日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)6月15日 得利寺の戦い

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期間
明治37年(1904年)6月14日~15日
場所 遼東半島中部得利寺
概要 日本第二軍は、明治37年(1904年)6月14・15日に、遼東半島を南下してきたロシア軍と得利寺付近で激突し、ロシア軍を撃破して後退させました。
 
 
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戦闘チャート

得利寺の戦い
明治37年(1904年)
6月6日 ロシア軍が旅順救援のため、軍の一部に南下を命じる。(関連資料2
6月9日 大本営が第2軍に対し、北進を要請。
6月13日
03:00
第2軍が得利寺方面を目指し、北上を開始。
6月14日 第2軍が得利寺付近に布陣するロシア軍と交戦。(関連資料4
6月15日
09:00頃
第4師団がロシア軍右翼に回り込む。(関連資料1
6月15日
正午
騎兵第1旅団がロシア軍左翼に回り込む。(関連資料1
6月15日 混乱したロシア軍が北方に退却する。(関連資料3
 
【 参考文献 】「明治三十七、八年日露戦史」
 
 
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解説

得利寺の戦い
ロシア側の不統一と決戦への前哨

 日本軍が「金州・南山」を占領したことにより、ロシア軍の旅順要塞は孤立することになりました。その状況を受け、ロシア極東総督アレクセーエフは満州における陸軍の司令官クロパトキンと今後の方針をめぐって激論を交わしました。 アレクセーエフ旅順救援の軍を送ることを主張し、クロパトキンは全軍を遼陽付近に集中して日本軍を迎え撃つことを主張しました。 結局、ロシア宮廷の意を受けたアレクセーエフの圧力により、クロパトキン旅順方面に向け軍の一部を南下させることに決定しました。

 他方、日本軍の方でも若干の混乱が発生していました。ロシア軍南下の報を受けて、日本本土の大本営で方針についての議論が行われ、現地の第二軍に対して、ロシア軍が集結を完了する前に攻撃するように要請がなされました。ところが、第二軍の側では、ロシア軍の状況が不明なため、慎重な姿勢を崩そうとしませんでした。6月13日になって、第二軍はようやく前進を開始し、翌14日に得利寺付近の陣地にいるロシア軍と衝突しました。

 日本軍(約3万3千)とロシア軍(約4万)はほぼ同数で、ロシア側は陣地を利用して日本軍を攻撃したため、決着は容易にはつきませんでした。翌15日になって、日本第
▲海城附近における狼穽(連続した落とし穴)と日本兵 (防衛省防衛研究所所蔵)
▲アジア歴史資料センター、ref.C09050769500、件名:第2軍戦報(2) (防衛省防衛研究所所蔵)
二軍の一部(第四師団)がロシア軍右翼、別の一部(騎兵第一旅団)がロシア軍左翼に回り込み、包囲される危険性を感じたロシア軍は北方に退却していきました(関連資料1)。
▲熊岳城附近で捕虜となったロシア兵
(防衛省防衛研究所所蔵)

 得利寺の戦いにおける日本軍の戦死者は217名、負傷者は946名で、死傷者合計は1,163名でした。他方、ロシア軍の戦傷者は計2,700名前後に及び、その他行方不明者700名余りのうち約400名が捕虜となりました。得利寺においてロシア軍を撃破した日本第二軍は遼東半島を北上し、朝鮮半島から北上した第一軍、新たに編成された第四軍と共に遼陽に向けて進撃し、1904年8月、遼陽において日露両軍が激突することになります。

 
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関連資料

得利寺の戦い
C09050769500 関連資料1 第二軍司令官奥保鞏大将の名義による「第二軍戦闘報告書」をまとめたもの
A03023687300 関連資料2 イギリスの6月16日付タイムズ紙が報道した記事の翻訳
C06040653900 関連資料3 皇后による第二軍の活躍を褒賞する令旨
B07090615600 関連資料4 得利寺の戦いにおいて、ロシア軍が日本の国旗を不当に使用したことに関する報告
C06040455300 関連資料5 得利寺の戦い直後、付近の街である復州において軍政を敷いた日本軍が清国官吏を処分した報告

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C09050769500
件名 : 第2軍戦報(2)

■資料解説

 

 第二軍司令官奥保鞏大将の名義による「第二軍戦闘報告書」をまとめたものです。明治37年(1904年)5月15日の「金州城を攻略せしむ」所(1画像目)に始まって、6月14~16日の「得利寺付近における戦闘」(16~48画像目)、7月6~9日の蓋平占領の経緯(49~53画像目)などの戦況が収録されています。

 得利寺の戦いについては、 「(6月15日)午前九時頃軍の左翼にありし一隊は東龍口方面より正午頃騎兵隊は賈家屯方面より共に此戦闘に参与して敵を得利寺附近に包囲して激烈なる戦闘の後之を北方に撃退し」と、その様子が報告されています(17~18画像目)。

 21~22画像目には附近の地図の画像があり、40画像目には日本軍の死傷者数の詳細が見られます。

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関連資料2
レファレンスコード : A03023687300
件名 : タイムスの日露戦争批評(六十三)浦塩斯徳艦隊の盲動、得利寺の戦

■資料解説

 

 得利寺の戦いについて、イギリスの6月16日付タイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 タイムズ(タイムス)紙はまず全体の状況について説明した後に、

 「露軍の此運動は其理由を測知すること頗る難し」
 「露国縦隊にして若し薄弱ならんか即ち目的なくして大危険を冒すものならざるべからず」
 「其南下したる理由につきては自ずから尚ほ説明なかるべからざるなり」

と述べており、当時においてもロシア軍の南下を疑問視する声があったことが窺えます(2画像目)。

 上述したように、この度のロシア軍の南下は政治的な問題から発生したものでしたが、本記事が指摘しているように、中途半端な兵力を一部に割いたことはロシア軍の戦略的な失敗であったと言えるでしょう。

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関連資料3
レファレンスコード : C06040653900
件名 : 総長 陸軍大臣 第2軍司令官へ令旨写送付

■資料解説

 皇后による、第二軍の活躍を褒賞する文章です。戦勝の知らせを聞いて、将校・兵士の働きを感賞したことが述べられています(3画像目)。

 また、同じく天皇の勅語も収められており、第二軍が南山の戦いに続いて得利寺の戦いでも勝利を収めたことに対して、

 「朕深く爾等の忠勇能く敵軍の勢力を挫折するを嘉す」

と、その奮闘ぶりを称えています(7画像目)。

 なお、この令旨が得利寺の戦い直後の6月18日付で出されていることが注目されます。戦意高揚のため、宮中も一体となった戦時体制にあったことの一環が窺えます。

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関連資料4
レファレンスコード : B07090615600
件名 : 5.得利寺付近戦闘ノ際露国軍我国旗濫用ノ件

■資料解説

 得利寺の戦いにおいて、ロシア軍が日本の国旗をみだりに使用したことに対する報告文です。その具体的な状況については、

 「我が将校斥候は露国兵の我国旗を樹て行進するを目撃し又我砲兵は之を認めて射撃を中止せり」

と述べられています(2画像目)。

 この事件に対しては、ハーグ陸戦条約第23条(「特別の条約により規定された禁止行為以外に、特に下記のものを禁ずる。〈中略〉 6.軍使旗、国旗、その他軍用の標章、敵の制服または、ジュネーヴ条約の特殊徽章を擅〈ほしいまま〉に使用すること」)違反であるとして、ロシア政府に抗議するよう外務省に要請がなされています(4~10画像目)。

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関連資料5
レファレンスコード : C06040455300
件名 : 37.7.30 検察処分書 復州城守尉高萬梅俄国人の煤炭盗員

■資料解説

 

 得利寺の近郊の街である復州を占領した日本軍は、その地に軍政を敷き、そこで不正を働いていた清国(今の中国)の官吏である高万梅を処分しました。その報告書がこの文章です。本報告書においては、

 「煤炭採掘に従事せる露国人の戦乱を避けて逃走するに当り高万梅は(中略)俄人(ロシア人・編者注)の従事せる石炭を封禁し石炭を密売せんが為め(後略)」
 「俄人の従事する石炭は我日本軍の占領すべきものなり」
 「猥りに盗取し私慾を肥せしは我日本軍石炭占領の利益を侵害せるものなり」

 として、日本軍が入手するはずだった石炭を密売した高万梅の財産を没収し、復州から追放処分にしたことが述べられています(1~3画像目)。

 さて、当時日露戦争において戦場となった満州における主権を有していたのは清国でした。清国は日露戦争に対して局外中立を宣言していました。したがって、日露両国は中立国である清国の領土内で戦いを行っていたわけです。清国は満州における自国の主権を尊重するよう日露両国に要求していましたが、それは必ずしも充分には受け入れられませんでした。

 本件のケースでは、清国側も高万梅の不正を把握し、その処分に反対しなかったため特に問題は発生しませんでしたが(2画像目)、日露戦争時の清国における日本軍の軍政のあり方の一例を示す資料となっています。

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参考文献   軍事史学会編集『日露戦争(一)―国際的文脈―』、錦正社、2004年
谷壽夫『《明治百年史叢書》第3巻 機密日露戦史』、原書房、1966年
デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾作太男、三谷庸雄共訳『日露戦争全史』、時事通信社、1978年
南山の戦いに戻ります 第1次旅順総攻撃に進みます
 
 
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