宣戦布告に先立つ2月4日、既に日本では御前会議でロシアとの開戦が決定されており、6日には政府がロシアに対し国交の断絶を通告していました。2月8日から9日にかけての日本艦隊による攻撃は、宣戦布告の前に行われたことになりますが、当時の国際法では戦争を開始する前に宣戦布告を行うことを義務とする明確な決まりごとはありませんでした。とはいえ、なぜ日本はこうした手段をとったのでしょうか。それには、日本とロシア両国の軍事的な事情が大きく関わっていました。
明治維新以降の日本では、20世紀に入る頃まで、政治、経済、軍事をはじめとする様々な分野に欧米の技術や制度が導入されつつあり、やがては国民国家の形成というかたちに実を結ぶ社会改革が進行していました。「富国強兵」の政策のもとで、憲法の制定、議会の設置、といった国家の仕組みの欧米化、製糸や紡績などの軽工業と、鉄鋼業などの重工業の拡充、そして陸海の軍隊の整備が進められていきます。しかしながら、1880年代に近代工業化が始まった日本の国力では、18世紀に産業革命が始まっていたイギリスをはじめとする欧米列強との間で長期の戦争になった場合、勝利を収めるにはじゅうぶんではないと考えられていました。
そこで、ロシアが戦争準備を整える前に戦争を仕掛け、朝鮮や満州(現在の中国東北部)周辺でロシア軍を撃破していった後、戦いを長引かせることなく有利な条件で講和を行う、という方針のもとで、日本は開戦に踏み切ることにしました。
一方のロシアでは、15~16世紀以来続いていたツァーリ(皇帝)を頂点とする専制政治に対し、20世紀初頭には、これを廃して憲法と議会に基づく体制に改めようという国民的運動が高まってきていました。こうした状況のもと、ロシア軍は、日本と清(中国)に面した東側と、ドイツ、オーストリア、トルコに面した西側の両面に備えながら、さらにその広大な領土内の治安の維持にも力を注がなければなりませんでした。とはいえ、ロシアの財力や軍事力は日本に勝るものであったので、日本との間に長期の戦争が起こった場合には、西側を守る軍隊をそちらに振り分けることができれば、ロシアは有利に戦争を進めることが可能でした。
このような両国の軍事的な事情をめぐる駆け引きが、日露戦争における様々な戦闘と密接に関係しています。
明治37年(1904年)2月23日に軍事的圧力を背景に韓国との間で「日韓議定書」を結んだ日本は、軍隊をさらに北上させ、満州に向かわせます。4月29日から5月初頭にかけて、日本軍は朝鮮半島と現中国領との国境を流れる鴨緑江を渡り、その川沿いを守っていたロシア軍を「鴨緑江の戦い」で撃破しました。その一方で、別の部隊が遼東半島に上陸し、5月に「南山の戦い」で遼東半島最狭部を守るロシア軍を、6月には「得利寺の戦い」で旅順を救援するために南下してきたロシア軍を破っていきます。
こうして日本軍は、旅順要塞に籠もるロシア軍と、遼東方面に集中しつつあるロシア軍の双方に迫りました。
海上においても、日本艦隊はロシア艦隊との間で戦闘を繰り返します。まず、2月から5月にかけて、旅順口に対する攻撃が8回にわたって行われ、これと併せて3回の「旅順口閉塞作戦」が実行されました。ロシアの第一太平洋艦隊主力(旅順艦隊)が拠点とする旅順港は、入口(旅順口)が非常に狭まった湾内にあったので、港湾の入口の浅い海底に船を沈めることによって、ロシアの軍艦の出入りを妨げようというのがこの作戦でした。しかし、いずれも失敗に終わります。同じ頃、ロシアはウラジオストック軍港から艦隊(ウラジオストック艦隊)を出撃させ、陸軍兵士を運ぶ日本の商船を次々に攻撃していました。これを阻止するために日本は新たな艦隊を派遣しましたが、ウラジオストック艦隊は神出鬼没であり、決定的な攻撃を行うことができませんでした。
8月になり、ようやく日本艦隊は「黄海海戦」「蔚山沖海戦」でロシア艦隊を破りますが、多くのロシア艦船が守りの堅い旅順港に逃げ込みました。このままでは、ロシア艦隊によって再び日本の船が襲われたり、ともすると日本の本土が攻撃されたりする恐れがあるため、日本は旅順港の攻略を急ぎます。旅順の攻撃については、3月の段階から、港とこれを守る旅順要塞を陸軍の部隊によって陸上から攻撃する方針への転換が決められ、5月にはこの攻撃を担当する第三軍が編成されてはいましたが、この作戦は準備がじゅうぶんなものではありませんでした。
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