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明治38年(1905年)10月、講和が批准され日露戦争は終わります。この戦争の影響は、日本のみならず、東アジアひいては世界全体に及ぶものでした。 |
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1.ロシアにおける影響 |
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▲ロシアの要人たち
【右から】 |
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キリル・ヴラディミロヴィチ海軍中佐 |
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アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 |
皇太后マリア・フョードロヴナ |
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皇帝ニコライ2世 |
皇后アレキサンドラ・フョードロヴナ |
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海軍総督アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公 |
モスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公 |
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(防衛省防衛研究所所蔵) |
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ロシアでは、日本との戦争を終結させた後に、今度は国内の革命的な情勢を沈静化させなければなりませんでした。ツァーリ政府は、1905年10月に勅令を発し、普通選挙に立脚した立法議会の開催を約束し、人身の不可侵・良心・言論・集会・結社の自由を認めました。1906年4月にはドゥーマ(国会)が開催されますが、土地改革問題で紛糾したため、ツァーリ(皇帝)によってすぐに解散させられました。その後ストルイピン内閣が発足し、混乱した社会を立て直すべく改革に着手しました。しかし、既得権益を侵害することに対しては非常に大きな抵抗が起こり、ストルイピンは改革を貫徹することなく1911年に銃弾に倒れました。すでに加速した革命の車輪に歯止めをかけることが出来ないまま、ロシアは第一次世界大戦(1914~1919年)に突入していきます。 |
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