1905年6月9日、日本からの依頼に応じたルーズヴェルトは、日露間で講和を行うことを両国に勧告しました。両国はこの勧告を受け入れて、同年8月9日からアメリカのポーツマスにて講和の交渉を開始します。
日本側は小村寿太郎、高平小五郎、ロシア側はヴィッテ、ローゼンを全権代表として交渉は進められました。
日本側は、4月21日の閣僚会議で、以下のことを絶対的必要条件として定めていました。すなわち、
①韓国を日本の自由処分に委すこと
②日露両軍の満州撤兵
③遼東半島租借権とハルビン-旅順間の鉄道の譲渡
です。このうち、①については、桂=タフト覚書(7月27日)、日英同盟(8月12日)の締結の席で、すでにアメリカとイギリスに根回ししていました(関連資料1)。戦費負担が重くのしかかる日本としては、これ以上の戦争継続は不可能であり、より早い段階で有利に和平交渉に持ち込みたいと考えていました。そのため、ロシアを和平交渉の席につかせようとの政治的判断から、当初軍内部でも反対意見が多かった樺太攻略を断行します(関連資料2)。
ポーツマスで行われた第1回会談(8月10日)で、小村寿太郎が提示した12の条件のうち、ヴィッテは
①樺太割譲
②賠償金の支払い
③ロシア艦艇の引渡し
④ロシアの極東における海軍力の制限
については拒否をしました(関連資料3)。交渉の末ヴィッテは樺太を日露間で分割統治する案を出し(関連資料4)、8月28日に日本政府はこの提案を受け入れました。
正式にこの講和条約に両国が調印したのは9月5日です。なお、この講和談判では、樺太における漁業権に関しては明確な規定が行われてはおりませんでした。そのため、樺太における漁業権は問題となりました(関連資料5)。この日露談判を受けて、満州の利権譲渡に関する問題について交渉に入ります。ここで、ロシア側から譲渡された権利が確定されることになりました(関連資料6)。 |
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▲日露講和会議後の記念撮影
(外務省外交史料館所蔵) |
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