日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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日露戦争史

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日露戦争はやわかり

 
 

陸海の諸戦闘

2.中盤

 明治37年(1904年)8月中旬、旅順港一帯に対する日本陸軍の総攻撃、「第1回旅順総攻撃」が開始されます。日本の攻撃部隊が約5万人であったのに対して、ロシアの旅順守備部隊は約4万人でした。日本軍は1万人以上の死傷者を出し、激しい砲撃によって多数の砲弾を消費しましたが、旅順要塞を陥落させることはできませんでした。 同じ頃、遼東半島中部の遼陽における「遼陽会戦」でも、約13万人の日本軍と約22万人のロシア軍が衝突します。
▲王家甸南西くぼ地にある
28センチ榴弾砲の試射
(防衛省防衛研究所所蔵)
旅順攻撃に戦力の一部を割いた日本軍は、数に勝るロシア軍に対して苦戦を余儀なくされ、2万人もの死傷者を出します。一方のロシア軍も同じく約2万人の被害を受け、北の奉天へと撤退しました。 日本軍は、ロシア軍の拠点であった遼陽を占領することはできたものの、ロシア軍の主力部隊は逃すかたちとなりました。こうして、翌年の1月に至るまで、日本陸軍は遼東方面と旅順方面の2か所に兵力を分散して戦う「二正面作戦」の態勢を強いられることとなり、人的・物的に消耗を重ねながらロシア軍と一進一退の攻防を続けていきました。

 その頃ロシア帝国内では、自国の軍隊の相次ぐ敗北を告げるニュースによって、国民が動揺し始めていました。7月には、国民に対する弾圧の姿勢をとっていたプレーヴェ内務大臣が革命グループによって爆殺されるなど、憲法の制定や言論、信仰、集会の自由などを訴える動きが強まってきます。このような状況下で、ツァーリ政府はヴィッテを再び登用して、日本との間の講和交渉に臨むことを決めました。

 一方の日本国内では、連戦連勝の報道によって国民の戦争熱が高まる一方で、戦場の苦しい実情は、情報統制がしかれたこともあり一般市民にはなかなか伝わりませんでした。しかし、旅順攻略などの激しい戦闘で多くの犠牲が出ると、勝利と戦死者の増大という矛盾に対して、国民の世論は軍部にさらなる勝利を求めて過熱を見せるようになります。また、政府は、通常の歳入だけでは戦費をまかないきれないために借金によってこれを補うしかなく、特にアメリカやイギリスの市場に向けた国債の発行額は大きく膨らみました。こうした状況のため、国民の声に応えて戦争に勝つために兵を募り兵器を生産すればするほど、国家の借金が増えてゆくことになります。つまり、日本はロシアに対して決定的な打撃を与えることのできないままに、加熱する世論と増大する借金を背負いながら戦争を続けなければなりませんでした。

 このように、明治37年(1904年)の秋頃からの日本とロシアはそれぞれ、戦争を終えるべき理由と、戦争を続けるべき理由という、相反する2つの論理を抱えるに至っていました。

 10月、奉天付近の約22万人のロシア軍が攻撃に転じて南下し、遼陽付近を守る約12万人の日本軍と沙河で衝突して「沙河会戦」が起こりますが、退けられます。一方の旅順では日本軍が「第2回旅順総攻撃」を開始します。前回の強襲攻撃とは異なり、旅順要塞の拠点を少しずつ攻略する方針をとった日本軍は、約4千人の死傷者を出しながらも要塞の包囲網を狭めました。 11月になると、日本軍は「第3回旅順総攻撃」を行い、またもや多くの兵士の命を犠牲にしながら、旅順要塞を攻略するために必要な地点を押さえることに成功しました。年が明けて明治38年(1905年)1月2日、ついに旅順要塞は開城し、半年に及んだ旅順攻防戦は日本軍の勝利に終わりました。

 明治38年(1905年)1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、戦争の中止や民主化を求めた市民のデモに軍隊が発砲するという「「血の日曜日」事件」が起き、これをきっかけとして労働者による抗議のストライキがロシア全土に広がりました。このように国内が大きく動揺している状況下で、ロシア軍は1月末に奉天西方の黒溝台で日本軍に対する攻撃を行いますが、ここではそれぞれ約1万人の死者を出しながら戦闘がこう着状態に入ります。こうした事態に対して、日本軍では、旅順攻撃を終えた部隊を北上させ、奉天付近のロシア軍を全力で撃滅しようという計画が進められていました。

 2月末、日本陸軍の大部隊が奉天付近のロシア軍に対する攻撃を開始し、「奉天会戦」が始まります。この戦闘は、日本軍約24万人、ロシア軍約36万人が参加する大きなものでした。日本軍は「遼陽会戦」の時と同じように、ロシア軍に対して数で劣りながらも攻めに徹し、ロシア軍の陣地を突破するために多くの犠牲を払うことになります。最終的に、日本軍は約7万人の死傷者を出しながら奉天の占領に成功したものの攻撃力を保つことができなくなり、ロシア軍も死傷者約9万人という損害を受けながらも壊滅することなく北に向かって退却しました。この戦闘は、日本には兵力と戦費の両面で大きな消耗を、ロシアには、敗退の報が伝わったことによる国内のさらなる動揺と治安の悪化をもたらしました。 戦闘が終了した4月には、前年の10月にバルト海を出撃した第二太平洋艦隊がフランス領インドシナ(ベトナム)に到達して、おくれて出撃した第三太平洋艦隊と合流しており(これをあわせて「バルチック艦隊」とも呼ばれます)、その一方で、日本政府は4月21日の閣議によりロシアとの講和の条件を決定し、終戦のための交渉を開始しようとしていました。

 
 
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