■資料解説
この資料は『極秘 明治三十七八年海戦史』に収録されており、明治33年(1900年)、日露戦争を想定した「坐上戦術」(今日の専門用語でいうウォーゲーム又は図上演習)がロシアの「ニコライ」海軍大学校で行われた時の記録です。今でこそ遊戯としても知られるウォーゲームは、かつて「坐上戦術」「図上演習」と呼ばれ軍隊で行われていました。資料冒頭に、翻訳元のロシア語文書は明治38年(1905年)1月に旅順要塞が降伏した際、日本海軍の黒井悌次郎大佐によって押収されて大本営に転送された、と記されています(2画像目)。
資料は、1900年の冬に「「ニコライ」海軍大学校の海軍戦術科教程を履む学生に対し坐上戦術の問題として同年の春に於る現況に就き「露日戦争」を課することとなり」、ロシアが日本と戦うという設定の演習が実施された事に言及しています(原文カナ、3画像目)。この時の参加者リストを見ると、現実の日露戦争で本当に日本軍と戦う人々(後に日本側通称「バルチック艦隊」を率いるロジェストヴェンスキー提督など)が演習に加わっていた事がわかります(5~6画像目)。
◆ 演習全体の流れ(すべて1900年として設定されています、6~14、23~90画像目を参照)
・2月中:朝鮮における利権をめぐってロシア・日本が対立する
・3月1日:ロシア・日本の両国は戦争準備を行う(ヨーロッパ側にいるロシア海軍がアジアに向かう)
・3月3日:旅順のロシア海軍は出港してウラジオストックとモルッカ諸島に向かう
・3月11日:日本軍の歩兵一個旅団・砲兵一個旅団が朝鮮の釜山に上陸する
・3月12日:ロシア公使は東京を退去し、日本はロシアに宣戦布告(ゲーム上の日露戦争の開始)
・3月15日:日本軍の一個旅団が朝鮮の平壌に上陸する
・3月26日:日本海軍は大連湾を砲撃してロシア軍艦を沈める
・4月2~4日:紅海においてロシア・日本の海軍が交戦する
・4月10日:日本陸軍は大連湾に上陸する
・4月13日:日本陸軍は旅順に対して総攻撃を行う(失敗)
・4月18日:日本陸軍は旅順に対して再度総攻撃を行う(失敗)
・4月19日:日本海軍は対馬沖でロシア海軍を夜襲する
・5月1日:ロシア海軍(アジア側とヨーロッパ側が合流した連合艦隊)は大連湾に停泊する
・5月2~3日:日本海軍は大連湾のロシア海軍を夜襲して「戦艦セワストーポリ」を沈める
・5月4日:日本海軍の主力は大連湾に到着する。日本陸軍の一部は奉天に向かって前進している
(この時点でゲーム中止が宣言される)
◆ ロシア軍人の日本軍評(原文カナ、11画像目)
この資料中には、演習の「審判官」(今日でいうアンパイア又は審判)が下した講評の一つとして次のような記載があります。
「学生中陸軍代表者か立案するか如き日本陸軍の兵数に関しては過大に推算するをなしなから其の戦闘の能力を視るに極て低き程度を以てするの不謹慎なる見界は審判官の賛成する能はさる所なり」
(現代語訳:大学校の学生から選ばれた陸軍代表者が立案したような、日本陸軍の兵力数に関しては過大に推測計算しながらも、その戦闘能力をきわめて低く見積もった不謹慎な見解は、審判官としては賛成できないものである)
「己れの敵を侮るへからす日本人の如き特異の性情を有する者を敵としては特に然りとす須く自己勢力を適当に発展することに努め又対敵の発展にも注意して監視すること必要なり」
(現代語訳:自らの敵を侮ってはならない。日本人のような特殊な性質を有する者を敵とする場合には特にそうだ。速やかに自軍の戦力を状況に応じて発展させるよう努力し、また相手の戦力の発展も監視することが必要である)
◆ ロシア軍人が想定した日本軍の作戦方針(原文カナ旧字、25~26画像目)
なお演習中では、日本軍の戦争目的を「一に韓国を占領して之を自己の掌中に置き露国をして韓国の領域に一指を染めしめす韓国に於ては全然日本の主権を認めしめんとするに在り」と設定した上で、その軍事作戦を以下のように想定しています。
「日本軍の最急務とする所は成る可く早く韓国に其の陸兵を揚け爰に堅固なる防御陣地を築き計熟するを待て浦塩斯徳を陥いるか或は旅順口と関東平野一帯の地を回復し以て清国国民に対し其の威風を示し之を其の一味に引入れて対露同盟を締結し露清国境の有らゆる諸点より侵入して大打撃を加ふるに在り是一に日本陸軍の任務に属す」
(現代語訳:日本軍が最も急務とすることは、なるべく早く韓国に陸上部隊を上陸させ、そこに堅固な防御陣地を築くことだ。それからふさわしい時期にウラジオストックを攻略するか、あるいは旅順の港から満州の平野一帯を占領して清の国民に対し日本軍の権威を示し、彼らを日本の味方に引き入れるのがいい。そうして清との間にロシアを敵とする同盟を締結し、ロシアと清とが国境を接するそのあらゆる地点より侵入してロシアに大打撃を与えることだ。これ全てが日本陸軍の任務である)
「日本海軍の第一任務は戦役の初期に於て韓国に陸兵の揚陸を掩護すると本国との交通を維持するに在り之か為めには其の当初に於る優勢を利用し露国艦隊か自国港湾に隠るるに於ては之を封鎖し出つるに於ては殲滅するにあり」
(現代語訳:日本海軍の第一の任務は、戦争が始まってすぐに韓国に陸上部隊が上陸するのを援護すると同時に、陸上部隊と日本本国との交通線を維持することである。そのためには当初の戦力の優勢を利用し、ロシア艦隊が自らの港湾に隠れる場合は港を封鎖し、出てくる場合には殲滅しなければならない)
◆ ロシア軍人が考えた対日海軍戦略(原文カナ旧字、12~13画像目)
演習終了後、ロシア側はいくつかの対日海軍戦略を立案しています。
(1)全海軍力を日本海に集結してウラジオストック以南の沿岸に対する日本軍の上陸を阻止する
(2)全海軍力を旅順に集めて「黄海」(現東シナ海)の沿岸での日本軍の上陸を阻止する
(3)全海軍力を朝鮮南部か「朝鮮海峡」(対馬海峡)に集めて日本軍の輸送を妨害する
しかし資料ではどれも一長一短あるとした上でこうコメントされています。
「露西亜側に於ては如何の決心を執るも其の望まるへき真の結果は欧州より到達する増援艦隊の合同したる後に於て初て収めらるへきものと覚悟せさるへからさるなり」
(現代語訳:ロシア側は、どんな決断をするにせよ、その希望する真の結果である勝利はヨーロッパより到着する増援の艦隊がアジアにいる艦隊と合流した後にはじめて得られる、と覚悟しなければならない)
このコメントが為されてから4年後の1904年、演習に参加したロシア軍人は本物の日本軍を目の当たりにする事になります。
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