日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治38年(1905年)9月1日 休戦議定書調印

期間
明治38年(1905年)9月1日
場所 ポーツマス市(アメリカ合衆国ニューハンプシャー州)近郊、ポーツマス海軍工廠(ポーツマス市の対岸、メイン州キタリーのシーヴェイ島(ピスカタカ川の中州))
概要 アメリカ合衆国ニューハンプシャー州のポーツマスで行われた講和会議のなかで、日露両国が合意した休戦議定書です。この議定書で決められた方針に基づき、各戦闘地域において具体的な休戦条件が決められました。
 
 
 
 

解説

休戦議定書調印
日露両国による休戦議定書の調印

 ポーツマスの日露講和会議では、講和条約の交渉と並行して、戦闘行為をいつどのように停止するかについても話し合われました。その結果、明治38年(1905年)9月1日に日露間で合意されたのが「休戦議定書」です(関連資料2、124~125画像目)。

 講和交渉が始まった当初、日本は休戦協議に対して消極的でした。外務省から交渉担当の高平小五郎公使に6月
▲日露講和会議の様子
(外務省外交史料館所蔵)
18日付で発信された電報では、日本からは休戦を提議しないことや、ロシアから提議がなされるまでは軍事行動を計画どおり継続する考えであることなどが記されています(関連資料1、2画像目)。

 その後、日露両国の委員や米大統領との間でさまざまなやり取りがなされますが、議定書の締結につながる話し合いが始まったのは、会議の最終盤にあたる8月29日でした。まずロシア首席全権委員のヴィッテが休戦を提案し、日露双方が協定案を持ち寄って話し合った結果、9月1日に合意にいたりました(関連資料1、24~32画像目。関連資料2、116画像目以降)。

 ただし、この合意によって戦闘がただちに停止されたわけではありません。休戦の具体的な条件については、議定書の第5条と第6条により、両国の軍司令官が講和条約調印後に決定することになっていました。

 9月5日に日露講和条約が調印されると、各司令官に対して休戦が命令されるとともに(関連資料3)、9月7日に東京で休戦条約が発表されました(関連資料1、44~45画像目)。そしてこれ以後、満州、韓国、海上の三方面で軍司令官による休戦条件の交渉が開始されました。

 満州方面の休戦協定は、福島安正陸軍少将、オラノフスキー陸軍少将を委員として、9月13日に中国遼寧省昌図郊外の沙河子で調印され、9月16日正午までに休戦を実施することになりました(関連資料4)。

 韓国方面では、9月16日に双方の委員が会見したものの協定締結には至らず、その後事実上の休戦状態になりました(関連資料7、2画像目。関連資料1、63~65画像目)。

 海軍では、第二艦隊司令官島村速雄と露国艦隊司令官エッセンが委員となり、9月18日までに朝鮮半島北東部の羅津浦港外で交渉が行われ、「海上休戦地域劃定に関する協約書」が合意されました。(関連資料1、61~62画像目。関連資料5

 
 
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関連資料

休戦議定書調印
B06150088000 関連資料1 休戦に際して外務省と各機関がやりとりした文書
B06150094000 関連資料2 休戦議定書を定めた非公式会談の記録
C03020400200 関連資料3 休戦電命の件
C06040977100 関連資料4 満州軍の休戦議定書の内容を伝える大本営着電
C09050590400 関連資料5 海上休戦地域協定交渉顛末報告
C05110104000 関連資料6 『極秘 明治三十七、八年海戦史』所収の休戦関係文書
C09050707500 関連資料7 海軍によりまとめられた、休戦前後の陸軍諜報情報
B07090966800 関連資料8 日露戦争休戦訂約地点記念碑建設用土地に関する件

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : B06150088000
件名 : 分割3

■資料解説

 

 外務省記録>2門 条約>2類 講和条約、協定>1項 帝国諸外国間 に収録される資料「日露講和条約締結一件 第三巻/条約締結」中の、「休戦約定」に関わる部分です。1~69画像目が、それにあたります。

 17画像目にある高平小五郎全権公使から桂太郎外務大臣に発信された電信文(7月4日付)からは、賠償支払いや樺太の割譲など日本側の要求条件を実現すべく、休戦合意の時期を見はからっていることがわかります。

 24~25画像目は、8月29日付で交渉中の小村寿太郎から桂太郎外務大臣へ発信された電報文です。ヴィッテから休戦に関する提案があったことを伝え、休戦条件の原案を示して外務省に訓示を求める内容です。これに対する外務省の回答は、28画像目にあります。

 32~33画像目は、合意された休戦議定書の内容を伝える電報文です。冒頭部右上に「極秘」、「上奏手続済 首相海相陸相四元老配布済」との印が押されています。

 34画像目より後は、軍司令官による休戦条件交渉に関する文書です。たとえば、49~55画像目に満州方面における休戦にかかわる文書が、63~69画像目には、韓国方面における休戦協議が遅延している事情にかかわる文書があります。

 なお、これらの文書の大部分は、『日本外交文書 第37巻第38巻別冊日露戦争V』の第5章第1節「休戦関係」に活字化されて収録されています。

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関連資料2
レファレンスコード : B06150094000
件名 : 日露講和談判筆記 附両国全権委員非正式会見要録

■資料解説

 

 116画像目以降に「両国全権委員非正式会見要録」があり、明治38年(1905年)8月29日から行われた日露両国の非公式会談の様子がまとめられています。

 

 休戦議定書の交渉経過は117~125画像目にあります。118~119画像目に日本側の原案が、120~121画像目にはロシア側の対案があります。121~122画像目からは、双方の原案に3つの相違点があると日本側が認識し、それぞれの点をどう解釈していったかがわかります。合意された議定書の本文は123~124画像目に載せられています。署名者は小村寿太郎高平小五郎ヴィッテローゼンの4人です。

 

 126画像目以降には、日露講和条約第2条で取り決められた、満州からの撤兵をめぐって行われた会議の過程が書かれています。

 

 なお、これらの文書の大部分は、『日本外交文書 第37巻第38巻別冊日露戦争V』の第6章第3節「講和関係」に活字化されて収録されています。

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関連資料3
レファレンスコード : C03020400200
件名 : 休戦電命の件

■資料解説

 

 参謀総長山県有朋から陸軍大臣寺内正毅に発信された文書です。各方面の陸軍司令官に向けて明治38年(1905年)9月6日に休戦の命令を出したことを伝えています。

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関連資料4
レファレンスコード : C06040977100
件名 : 9月14日着電 満州軍司令官満州方面日露両軍に休戦の命令

■資料解説

 

 満州方面の日露両軍の間で明治38年(1905年)9月13日に休戦条件議定書が調印され、満州軍総司令官が休戦命令を出したことを通知した文書です。

 

 休戦条件議定書は5か条からなります。第1条では満州全体における戦闘の中止が規定され、第2条と第3条では、日露両軍の間に「離隔地帯」を設けて立ち入りを禁じることが定められています。休戦実施の期日は9月16日正午とされています。

 

 なお、満洲戦蹟保存会が大正9年(1920年)に発行した『明治三十七八年戦蹟紀念写真帖』の44頁に、休戦条約協定中の写真が載せられています。『明治三十七八年戦蹟紀念写真帖』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができます。

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関連資料5
レファレンスコード : C09050590400
件名 : 休戦に関する書類(5)

■資料解説

 

 海上休戦地域協定交渉を担当した第二艦隊司令官島村速雄が、協定成立後にその交渉経過をまとめた報告書です。

 

 交渉の場では、まず日本側の提出案(3~5画像目)、ロシア側の提出案(5~8画像目)の両方が朗読された後、8か条からなるロシア側の提出案について1か条ごとに交渉を行ったと書かれています(8~23画像目)。双方が合意した協約書の内容は、26~27画像目にあります。32~37画像目には、取り決められた海上休戦地域界線が図示されています。

 

 なお、「休戦に関する書類」(C09050589800)には、ほかにも、交渉地点の決定や、委員の任命にかかわってやり取りされた文書などが含まれています。(C09050589900、C09050590000、C09050590100、C09050590200、C09050590300)

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関連資料6
レファレンスコード : C05110104000
件名 : 備考文書

■資料解説

 

 『極秘 明治三十七、八年海戦史』第3部巻1の末尾に収録された備考文書です。

 

 114~119画像目に、海軍の休戦地域劃定を担当した第二艦隊司令官島村速雄とエッセン(資料上では「イエスセン」と書かれています)海軍少将に対する上官からの委任状、島村がエッセンに与えた樺太への通行許可証、島村から提出された海上休戦地域協定交渉顛末報告が収録されています。

 

 なお、『極秘 明治三十七、八年海戦史』第3部巻1には、「第1編 日本海海戦後の作戦/第4章 平和克服」(C05110103500)に休戦交渉の経過が記され、「付表及付図」(C05110104100)の75画像目に「海上休戦条約区域劃定図」が収録されています。

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関連資料7
レファレンスコード : C09050707500
件名 : 大海情陸号(15)

■資料解説

 

 1~6画像目にある明治38年(1905年)9月23日付の「大海情 陸第四十八号」には、休戦議定書発効直後における日露両軍の動向や、休戦条件締結や撤兵に向けた動きなどがまとめられています。続く8~15画像目には、極東におけるロシア軍の配置を分析し地図に描いた「極東露軍之配置略図」が収録されています。

 

 「大海情 陸○○号」とは、大本営海軍幕僚が、大本営陸軍幕僚の調査をもとに偵察・諜報により知り得たロシア軍の状況などをまとめた資料です。アジ歴のデータベースには、「大海情 陸号 明治37年4月起」(C09050705900)という資料があり、そこには明治37年(1904年)4月6日付の「大海情 陸第一号」から明治38年(1905年)12月5日付の「大海情 陸第五十三号」までが収録されています。

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関連資料8
レファレンスコード : B07090966800
件名 : 1.日露戦争休戦訂約地点記念碑建設用土地ニ関スル件

■資料解説

 

 日露戦争終了後には「満洲戦蹟保存会」が組織され、満州方面の主要な戦跡に記念碑を建設する事業を行いました。この文書は、日露両軍が休戦協定を結んだ場所に記念碑を建てるための用地について、吉林省長郭宗熈から寄贈の申し出があったことを報告するものです。

 

 なお、満洲戦蹟保存会が大正9年(1920年)に発行した『明治三十七八年戦蹟紀念写真帖』の44頁にこの記念碑の写真が掲載されています。47頁以降には、記念碑建立事業の経過の概要と、戦蹟記念碑の所在地一覧があります。『明治三十七八年戦蹟紀念写真帖』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができます。

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参考文献   大山梓「日露戦争と休戦協定」『政治経済史学』、第236号、1985年
鹿島守之助『日本外交史 第7巻 日露戦争』、鹿島研究所出版会、1970年
ポーツマス会議開始に戻ります 日露戦争終結に進みます
 
 
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