日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)2月10日 日露戦争勃発

期間
明治37年(1904年)2月10日
概要 明治37年(1904年)2月10日に行われた両国の宣戦布告以前に、日本とロシアの実際の戦闘行為は始まっていました。
 
 
 
 

解説

日露戦争勃発
戦争の体裁と実際

 日露戦争とは、ヨーロッパ列強の一つと見なされていたロシア帝国と、東アジアにおいて勢力を拡大する日本帝国とが、朝鮮半島・満州(現中国東北地区)における権益をめぐって争った戦いでした(関連資料1)。この戦争では、両国の宣戦布告は明治37年(1904年)2月10日に行われますが、実際にはそれ以前から戦闘は開始されています(関連資料2関連資料3)。当時の国際法のもとでは、宣戦布告なき戦争がありえたのでした(関連資料4関連資料5)。

 また日露戦争では、戦争の当事者としての交戦国は日本・ロシアの二国のみですが、現実には清国(戦場となった中国東北部を領有していました)、大韓帝国(国土の北部が戦場となりました)、さらに日本の同盟者であるイギリス、ロシアの同盟者であるフランスの他、中立を表明していたアメリカやドイツ、はてはイタリア、アルゼンチン等も様々なかたちで関与していました(関連資料6関連資料7)。日露戦争は、当時における「国際秩序」の一つの姿でもあったのです。

  日露戦争が行われた19世紀後半~20世紀初めの「帝国主義」時代、その時代精神とは例えば、軍事思想家であるクラウゼヴィッツ曰く、「戦争は単に一つの政治的行動であるのみならず、実にまた一つの政治的手段でもあり、政治的交渉の継続であり、他の手段による政治的交渉の継続にほかならない」(清水多吉訳『戦争論』「第一部第一章」、2001年、63頁)に代表されます。この考えが今日の世界に当てはまるかどうかはさておき、昔の戦争を理解しようとするなら、まずは戦争が起きた当時の状況を思い描き、当時生きていた人々の考えを踏まえつつ物事を読み解くことが必要でしょう。
【写真中央】
桂太郎総理大臣
【上段左から】
陸軍大臣 寺内正毅、 海軍大臣 山本権兵衛、
農商務大臣 清浦奎吾、 司法大臣 波多野敬直
【下段左から】
逓信大臣 大浦兼武、 大蔵大臣 曾禰荒助、
外務大臣 小村寿太郎、 文部大臣 久保田譲
▲第1次桂内閣閣僚の肖像写真
(防衛省防衛研究所提供)
  【上段左から】
軍令部長 元帥子爵 伊東祐亨
参謀総長 元帥侯爵 山縣有朋
【下段左から】
軍令次長 海軍中将 伊集院五郎
海軍次官 海軍中将 齋藤實 
陸軍次官 陸軍少将 石本新六
参謀次長 陸軍少将 長岡外史
▲日露戦争当時の将軍たちの肖像写真
(防衛省防衛研究所提供)
 
 
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関連資料

日露戦争勃発
関連資料1 明治23年(1890年)~明治24年(1891年)にかけての衆議院の議事録の写し
関連資料2 朝鮮に送り出す「先遣徴発隊」に関する説明
関連資料3 日本が宣戦布告をした際の宣戦の詔書(天皇が記す公式文書)の全文
関連資料4 宣戦布告の前は戦時なのかどうか教えて欲しい、という問い合わせと回答
関連資料5 「開戦に関する条約」全文の日本語訳
関連資料6 日本軍艦「春日」の戦時日誌
関連資料7 戦争中の公債募集の内幕を伝える公文書

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : A07050000300
件名 : 第1回帝国議会・衆議院議事録・明治23.11.29~明治24.3.7

■資料解説

 この資料は明治23年(1890年)~明治24年(1891年)にかけての衆議院の議事録の写しです。この中に含まれている「衆議院第一回通常会議事速記録」(明治23年12月7日付)に、山県有朋総理大臣が「主権線」「利益線」という用語を使って当時の日本帝国における国防の考え方を説明した場面が収録されています(32画像目、原文カナ旧字)。

 「蓋国家独立自営の道に二途あり、第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主権線とは国の疆域を謂ひ、利益線とは其の主権線の安危に、密着の関係ある区域を申したのである」
(現代語訳:そもそも国家の独立自立の道には二通りあり、第一には「主権線」を守ること、第二には「利益線」を保護することである。この「主権線」とは国の境目を言い、「利益線」とはこの主権線の安全に密接な関係がある地域を申し上げたのである)

 

 「凡国として主権線、及利益線を保たぬ国は御座いませぬ、方今列国の間に介立して一国の独立をなさんんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累ねて、漸次に国力を養ひ其の成蹟を観ることを力めなければならぬことと存じます」
(現代語訳:おおよそ国というもので主権線、利益線を保全しないものはありません。古今東西の各国に囲まれた一つの国が独立しようとするなら、当然ながら一朝一夕の話のみでなし得ることではありません。どうしても小さな努力を積み重ね、徐々に国力を養ってその成果を観察するように注意しなければならないと考えます)

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関連資料2
レファレンスコード : C06040131900
件名 : 第1編 開戦以前の業務

■資料解説

 この資料は、明治36年(1903年)10月下旬に日本陸軍の参謀本部が、ロシアとの戦争に先立って朝鮮に送り出す「先遣徴発隊」の編成を決定した経緯を伝える公文書です。
 ところで「先遣徴発隊」とは何でしょうか? もともと日本陸軍の目論見は、朝鮮半島を自らの基地とするため部隊を釜山に上陸させ、次いで大韓帝国の首都である漢城(現ソウル)を占拠することにありました。そこで戦争を始める前に、まずは秘密部隊である「先遣徴発隊」を送る、というわけです。従って、この派遣を極秘に行う必要上からか「先遣徴発隊の人員は変装せしむ」と規定されています(原文カナ、1画像目)。
 なおここで紹介した資料には、この先遣徴発隊の派遣が参謀総長の管轄下(軍令)にあたるのか、それとも陸軍大臣の管轄下(軍政)にあたるのか、当時の軍内部では不明瞭のまま「大臣総長連署を以て」明治天皇に裁可してもらった事情が説明されています(原文カナ、2画像目)。

 孫子の兵法に「兵者詭道也」(戦争とは相手のうらをかくやり方だ、『孫子』「計篇第一」)という文言がありますが、20世紀の戦争でもこうした考え方があった事の一端が、資料からも窺えます。

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関連資料3
レファレンスコード : A03020585900
件名 : 御署名原本・明治三十七年・詔勅二月十日・露国に対し宣戦

■資料解説

 明治37年(1904年)2月10日、日本が宣戦布告をした際の宣戦の詔書(天皇が記す公式文書)の全文です。原文を見ると、日露戦争当時、天皇は「大日本国皇帝」とも呼ばれていたことがわかります(1画像目)。また、この詔書では「帝国が平和の交渉により求めんとしたる将来の保障は今日之を旗鼓の間に求むるの外なし」と示されています(原文カナ、5画像目)。この「旗鼓」とは今でいう「軍隊」「戦争」の意味です。

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関連資料4
レファレンスコード : C06040188800
件名 : 法令の解釈

■資料解説

 日露戦争当時の陸軍省の文書です。ここでは「明治三十七年二月二十四日第七師団法官部長」からの、宣戦布告の前は戦時なのかどうか教えて欲しい、という問い合わせに対する回答として、日露戦争における「戦時」は「此日閣議を以て我国自由行動を執るへき旨を宣言したる日より戦時と見做すことに決定せらる」(原文カナ、1画像目)と明記されています。この「自由行動」が閣議で決定されたのは、2月4日のことです。

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関連資料5
レファレンスコード : A03033082700
件名 : 開戦ニ関スル条約御批准ノ件

■資料解説

 明治40年(1907年)のハーグ会議で採択された「開戦に関する条約」全文の日本語訳です。ここでは宣戦布告について、国際法に則った規定が示されています。条約に調印した各国の代表者の氏名に並んで、日本の代表として署名した都筑馨六(つづき・けいろく)特命全権大使と佐藤愛麿(さとう・あいまろ)駐オランダ公使の名前が載っているのがわかります(4画像目)。

 いわゆる「宣戦布告」とは、ある国が他国と「戦争状態にある」のを意志表示することです。または「宣戦」「開戦宣言」「戦争宣言」という場合もあります。「宣戦布告」をもって戦争の始まりとする形式論的には、宣戦布告が行なわれた後で国家間が武力を使って争うことを慣例では「戦争」といい、宣戦布告がないまま武力が使われる国家間の争いは時に「事件」「事変」「紛争」とも呼ばれます。ある国が他国に対して宣戦布告を行なった時点で、した方とされた方の両国は「交戦国」と呼ばれ、国際法上の「交戦状態」あるいは「戦争状態」に入ったと見なされます。その際に戦争に参加せず、さらにどの交戦国に対しても援助を与えない国のことを「中立国」といいます。

 「第一条 締約国は理由を付したる開戦宣言の形式又は条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且事前の通告なくして其の相互間に戦争を開始すへからさることを承認す」

 「第二条 戦争状態は遅滞なく中立国に通告すへく通告受領の後に非されは該国に対し其の効果を生せさるものとす該通告は電報を以て之を為すことを得但し中立国か実際戦争状態を知りたること確実なるときは該中立国は通告の欠缺を主張することを得す」

と「開戦に関する条約」には記載されています(6画像目、原文カナ旧字)。第二次世界大戦中の1941年に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する34年前の事です。

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関連資料6
レファレンスコード : C09050376100
件名 : 軍艦春日戦時日誌(1)

■資料解説

 日露戦争に参加した日本軍艦「春日」の「戦時日誌」です。開戦直前、イタリアはアルゼンチンから注文されて2隻の軍艦を建造中でしたが、戦争に際して日本海軍の戦力を増強するため、明治36年(1903年)暮れに日本はこの2隻を購入しました(のちの日本軍艦「春日」と「日進」)。ここで紹介した資料は、日本から派遣された鈴木貫太郎中佐たちが、明治37年(1904年)1月5日に現地視察をした折の状況を伝えています(原文カナ旧字、引用時に句読点を適宜追加、3~4画像目)。

 「聞く所に依れば、両艦の艤装工事は少くとも二ヶ月を要すべき者なれとも、時局の許す可らざるものあるを以て、僅々十日間に之を結了するの約を「アンサルド」会社に申込み同社も奮て之を応じたるものの由にして、当時両艦共約四百人の職工艦内に充満し昼夜を分たず工作に従事せんのみならず、傍石炭搭載をなしつつあらんが、尚ほ一月五日に於てなすべきの工事頗る多り」。
(現代語訳:聞く所によれば、日本が買った2隻の軍艦は艤装工事(上部構造物などを整備する工事)に少なくとも二ヶ月を要するという事だったけれども、時間的余裕がないので、ほんの十日間で工事を完了してほしいという約束を軍艦建造に携わる「アンサルド」社に申し込み、同社も積極的にそれに応じてくれたわけで、当時2隻の軍艦には共々約400人の作業員が艦内に充満して昼夜兼業で工事に従事したのみならず、同時に石炭の積み込みもしていたが、それでもまだ1月5日の時点では作業すべき事柄が非常に多かった)

 「例へば中甲板の諸部「リノリユーム」も唯僅少の部分を除くの外未だ貼布せられず、羅針儀は一も取付けられず、上甲板の一面に「コータルー」を以て覆はれ諸電線は未だ連接せられざるを目撃せり」。
(現代語訳:例えば、中甲板の床に貼るはずのリノリウムも極少数を除いてまだ貼られておらず、羅針盤は一つも取り付けられていなかったし、上甲板は一面コールタールで覆われ、諸々の電線がまだ接続されていない様子もこの目で見た)

【春日のイタリアより呉軍港までの航海日程】

 ・1月5日:日本側による工事の視察
 ・1月6日:日本側人員の乗り込み開始
 ・1月9日:イタリアを出港、航行中にエンジン故障
 ・1月14日:スエズに到着、ロシア軍艦と遭遇する
 ・1月20日:アデンに到着
 ・2月2日:シンガポールに到着
 ・2月3日:石炭積み込み中に作業員のストライキを被る
 (2月4日:日本政府はロシアとの戦争を決定)
 ・2月6日:シンガポールを出港
 ・2月8日:モンスーンに遭遇する
 (2月9日:仁川沖海戦)
 (2月10日:日本とロシアが互いに宣戦布告
 ・2月16日:横須賀に入港
 ・2月17日:艦内の外国人作業員が退艦し、日本海軍の艦長以下の乗員が乗り込む
 ・2月19日:横須賀を出港
 ・2月22日:呉軍港に入港
 ・2月23日:修理工事の開始
 (2月24日:第一次旅順口閉塞作戦

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関連資料7
レファレンスコード : A03023073500
件名 : 英国倫敦及北米合衆国紐育ノ両市場ニ於テ公債募集事務完結ヲ告ケ顛末報告ノ件

■資料解説

 日露戦争で日本側が費やした戦費の多くが、実は公債募集によって集められた資金を投じたものでした。ちなみに「公債募集」とは簡単にいえば国や政府関係機関が行う借金、つまり後で利子をつけて返済するのを条件にしてお金を集める事を言います。
 ここで取り上げた資料は、この公債募集の内幕を伝える公文書です。
 さてロシアとの戦争の費用は当初の見通しをはるかに上回り、これを調達するには増税だけでは到底追いつかなくなりました。そこで閣議では外国市場において公債を募集することが決定されます(32~33画像目)。高橋是清(日本銀行副総裁)は、「日本帝国特派財務委員」として政府の命を受け、明治37年(1904年)2月~明治38年(1905年)12月まで、前後5回にわたって外債募集のため欧米およびヨーロッパを歴訪します。在ロンドンの高橋電報からは、公債をなかなか引き受けてもらえずに苦心する様子がうかがえます(16~17画像目)。

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参考文献   Lionel Giles(trans.), Sun Tzu's The Art of War: Bilingual Edition with Chinese and English Text , Tuttle Publishing, 2008.
平塚柾緒『新装版 図説 日露戦争』河出書房新社、2004年
軍事史学会編集『日露戦争(一)―国際的文脈―』錦正社、2004年
クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論』(上)、中央公論新社、2001年
金谷治訳注『新訂 孫子』岩波書店、2000年
田畑茂次郎『国際法新講』 (上) (下)、東信堂、1990年
崔文衡著、朴菖煕訳『日露戦争の世界史』藤原書店、2004年
開戦決定,国交断絶に戻ります 血の日曜日事件に進みます
 
 
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