■資料解説
日露戦争に参加した日本軍艦「春日」の「戦時日誌」です。開戦直前、イタリアはアルゼンチンから注文されて2隻の軍艦を建造中でしたが、戦争に際して日本海軍の戦力を増強するため、明治36年(1903年)暮れに日本はこの2隻を購入しました(のちの日本軍艦「春日」と「日進」)。ここで紹介した資料は、日本から派遣された鈴木貫太郎中佐たちが、明治37年(1904年)1月5日に現地視察をした折の状況を伝えています(原文カナ旧字、引用時に句読点を適宜追加、3~4画像目)。
「聞く所に依れば、両艦の艤装工事は少くとも二ヶ月を要すべき者なれとも、時局の許す可らざるものあるを以て、僅々十日間に之を結了するの約を「アンサルド」会社に申込み同社も奮て之を応じたるものの由にして、当時両艦共約四百人の職工艦内に充満し昼夜を分たず工作に従事せんのみならず、傍石炭搭載をなしつつあらんが、尚ほ一月五日に於てなすべきの工事頗る多り」。
(現代語訳:聞く所によれば、日本が買った2隻の軍艦は艤装工事(上部構造物などを整備する工事)に少なくとも二ヶ月を要するという事だったけれども、時間的余裕がないので、ほんの十日間で工事を完了してほしいという約束を軍艦建造に携わる「アンサルド」社に申し込み、同社も積極的にそれに応じてくれたわけで、当時2隻の軍艦には共々約400人の作業員が艦内に充満して昼夜兼業で工事に従事したのみならず、同時に石炭の積み込みもしていたが、それでもまだ1月5日の時点では作業すべき事柄が非常に多かった)
「例へば中甲板の諸部「リノリユーム」も唯僅少の部分を除くの外未だ貼布せられず、羅針儀は一も取付けられず、上甲板の一面に「コータルー」を以て覆はれ諸電線は未だ連接せられざるを目撃せり」。
(現代語訳:例えば、中甲板の床に貼るはずのリノリウムも極少数を除いてまだ貼られておらず、羅針盤は一つも取り付けられていなかったし、上甲板は一面コールタールで覆われ、諸々の電線がまだ接続されていない様子もこの目で見た)
【春日のイタリアより呉軍港までの航海日程】
・1月5日:日本側による工事の視察
・1月6日:日本側人員の乗り込み開始
・1月9日:イタリアを出港、航行中にエンジン故障
・1月14日:スエズに到着、ロシア軍艦と遭遇する
・1月20日:アデンに到着
・2月2日:シンガポールに到着
・2月3日:石炭積み込み中に作業員のストライキを被る
(2月4日:日本政府はロシアとの戦争を決定)
・2月6日:シンガポールを出港
・2月8日:モンスーンに遭遇する
(2月9日:仁川沖海戦)
(2月10日:日本とロシアが互いに宣戦布告)
・2月16日:横須賀に入港
・2月17日:艦内の外国人作業員が退艦し、日本海軍の艦長以下の乗員が乗り込む
・2月19日:横須賀を出港
・2月22日:呉軍港に入港
・2月23日:修理工事の開始
(2月24日:第一次旅順口閉塞作戦)
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