日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)2月24日  第1次旅順口閉塞作戦

明治37年(1904年)5月3日  第3次旅順口閉塞作戦

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期間
明治37年(1904年)2月24日、5月3日
場所 遼東半島最西部、旅順港(口)
概要 旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍連合艦隊は、港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決定しました。
 
 
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戦闘チャート

第1次旅順口閉塞作戦
明治37年(1904年)
2月18日 東郷司令長官が旅順口閉塞作戦を発令。閉塞隊員の募集が始まる。(関連資料1
2月20日 第1次旅順口閉塞隊が出撃(輸送船5隻)。(関連資料3
2月24日
04:15
閉塞隊が旅順湾口に突入を開始。(関連資料2
2月24日 閉塞隊は旅順口に達する前に沈没し、作戦は失敗に終わる。(関連資料6
 
【 参考文献 】 「極秘 明治37.8年海戦史」
 
 
 
 

戦闘チャート

第3次旅順口閉塞作戦
明治37年(1904年)
3月29日 東郷司令長官は、大本営に第3次閉塞作戦を要望。(関連資料4
5月1日 第3次閉塞隊が出撃(輸送船12隻)。
5月3日 第3次閉塞隊が旅順湾口に突入するが、失敗に終わる。(関連資料5)(関連資料6
 
【 参考文献 】 「極秘 明治37.8年海戦史」
 
 
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解説

第1次旅順口閉塞作戦
第3次旅順口閉塞作戦
第1次旅順口閉塞作戦の度重なる失敗

 2月24日、日本海軍はロシアが占領する旅順港の入り口(旅順口)に船を沈め、港の中にいるロシア軍艦が出てくるのを阻止しようとする作戦を行いました。この戦いを「第1次旅順港口閉塞作戦」といいます。しかしロシア軍の反撃により、日本側の船は旅順口に達する前に次々と沈められ、作戦は失敗に終わりました。

▲第1回旅順口閉塞作戦
(財団法人三笠保存会所蔵)
▲旅順口を閉塞するために港外に沈められた艦船
(防衛省防衛研究所所蔵)

 日本海軍はこの失敗にもかかわらず、さらなる閉塞作戦を準備して3月27日に再度、閉塞のための船団を派遣します。この作戦は計3回にわたり試みられることになりました。

 
 
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関連資料

第1次旅順口閉塞作戦
第3次旅順口閉塞作戦
C09050717900 関連資料1 作戦計書及戦備に関する事項(部外秘)(2)
B07090605100 関連資料2 1.第一回閉塞
C05110137200 関連資料3 第3編 特設船舶の艤装/第13章 運送船の艤装
C05110059200 関連資料4 第23号 旅順口近海に於る彼我沈没艦艇位置図
C06040995100 関連資料5 5月7日 東郷連合艦隊司令長官に賜りたる勅語
A03023682400 関連資料6 タイムスの日露戦争批評(十四)日本海軍の牽制運動、陸兵衝着の地点摩天嶺の険
A03023685000 関連資料7 タイムスの日露戦争批評(四十)沈勇なる閉塞行動、露軍敗退の結果

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C09050717900
件名 : 作戦計書及戦備に関する事項(部外秘)(2)

■資料解説

 

 閉塞作戦の計画立案過程についての回想です(38~45画像目)。開戦前から閉塞作戦計画が俎上に上っていたこと、米西戦争における閉塞作戦(自沈船「メリマック」)の影響があったことを指摘しています。また、有馬良橘が常磐副長時代の明治36年10月上旬の建白が原案になったという意見と、伊集院五郎軍令部次長が東郷平八郎に進言したとする意見が述べられています。

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関連資料2
レファレンスコード : B07090605100
件名 : 1.第一回閉塞

■資料解説

 

 東郷平八郎連合艦隊司令長官及び仁川丸斉藤海軍大尉からの戦況報告です(12~15画像目)。

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関連資料3
レファレンスコード : C05110137200
件名 : 第3編 特設船舶の艤装/第13章 運送船の艤装

■資料解説

 

 第一回閉塞作戦にあたった、仁川丸、天津丸(2~3画像目)、報国丸、武州丸、武陽丸(26画像目)の見取り図です。

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関連資料4
レファレンスコード : C05110059200
件名 : 第23号 旅順口近海に於る彼我沈没艦艇位置図

■資料解説

 

 閉塞作戦を除く、旅順口の周辺における彼我(ロシアと日本)の沈没艦艇名及びその位置を図におこしたものです(2~3画像目)。

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関連資料5
レファレンスコード : C06040995100
件名 : 5月7日 東郷連合艦隊司令長官に賜りたる勅語

■資料解説

 

 一連の閉塞作戦失敗の後、明治天皇より日本海軍の東郷平八郎連合艦隊司令長官に送られた「勅語」の写しです。

 

 「朕倍す其事に與かりし将校下士卒の忠烈を嘉す」との天皇の激励に対し、東郷は「愈々奮励全局の大捷を収むるに勗め以て聖旨に副ひ奉らんことを期す」と答えています。

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関連資料6
レファレンスコード : A03023682400
件名 : タイムスの日露戦争批評(十四)日本海軍の牽制運動、陸兵衝着の地点摩天嶺の険

■資料解説

 

 タイムズ(タイムス)の軍事投書家による記事を紹介したものです。第一回の閉塞作戦の失敗を伝えています。上陸作戦に備え、閉塞作戦が「充分に成功せざりしとするも敵の注意を牽制して之を何処までも防御の位置に束縛し置くに於て優に海軍の任務を達し得たり」との判断から決行されていたことがうかがえます。

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関連資料7
レファレンスコード : A03023685000
件名 : タイムスの日露戦争批評(四十)沈勇なる閉塞行動、露軍敗退の結果

■資料解説

 

 タイムズ(タイムス)の軍事投書家による記事を紹介したものです。第三回の閉塞作戦における日本海軍の勇猛さを伝えています。

 

 こうした欧米、とりわけアメリカにおける日本の好意的態度には、当時ダートマス大学講師で東洋政治を担当していた朝河貫一の影響も大きかったと思われます。朝河はこの時期に“THE RUSSO‐JAPANESE CONFLICT”(『日露紛争』)を執筆しました。読者は知識人に限られているとはいえ(実際の売り上げは数千部)、米紙『ニューヨークタイムズ』の社説や『ネイション』をはじめ一紙六誌の書評で取り上げられ大きな反響を呼びました。

 

 上記著作の中で、朝河は次のように分析しています。「アメリカの若々しい国家がコモドア・ペリー(提督)とタウンゼント・ハリス(公使)を通して日本に影響を広げて以来、日本はこの文明の輪に加わり、工業と教育による国家の進歩の精神をアメリカから熱心に採用し」貿易を促進してきた。それにも関わらず、「東アジアの市場が閉ざされるなら、日本の増加する人口は、その食料と職業の多くが奪われ、日本の国民生活は麻痺するであろう」。日本の命運は満洲と韓国の市場の「門戸開放」にかかっており、その点で日本の利害は工業国の「過剰生産のため東洋に公開市場を求める欧米諸国」と一致する。一方で、未だ封建制の段階にあり工業生産の遅れた「ロシアの利益は高度に排他的な政策によってのみ維持、発展」するものであり、ロシアは領土拡張にのみ狂奔する旧い文明にすぎない。

 

 朝河はこのように日露戦争を新旧文明論の対決として位置づけ、日本支持の世論形成のためアメリカでの講演活動に奔走していました。

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参考文献   平塚柾緒『新装版 図説 日露戦争』、河出書房新社、2004年
塩崎智「アメリカのメディアに見る『日露衝突』評」『朝河貫一研究会ニュース』37号
矢吹晋『朝河貫一とその時代』、花伝社、2007年
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