明治37年(1904年) 2月4日 |
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御前会議で、ロシアとの交渉を打ち切り軍事行動に移ることが決議されました。 |
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2月6日 |
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栗野慎一郎駐露公使がロシアに国交断絶を通告しました。 |
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2月10日 |
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日露両国が宣戦布告を行いました。しかし、これ以前に戦闘行為は始まっていました。 |
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明治38年(1905年) 1月22日 |
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ロシアの首都ペテルブルクにおいて、ツァーリに「プラウダ(正義)」の実現を直接誓願するために冬宮へ向かった市民に対してツァーリ政府の軍隊が発砲しました。 |
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4月21日 |
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日本で講和条約大綱が決定されました。 |
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6月1日 |
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アメリカ合衆国大統領ルーズヴェルトが日露間の講和の斡旋に乗り出しました。 |
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6月9日 |
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アメリカ合衆国大統領ルーズヴェルトが日露両国に対し講和の勧告を行いました。 |
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8月10日 |
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アメリカ合衆国大統領ルーズヴェルトの仲介により、日露間の講和交渉がアメリカのポーツマス海軍工廠で開始されました。 |
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9月1日 |
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ポーツマス講和会議の中で、日露両国が休戦議定書に合意しました。 |
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9月5日 |
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ポーツマス講和会議の結果、日本全権小村寿太郎とロシア全権ヴィッテの間で日露戦争の講和条約が締結されました。 |
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9月5日 |
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東京で、日露戦争の講和条約に反対する市民数万人が日比谷公園前に集まり、警官隊と衝突しました。これを契機として市内各地に騒擾が広がりました。 |
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10月15日 |
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日露講和条約が批准(国家として確認すること)されました。 |
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10月16日 |
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日露講和条約が公布(内容を国民に広く知らせること)されました。 |
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