戦場 ―ある日本兵の日記をめぐる歴史実践』(みずき書林、2018年)

<アジア歴史資料センター調査員 大川史織>

新しいコンテンツのご紹介

明治150年インターネット特別展「岩倉使節団 -海を越えた150人の軌跡-」

 今回の特別展では、明治初年に派遣された岩倉使節団をとりあげました。地図や年表、コラムなどで岩倉視察団の行程や現地での活動、歴史的背景などを紹介し、岩倉使節団が残した記録や、岩倉使節団に関わった人々にまつわる資料の検索も可能にしました。

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地図を見る
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年表を見る
年表を見る
岩倉使節団の行程を地図上に表現しました。



岩倉使節団の詳細な活動内容を年表にまとめました。また、同時代の日本国内・アジア・欧米の動きをまとめた年表により、岩倉使節団が派遣された時期の歴史的背景を知ることができます。
人名を見る
人名を見る
岩倉使節団の記録
岩倉使節団の記録
岩倉使節団に関係した約150人、留守政府の主要人物、岩倉使節団と接点をもった外国人について、人名一覧を作成しました。アジ歴の検索結果や「アジ歴地名・人名・出来事事典」とリンクしており、資料検索にもご活用いただけます。
岩倉使節団が派遣中や帰国後に作成した資料をまとめた「大使書類」(国立公文書館所蔵)についてご紹介しています。「大使書類」のなかの各簿冊についての解説と、アジ歴で公開している画像データへのリンクが掲載されています。
解説コラム
件名:解説コラム

岩倉使節団についてより深く理解するための解説コラム
です。
対外活動報告


・国 内

7月7日
化学史学会(中央大学後楽園キャンパス)での報告
7月8日
中国社会文化学会(東京大学本郷キャンパス)での報告
10月26日~28日
EACJS(京都リサーチパーク)でのパネル報告
10月30日~11月1日
図書館総合展(パシフィコ横浜)におけるブース出展
11月17日
同時代史学会(早稲田大学早稲田キャンパス)での報告


・海 外

7月5日~7日
AAS in ASIA(ニューデリー)におけるブース出展
9月12日~15日
EAJRS(カウナス)でのパネル報告
10月15日~16日
東アジア史料研究編纂機関国際学術会議(北京)での報告


・当センターへのご来館

11月30日
Elaine NG氏(シンガポール National Library Borad CEO)、Abigail HUANG氏(シンガポール国立文書館アーキビスト)
12月12日
上田薫氏(スタンフォード大学フーバー研究所キュレター)
12月13日
濵田浄人氏(国立科学博物館連携推進課長)ほか
関連機関イベント情報
開催期間
イベント名
内 容
リンク
2019年1月26日(土)~3月9日(土)
平成30年度第4回企画展「温泉~江戸の湯めぐり~」

→リーフレット(PDF:2.2MB)
 日本人が親しんできた温泉。その薬用効果は古くから知られ、温泉に入浴して病気を治療する湯治は古代より行われてきました。
 江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。
 当初、湯治客を中心としていた温泉地は、次第に湯治場から行楽地へと変わっていきます。
 本展示では、主に江戸時代の資料を通して、人々と温泉の関わりをご紹介いたします。
開催期間
イベント名
内 容
リンク
2018年10月23日(火)~2019年2月28日(木)
企画展示「外交史料謎解きトラベル」

 外交史料館には、外交史料に関するご質問が国内外から数多く寄せられます。
 本展示では、当館に寄せられたご質問の中から、8問を選び、関連史料を展示して、日本外交における様々な興味深い事柄をご紹介します。
 展示を通して、外交史料に触れ、謎を解きながら、諸外国との交流を中心とした過去へのタイムトラベルをお楽しみください。

団体などが主催する行事・研究会、学校の授業等において、アジ歴の紹介や利用ガイダンスなどを行うことが出来ます。ご希望の方は下記の「お問い合わせ先」までお知らせください。

アジ歴のリーフレット(日本語版・英語版・中国語版・韓国語版)をご希望の方は下記の「お問い合わせ先」までお知らせください。

ニューズレターの発行をお知らせするメールは、名刺を頂戴した皆様及び配信のご希望をいただいた皆様にお送りしています。 配信を希望されない場合は、お手数ですが下記の「お問い合わせ先」までお知らせください。

【お問い合わせ先】 電話番号:03-5805-8801(代表) Email:jacar_enquire@archives.go.jp