明治38年(1905年)年8月末、日露講和会議の内容が報道されると、都市部を中心に、日露戦争講和反対運動が起こりました。東京では、講和問題同志連合会(対外強硬派の政治団体の連絡機関)が、9月5日に日比谷公園での国民大会と京橋新富座での演説会・懇親会を計画します。
警視庁は、この国民大会の禁止を決定し、9月5日当日には日比谷公園を封鎖します。しかし、正午頃には数万人が群集し、警官隊を突破して、公園内になだれ込みました。大会は強行され、30分程度で散会。その後、市内各地に騒擾が広がります。内相官邸や二重橋、京橋新富座の付近では、群衆と警官隊が衝突。御用新聞とみなされた国民新聞社も群衆に包囲されました。さらに夜には、市内各所の警察署、派出所・交番が焼打ちされています。騒擾は7日まで断続し、キリスト教会や路面電車も焼打ちされました(関連資料1、関連資料2、関連資料3)。政府は、軍隊を出動させ、6日深夜には東京市と周辺の府下5郡に戒厳令の一部を施行しました(関連資料4、関連資料5)。
この騒擾での死者は17人、負傷者2000人、検束者が2000人に及びました。兇徒聚衆罪(現在の騒乱罪)で311人が起訴され、うち87人が有罪となっています。その大部分は、職工・人足・車夫などの都市下層でした。
日比谷焼打事件をきっかけとして、講和反対運動が急速な広がりをみせました。全国各地で、県民・市民・郡民・町民大会といった集会が開催され、その数は165件以上とされています(関連資料7)。この運動は、10月4日に日露講和条約が枢密院で可決されるまで、約一ヶ月間継続されました(関連資料8)。この間、9月7日に神戸で、12日には横浜でも騒擾が起こっています(関連資料9)。
なお、戦前の警察・司法当局やその関係者は、取り締まりの観点から日比谷焼打事件の研究をしています(関連資料10)。
日比谷焼打事件の原因については、日露戦時下の増税等による生活苦や戦争で多大な犠牲が生じたこと、戦勝報道で煽られた過大な講和条件への期待が裏切られたことなどが指摘されています。また、戦時中、各戦勝を祝う提灯行列や旗行列、祝捷会といった機会を通じて、人びとが日比谷公園に度々集合していたことも、事件の複線として注目されています。
日比谷焼打事件は、社会・文化運動の活性化や政党政治の実現などに特徴づけられる、大正デモクラシーの起点として評価されています。この場合、排外主義や膨張主義をはらみながらも、藩閥政府にたいする抵抗運動でもあった点が重視されてきました。また、この事件から1918(大正7)年の米騒動に至る時期は、電車賃上げ運動(1906年)や大正政変(1913年)など、都市騒擾が頻発したことから、「都市民衆騒擾期」と呼ばれています。当時の日本では、財産選挙制などによって政治参加が著しく限定されていました。このような状況のもとで、人びとは都市騒擾というかたちで政治的な意志を表明していたといえます。
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▲東京市における凱旋式
(防衛省防衛研究所所蔵) |
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