日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
日露戦争特別展のぺージへ
アジア歴史資料センター・トップページへ
 

ここからグローバルナビゲーションです

  • トップぺージ
  • 本特別展へようこそ
  • 資料解説
  • 日露戦争史
  • 日露戦争トピック
  • 用語集

ここから本文です

日露戦争史

  • 日露戦争はやわかり
  • 総合年表
  • 日露戦争地図
  • 陸上の戦い
  • 海上の戦い
  • 政治・外交

日露戦争はやわかり

 
 

講和とその影響

2.東アジアにおける影響

 明治新体制を発足させてから40年も経ない日本が、ヨーロッパの大国ロシアを破ったことは、国際社会における大きな事件でした。つまり、欧米諸国に学んだ改革を巧みに実行すれば、非ヨーロッパの国でもヨーロッパ諸国に戦争を挑み勝つことができるという事実が明確に示されたのです。

 この勝利によって日本は東アジアにおける強国として台頭することになります。
▲四平街停車場における
日露両国の鉄道引渡及撤兵協商委員
(防衛省防衛研究所所蔵)

 日露戦争後の明治39年(1906年)に、旅順に関東都督府が設置され、 旅順大連を含む遼東半島の一部(関東州)や南満州における日本の権益の保護・監督にあたりました。 ついで日露講和条約で得た旧東清鉄道の長春-旅順間の鉄道と、沿線の鉱山・製鉄業などを経営するために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立され、満州への経済的進出の拠点となりました。

 このような日本の満州への勢力拡大は、かねてより満州の「門戸開放」を唱えていたアメリカの反発を招き、さらにアメリカの満州鉄道中立化案などを拒んだこともあって、日米関係は悪化します。他方でロシアとの協調が進み、明治40年(1907年)以後、4回にわたって日露協約を結び、満州とモンゴルにおける両国の勢力範囲を取り決めました。

 また、日露戦争の結果、日本による韓国の保護国化が欧米列強から認められます。これらの列強の支持を背景に、日本は明治38年(1905年)に第二次日韓協約を結び、韓国の外交権を奪い、漢城(現ソウル)に統監府をおきます。これに対し、韓国は、明治40年(1907年)にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に皇帝の密使を送って、韓国の独立擁護を国際世論に訴えかけましたが、受け入れられませんでした(ハーグ密使事件)。日本はこの事件をきっかけに、第三次日韓協約を結んで、韓国の内政権を奪い、ついで韓国軍も解散しました。これに反対して、義兵運動と呼ばれる反日武装反乱が各地に広がりますが、日本はこれを鎮圧します。そして、明治43年(1910年)に韓国併合条約を成立させ、韓国を朝鮮と改め植民地としました。首都の漢城は京城に改められ、ここに置かれた朝鮮総督府によって、朝鮮が統治されることになりました。

 
 
このぺージのトップへ