■資料解説
この資料は「陸軍省軍務局砲兵科業務詳報」の一部で、日露戦争における砲弾の生産状況について報告しています。資料中には「三十七年度動員計画に規定せられたる諸部隊所用の数量を準備」する経緯とその分量(小銃用の弾薬、大砲用の砲弾など)が紹介され、さらに同年1月には砲弾増産のため、東京と大阪の「両砲兵工廠へも勉めて器械の購入増備を計らしめたり」という当時の事情が記録されています。
ところで、この資料の続きにあたる諸々の文書をさらに読んでいくと、砲弾の補給に関する日本軍の苦しい内情が垣間見えてきます。
まず、当初足りると思われた砲弾は、「三十七年五月第二軍南山の戦闘に於ける砲兵弾薬の消費は三万五千余発に上り」そのせいで開戦時の備蓄が食いつぶされるおそれが出てきます。しかも6月になると、砲弾を製造するはずだった工場は、旅順要塞を攻撃するための「所要兵器」(大型の大砲用の弾薬と各種車両)を「新造若は改造」するせいで「其作業力の大半を奪はれたり」という状況になり、「野戦砲弾」生産の業務までは手が廻らない事態となります(原文カナ旧字、「南山戦闘に於ける砲兵弾薬消費数外」「31年式速射砲弾薬製造を呉海軍工廠に依頼外」「野戦重砲兵隊及徒歩砲兵隊旅順に向う外」等を参照)。
しかしそれでも、相次ぐ戦いで弾薬を消耗しつづける日本軍は、「八月二十一日旅順要塞第一回の総攻撃失敗の結果第三軍は其の携行弾薬の約四分の三を消費し而して未だ明かならざる」という苦境に陥り、とうとうドイツのクルップ社(克虜伯)・イギリスのアームストロング社といった外国の兵器会社に対し砲弾を注文して弾薬不足を補う事になったのでした(「榴弾弾体榴散弾弾体克虜伯会社へ注文外」「大阪砲兵工廠にて試験弾底信管成績不良外」「弾薬類現在表」「旅順要塞第1次総攻撃第3軍携行弾薬の約4分の3を消費」等を参照)。
軍隊の補給という問題を研究したマーチン・ファン・クレフェルト曰く、「軍事史の書物の上では、ひとたび司令官が決心すれば、軍隊はいかなる方向に対しても、どんな速さでも、またどんな遠くへでも移動できるように思われている。実際はそうはできないし、恐らく多くの戦争は敵の行動によってよりも、そうした事実の認識を欠いたがために失敗することのほうが多かったのである」(佐藤佐三郎訳『補給戦』、2006年、11頁)。砲弾の消耗にあえぐ日本陸軍、彼らがこの事実を書物の上ではなく実際の戦争を通じて認識するよう強いられていた事が、資料の文脈に仄めかされています。
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