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中国山東省北部渤海に面した港湾都市で、古くは威海衛(いかいえい)と呼ばれていました。日清戦争の時に日本軍がここを攻撃し3年間占領しました。 その後、旅順や大連を租借したロシアに対抗し、イギリスが1898年に租借しましたが、1930年に中国に返還されました。 | ||||||
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現在のロシア連邦南東端沿海州にある港湾都市です。 天然の良港に恵まれ、1860年に開港して以来ロシアの極東経営の中心地として繁栄しました。 日露戦争期にはロシア海軍のウラジオストック艦隊の基地であり、軍事的にも重要な位置にありました。 | ||||||
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現在の大韓民国慶尚南道の日本海に面した都市です。 日露戦争では、この沖合いで日本艦隊とロシア艦隊が戦いました(蔚山沖海戦)。 | ||||||
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現在の中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の国境をなす大河です。 ここで日露戦争の陸上における初戦が行われました(鴨緑江会戦)。 | ||||||
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日本の北海道の北に位置する、南北に伸びる大きな島です。「樺太」は日本の呼び方で、ロシアでは「サハリン」と言います。 日露戦争の末期には、日本軍はこの島の南部からの上陸作戦を実行し、これに成功して占領・統治を行いました。 また、戦後には北緯50度以南が日本に割譲されました。 | ||||||
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現在の大韓民国の首都です。 「ソウル」とは韓国語で「みやこ」を意味する言葉で、朝鮮王朝時代には「漢城」などと表記されていました。 日本による韓国併合後、「京城」(けいじょう)の表記が採用されました。 | ||||||
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現在の中国遼寧省にある町です。 この町を旅順に通じる哈大線(ハルビン―大連間、旧東清鉄道支線)が通過しています。 日露戦争では当該地と、その郊外にある南山で戦闘が行われました(南山の戦い)。 | ||||||
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現在の中国遼寧省、鴨緑江沿いにある町です。 日露戦争の初期、ここで戦闘が行われました(九連城の戦い)。 | ||||||
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中国山東半島南部黄海に面した湾です。 1897年、ドイツが清国より租借、近代都市青島市を建設し東洋艦隊の根拠地ともしました。 その後、第1次世界大戦に参戦した日本軍の占領・駐屯するところとなりましたが、1922年、中国に返還されました。 | ||||||
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現在の大韓民国京畿道にある港湾都市です。 1883年の日朝修好条規(江華条約)により開港地に指定され、外国人居留地がおかれて発展しました。 日露戦争ではその沖合いで日本艦隊とロシア艦隊が戦いました(仁川沖海戦)。 | ||||||
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本来は清国の北洋艦隊の駐屯地を意味しますが、一般的には、とくに現在の中国遼寧省大連市旅順にある水師営を指します。 日露戦争中、日本軍の第3次旅順総攻撃による旅順陥落の後、日本軍第三軍司令官の乃木大将とロシア軍旅順要塞司令官のステッセリ中将とがここで停戦条約締結のための会見を行いました。 | ||||||
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現在の大韓民国全羅北道の道庁所在地です。 1894年の甲午農民戦争の際、農民軍によって占領されました。 | ||||||
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現在の中国遼寧省、哈大線(ハルビン―大連間、旧東清鉄道支線)沿いの町です。 日露戦争では、この町とその附近で戦闘が行われました(大石橋の戦い)。 | ||||||
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現在の中国遼寧省、遼東半島南端の港湾都市です。哈大線(ハルビン―大連間、旧東清鉄道支線)の終点で、1898年にロシアが不凍港を求めて租借、商港建設を始めました。 日露戦争では、旅順と大連をめぐって熾烈な戦いが繰り広げられました。戦後には日本が統治し、南満州鉄道株式会社(満鉄)の本社が置かれました。 | ||||||
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中国山東省南部黄海に面した膠州湾の東岸にある都市です。 もとは漁村でしたが、ドイツによる租借、省都済南とを結ぶ鉄道の建設などにより貿易港・軍港として発展しました。 | ||||||
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日本の長崎県にある島で、対馬海峡の名前の由来になっています。 日露戦争では、この島の沖合いで日本艦隊とロシア艦隊が戦いました(日本海海戦)。 | ||||||
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現在の中国遼寧省、哈大線(ハルビン―大連間、旧東清鉄道支線)沿いの町です。 日露戦争では、この町とその附近で戦闘が行われました(得利寺の戦い)。 | ||||||
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現在の中国黒龍江省の省都です。 もとは漁村でしたが、ロシアが1898年に東清鉄道建設の拠点とし、 満洲里からハルビン経由ウラジオストックまで(東清鉄道本線)と、 ハルビンから大連・旅順までの鉄道(東清鉄道支線)を敷設して脚光を浴び、 ロシア風の街が建設されました。 | ||||||
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現在は瀋陽市と呼ばれ、中国遼寧省の省都として中国東北地区最大の中心都市となっています。 清朝時代には国都であり、盛京(ムクデン)と称されていましたが、北京遷都後に奉天に改称されました。 この附近で、日露戦争最大の陸戦が行われました(奉天会戦)。 | ||||||
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アメリカ合衆国の東海岸ニューハンプシャー州にある港町です。 1905年、アメリカ大統領ルーズヴェルトの手引きによって、日本とロシアそれぞれの代表団が当地近郊のメイン州ポーツマス海軍工廠に集い、日露戦争の講和会議を行いました。 | ||||||
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現在の中国遼寧省南部にある半島です。遼河河口と鴨緑江河口を結ぶ線から南を指し、東は黄海、西は遼東湾に望みます。日清戦争後、日本に割譲されましたが、三国干渉による中国への返還後まもなくロシアが租借しました。 日露戦争後、日本はロシアの権益を引き継ぎ、租借地一帯を「関東州」と名付けました。 | ||||||
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現在の中国遼寧省中部、哈大線(ハルビン―大連間、旧東清鉄道支線)沿いの都市で、 附近の首山は日露戦争の激戦地です(遼陽会戦)。 | ||||||
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現在の中国遼寧省、遼東半島最南端、大連市街の西にある深水の湾で、この湾内に旅順港があります。19世紀末には清国の艦隊の基地でしたが、日清戦争後に一時日本陸軍が占領し、三国干渉後にはロシアが租借して大規模な要塞と軍港を築きました。狭まった湾口(旅順口)を要塞によって堅固に守られた旅順は日露戦争最大の激戦地となりました(旅順要塞攻略戦)。なお、旅順港は欧米では「ポート・アーサー Port Arthur」とも呼ばれます。 | ||||||
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