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明治・大正期の陸軍軍人です。日露戦争以前に、参謀本部員としてフランス・ロシアの公使館に赴任していました。日露戦争が勃発するとスウェーデンに移り、 この地を根拠としてロシアの革命分子と連絡をとるなど、対ロシアの諜報活動や工作活動に従事しました。 | |||||||
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明治期の海軍軍人です。明治25年(1892年)に海軍士官となり、アメリカ留学、イギリス駐在を経て、明治36年(1903年)には第一艦隊参謀となりました。この年に勃発した日露戦争では、連合艦隊作戦担当参謀として黄海海戦、日本海海戦などに参加しました。 その後も、第一艦隊参謀長、海軍軍務局長などの海軍の要職を歴任しました。 | |||||||
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日本陸軍の騎兵の創設に貢献した人物です。 明治12年(1879年)に陸軍士官となった後、明治20年(1887年)より一時フランスで騎兵戦術を学びました。日露戦争では、騎兵第一旅団長として沙河会戦や奉天会戦などに参加しました。大正5年(1916年)に大将に昇進、大正9年(1920年)より陸軍教育総監を務めた後、大正12年(1923年)に予備役に編入されました。その後は故郷の松山で中学校の校長となっています。 | |||||||
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明治から昭和期にかけて活躍した歴史学者です。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後、米国に留学。ダートマス大学を経て、明治35年(1902年)に博士論文The Early Institutional Life of Japan(『大化の改新』)でイェール大学博士号取得。ダートマス大学講師を務めた後、イェール大学の歴史学教授に就任。イェール大学東アジア図書館長として東アジア学の基本資料の収集に尽力しました。日露講和会議に際しては、市民オブザーバーとして賠償放棄論を説きました。 | |||||||
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ロシアの海軍提督です。ロシア皇帝アレクサンドル2世の愛人の子供で、1860年より海軍に勤務しました。1895年から97年まで太平洋分艦隊を指揮し、1897年から黒海艦隊の艦隊司令長官に就任します。1899年8月に関東州総督兼太平洋艦隊司令長官となり、北清事変の鎮圧などに活躍しました。1903年8月12日には極東総督に任命され、日本に対して強硬な態度をとりました。日露戦争開戦後の1904年2月、極東の陸・海軍の総司令官に就任しますが、クロパトキンと対立し、1904年10月に皇帝から罷免されました。1905年6月に退役し、その後国会議員に任命されました。 | |||||||
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幕末・明治期の政治家で、初代内閣総理大臣を始めとする要職を歴任しました。 明治28年(1895年)の日清講和会議では、日本側の全権として日清講和条約に調印しました。日露戦争前には、筆頭元老としてロシアと協商を結ぶことにより衝突を回避しようとし、また、日露戦争中は金子堅太郎を米国に派遣するなどして戦争終結に向けて尽力しました。戦後、明治37年(1905年)に初代韓国統監となりましたが、明治42年(1909年)、ハルピンにて、大韓帝国の民族運動家であった安重根に暗殺されました。 | |||||||
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ロシア帝政末期の政治家です。政治家として、運輸大臣、大蔵大臣を歴任し、ロシアの財政改革や産業の発展に大きな役割を果たしました。 19世紀になり社会的矛盾が噴出すると、ニコライ2世は穏健派のヴィッテを退け、強硬派のベゾブラーゾフを取り立てます。1905年(明治38年)に、ヴィッテは呼び戻され、日露講和会議ではロシア側の首席全権委員として参加しました。その直後に、市民的自由と立法議会の開設を約束する十月詔書を起草し、1905年革命の収拾に大きな役割を果たしました。ロシア政界の内情をつづった『回想録』を執筆した事でも知られています。 | |||||||
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ロシア帝政末期の海軍軍人です。日露戦争勃発後、第一太平洋艦隊司令長官に任命されました。皇帝の命令を受け、旅順港を脱出しようとしましたが、1904年8月10日の黄海海戦において、連合艦隊の攻撃を受けたツエザレウィチの艦上で戦死しました。 | |||||||
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明治時代の海軍軍人です。明治8年(1875年)より6年間、アメリカに留学して海軍について学びました。明治14年(1881年)より中尉、明治24年(1891年)より大佐を経て、日露戦争では、少将として仁川沖海戦・日本海海戦などに参加しました。戦後、竹敷要港部司令官、佐世保、横須賀の鎮守府司令官を歴任し、大正元年(1912年)に大将となり、同12月に退役しました。 | |||||||
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明治・大正期の政治家、陸軍軍人です。 薩英戦争や戊辰戦争に従軍した後、一時ヨーロッパに留学して軍事を学び、西南戦争や日清戦争では陸軍の要職を務めるなど、日本陸軍の創設に貢献しました。日露戦争では満州軍総司令官として軍を指揮しました。その後、陸軍大臣を長期にわたって務めたほか、内大臣や元老なども歴任しました。 | |||||||
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明治・大正期の陸軍軍人です。 西南戦争、日清戦争に従軍しました。日露戦争では第2軍司令官として出征、 明治44年(1911年)に元帥に昇進しました。 | |||||||
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東京帝国大学の政治学者です。日露戦争開戦の直前の明治36年(1903年)に、時の桂太郎首相と小村寿太郎外相に対露主戦論の意見書を提出したいわゆる七博士の一人です。小野塚はロシア留学時代の広瀬武夫を訪問し文通し合うなど、その親交は深かかったようです。なお、小野塚と伊沢多喜男と高野岩三郎の3人で、アルフレッド・セイヤー・マハンの『海上権力史論』を翻訳出版しました。 | |||||||
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明治・大正期の政治家・陸軍軍人です。台湾総督、陸軍大臣などの要職を歴任した後、明治34年(1901年)から日露戦争をはさむ約5年間と明治41年(1908年)から約3年間、そして大正元年(1912年)末からの2か月間の、3度にわたり内閣総理大臣を務めました。 | |||||||
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明治時代の海軍軍人です。鳥羽・伏見の戦に従軍、西南戦争に出征した後、明治10年(1877年)に海軍兵学校第四期卒業生として海軍少尉補に任ぜられました。日清戦争には秋津洲艦長として出征し、32年(1899年)9月に少将、36年(1903年)9月に中将に進んで、同年12月新しく編成された第二艦隊司令長官となり日露戦争を迎えました。37年(1904年)8月14日の蔚山沖海戦ではウラジオストック艦隊を撃破しました。 | |||||||
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明治期の陸軍軍人です。 戊辰戦争、西南戦争、日清戦争に従軍し、日露戦争では第1軍司令官として出征しました。 明治42年(1909年)に後備役(現役と予備役をあわせた常備兵役を終了した者が服する兵役の一種)に編入されます。 | |||||||
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ロシア帝政末期の将軍です。 17歳で入隊した後、中央アジアへの遠征や露土戦争(ロシアとトルコ間の戦争)に従軍し、陸軍大臣などの軍の要職を歴任しました。 日露戦争では総司令官としてロシア軍を指揮し、第一次世界大戦にも従軍しますが、ロシア革命後は故郷にもどって晩年を過ごしました。 | |||||||
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朝鮮王朝の第26代国王です。閔妃事件後、朝鮮では反日感情が高まり、事件後成立した親日派政権はクーデタで倒され親露派政権が樹立されました。1896年、高宗もロシア公使館に移り、これを契機にロシアは朝鮮に対する影響力を強めました。翌年高宗は王宮(慶雲宮)に戻り、国号を「大韓」と改め皇帝に即位します。国内における親日派と親露派の対立が依然としてつづき、日露の対立も激化していくなかで高宗は皇帝専制権を強化することで朝鮮半島の独立を維持しようとします。日露戦争開戦直前、高宗は戦時局外中立を宣言しますが(1月21日)、日本の軍事的圧力を背景に日韓議定書に調印しました(2月23日)。 | |||||||
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福島県出身の民権運動家、政党政治家です。1898年の憲政党分裂後、憲政本党結成に参画し、普選運動と対外硬の運動に従事しました。日露講和条約の調印にたいしても反対の立場をとり、日比谷公園での国民大会の議長をつとめています。このため、日比谷焼打事件に連座して兇徒聚衆罪容疑で検挙されましたが、無罪になりました。 | |||||||
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明治期の日本陸軍における代表的な人物です。 戊辰・西南戦争で功績をたてた後、参謀本部第一局長や陸軍大学校校長、台湾総督、陸軍大臣などを歴任しました。 日露戦争においては、満州軍総参謀長として従軍しています。 | |||||||
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日英同盟や日露戦争に外交官として関わりました。 特に明治38年(1905年)8月の日露講和会議に際しては全権大使の要職を担いました。 第二次桂内閣の外相もつとめ、明治43年(1911年)、日米通商航海条約に調印して関税自主権の回復を実現しました。 | |||||||
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ロシア帝政末期の将軍です。ペンザ、エカテェリノスラフ、ヴィリノ県知事を歴任し、プレーヴェが暗殺された後の1904年8月26日に、皇太后の推薦で内相に任命されました。彼は、穏健改革路線をとり、実際に政治的弾圧は幾分弱まり政治犯の逮捕は減少しました。しかし、「信頼の時期」と呼ばれたスヴャトポルク・ミルスキーの内閣も、革命の気運を止めることは出来ませんでした。「血の日曜日」事件後の1905年1月18日に内相を辞任しました。 | |||||||
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ロシア帝国の陸軍軍人です。 または「ステッセル」とも呼ばれます。露土戦争や北清事変に際して従軍した後、日露戦争では旅順要塞の指揮をとり、1905年(明治38年)1月2日に日本軍に降伏しました。 1906年(明治39年)に軍法会議にかけられた後、有罪を宣告されて禁固刑に処されました。 | |||||||
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高宗の父です。1863年に高宗が即位すると、王の幼若(数え年で12歳)を理由に約10年間摂政として政権を担当しましたが、政策に対する儒者らの反発と政権をめぐる閔氏一族との対立から下野しました。 1895年の閔妃事件後、大院君は一時的に復権しますが高宗がロシア公使館に移ってからは事実上の軟禁状態におかれました。 | |||||||
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明治後期から昭和初期にかけての政治家・財政家です。 明治32年(1899年)に日本銀行副総裁となり、金本位制の確立、外国債募集による日露戦争の戦費調達を実現しました。 昭和6年(1931年)に蔵相に就任後、二・二六事件で殺害されました。 | |||||||
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明治・大正期の外交官・政治家です。 明治9年(1876年)に外務省勤務となって以来、総領事や公使として欧米各国に派遣されました。日露戦争期には駐アメリカ公使を務め、ルーズヴェルト大統領に講和の斡旋を依頼、日露講和会議では日本側の全権委員として参加しました。 大正6年(1917年)には貴族院議員となりました。 | |||||||
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明治・大正期の陸軍軍人、政治家です。 第一次桂太郎内閣で陸軍大臣となり、日露戦争での勝利に尽力しました。 明治43年(1910年)には陸軍大臣兼任のまま、第3代韓国統監に就任し、韓国併合に際して初代朝鮮総督となりました。 | |||||||
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明治から昭和初期の海軍軍人です。 日露戦争では連合艦隊司令長官に就任し、旅順口閉塞作戦、黄海海戦や日本海海戦では日本の艦隊を指揮しました。 戦後、海軍軍令部長になり、後に元帥にも列せられました。 | |||||||
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明治・大正期の陸軍軍人です。 日清戦争に従軍しましたが、日露戦争では参謀次長として国内にとどまりました。 大正13年(1924年)には衆議院議員に当選しました。 | |||||||
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帝政ロシア最後の皇帝です。1891年に日本を訪れた際に、警護を担当していた滋賀県巡査の津田三蔵によって大津で斬りつけられました(大津事件)。20世紀に入り体制が不安定化した状況下で、日露戦争によってロシアの軍事力・国力の脆弱性が印象づけられ、さらに日露戦争中に起きた「血の日曜日」事件によって皇帝・政府に対する信頼が失われました。第一次大戦中に二月革命が起き、三月に退位しました。1918年7月には軟禁先のエカチェリンブルクにてボリシェヴィキによって殺害されました。 | |||||||
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明治期の陸軍軍人です。 日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順攻略に参加しました。 明治29年(1896年)には台湾総督となります。 日露戦争では第三軍司令官として旅順攻略戦や奉天会戦に参加しました。 明治天皇の大喪の日、自ら命を絶ちました。 | |||||||
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明治期の陸軍軍人です。 西南戦争、日清戦争に従軍し、日露戦争では第4軍司令官として活躍しました。 明治40年(1907年)には貴族院議員になりました。 | |||||||
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明治・大正期の外交官・政治家です。 明治34年(1901年)から明治35年(1902年)にかけて、駐イギリス公使だった林は日英同盟協約の締結に取り組み、明治39年(1906年)には外務大臣に就任しました。 | |||||||
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日本海軍の軍人で、日露戦争では旅順口閉塞作戦に参加し、明治37年3月27日の第2次作戦で戦死しました。 その時の功績をたたえられた広瀬武夫は、公報や新聞などを通じて英雄として喧伝されました。 | |||||||
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高宗の正妃です。1866年に王妃となると、閔氏一族の勢力を増大させ大院君と対立しました。日清戦争時に政権から遠ざけられた閔妃らは、1895年の三国干渉後、ロシアと結んで政権を回復しました。日本の影響力の後退に焦った駐朝鮮国公使三浦梧楼らは閔妃を殺害しました(閔妃事件)。 | |||||||
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ロシアの政治家です。1902年4月にロシア内相に就任し、日露戦争当時もその地位に留まっていました。ハリコフ、ポルタワ両県の農民蜂起の事例をはじめ民衆運動に対しては厳しい弾圧政策を執り、04年7月に革命派によって暗殺されました。 | |||||||
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明治25年(1892年)8月に成立した第二次伊藤博文内閣の外務大臣です。 日清戦争直前に日英通商航海条約を結び条約改正に成功し、日清戦争と三国干渉の処理にあたりました。こうした自らの外交の記録を『蹇蹇録』(けんけんろく)として残しています。 | |||||||
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幕末から大正期の軍人・政治家です。 明治6年(1873年)に初代陸軍卿(陸軍大臣に相当)に就任するなど、日本陸軍の創設に大きな貢献をはたしました。 日露戦争中は、参謀総長に就任しています。 | |||||||
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明治・大正・昭和期の海軍軍人・政治家です。 日本海軍の育成に貢献し、大正2年(1913年)に第一次山本内閣を組織しますが、翌年シーメンス事件で退陣しました。 第二次山本内閣の際には、関東大震災の復旧にあたりました。 | |||||||
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アメリカの第26代大統領です。 マッキンレー大統領の暗殺によって、1901年(明治34年)に副大統領から大統領に就任しました。 日露戦争に際し、日本を財政的・精神的に援助し、日露講和条約の成立に力を貸しました。 | |||||||
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帝政末期のロシア海軍の提督です。ロシア海軍が極東に第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)の増派を決定した際にその司令長官となりました。1905年5月27~28日に日本海海戦で日本海軍に惨敗し、捕虜となりました。 | |||||||
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ロシア帝国の外交官です。 1897年(明治31年)から1904年(明治37年)に駐日公使を勤めた後、1905年(明治38年)には駐アメリカ大使として日露講和会議に参加しました。 | |||||||
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