日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)8月28日 遼陽会戦

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期間
明治37年(1904年)8月26日~9月4日
場所 中国遼寧省南部遼陽近郊
概要 日本軍主力とロシア軍主力は、遼陽附近で会戦を行い、日本軍はロシア軍を遼陽から撤退させましたが、当初目指したロシア軍の包囲殲滅には失敗しました。
 
 
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戦闘チャート

遼陽会戦
8月22日 満州軍総司令部が各部隊に、遼陽付近に布陣するロシア軍への攻撃命令を示達。(関連資料1
8月26日 第1軍がロシア軍への攻撃を開始。(関連資料2
8月30日 遼陽の南にある首山堡をめぐり、激しい攻防戦が続く。(関連資料3
8月31日 第1軍が太子河を渡河、ロシア軍の東側から背後を脅かす。 (関連資料4
9月1日
日本軍が首山堡を占領。
9月2日 第1軍が遼陽の東北方にある饅頭山を占領。
9月4日 ロシア軍が奉天を目指し、北方に退却。(関連資料6
9月7日
大山巌総司令官が遼陽に入城。(関連資料5
 
【 参考文献 】 「新装版 機密日露戦史」、
「明治三十七八年日露戦史 第2巻、第3巻」
 
 
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解説

遼陽会戦
最初の大規模会戦から戦争の長期化へ

 北上を続ける日本軍は、第一軍・第二軍・第四軍の3つの軍が3方向からそれぞれ遼陽を目指し、その地でロシア軍を包囲殲滅することを目標としていました。遼陽は交通の要衝であり、戦略的意義が極めて高く、ロシア軍もこの地で日本軍を迎え撃とうと陣地を構築して待ち受けていました。遼陽における戦いが非常に重要な意義を持つことは、当時の資料においても指摘されています(関連資料1)。日本軍の兵力は約13万、ロシア軍の兵力は約22万(そのうち、戦闘直後の日本側資料によれば歩兵は約13万、関連資料2)という大規模なものでした。

 8月26日、日本軍の右翼(一番東側)に位置する第一軍がロシア軍の陣地に対する攻撃を開始し、第二軍・第四軍も同様に遼陽の南側に位置するロシア軍陣地を攻撃しました。第一軍は遼陽の南東部の陣地を占領しましたが、第二軍・第四軍は遼陽南方の高地である首山堡を中心とした陣地に拠ったロシア軍の反撃を受け、大きな損害を被りました。この戦いの過程で戦死した橘周太少佐は後に軍神として祭られることになります(関連資料3)。

 8月31日、第一軍は遼陽の近くを流れる太子河を渡河して、北方の奉天に向かう交通路を遮断し、ロシア軍の退路を絶つ構えを見せました(関連資料4)。この動きを見たロシア軍は、それに対処すべく軍の多くに太子河を渡河させ、遼陽東北方に移動させました。第一軍は激戦の末遼陽東北方の高地である饅頭山を確保し、これによって鉄道の連絡に脅威を感じたロシア軍司令官のクロパトキンは北方への退却を決意して、9月4日を期して一斉に奉天方面に撤退していきました。これに対して、日本軍は弾薬の欠乏と将兵の損害・疲弊のために追撃を行うことができませんでした。

▲大山巌 (防衛省防衛研究所所蔵)
▲児玉源太郎 (防衛省防衛研究所所蔵)
▲アジア歴史資料センター、ref.C06041191400、件名:遼陽付近地図
(防衛省防衛研究所所蔵)

 日本側資料によれば、遼陽会戦における日本軍の死傷者は約2万2千、ロシア軍の死傷者は約2万5千であり、日本軍も多大な損害を受けたことがわかります(関連資料2関連資料5)。日本軍は戦略上の拠点である遼陽を確保しましたが、当初の目標であるロシア軍の包囲殲滅には失敗し、それによる早期講和の実現も達成することができませんでした。これ以降、日本軍とロシア軍は満州の広野でお互いに睨みあったまま、厳しい苦闘を繰り広げることになります。

 
 
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関連資料

遼陽会戦
レファレンスコード 関連資料1 8月31日付のイギリスのタイムズ紙が報道した記事の翻訳
レファレンスコード 関連資料2 大本営の陸軍幕僚が調査したロシア軍の状況の報告書
レファレンスコード 関連資料3 遼陽会戦において戦死した橘少佐を進級させることを要請した文書
レファレンスコード 関連資料4 9月2日付のイギリスのタイムズ紙が報道した記事の翻訳
レファレンスコード 関連資料5 遼陽会戦前後において死傷した第一軍の士官の名簿
レファレンスコード 関連資料6 遼陽会戦における第二軍の戦闘報告

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : A03023691200
件名 : タイムスの日露戦争批評(百二)露軍追ひ込まる、遼陽決戦の開始、軍事上秘密の必要

■資料解説

 

 遼陽会戦について、8月31日付イギリスのタイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 

 「遼陽決戦の開始」と題された記事において、

 「其勝敗如何に拘わらず日本は此一戦を以て決勝戦と為さんと欲するものなるは我等之を確信して可なりとす」

と述べられており、当時においても遼陽会戦が極めて重要な意義を持っていると認識されていたことがわかります。

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関連資料2
レファレンスコード : C09050706300
件名 : 大海情陸号(3)

■資料解説

 

 ロシア軍の状況について、大本営の陸軍部幕僚が遼陽会戦直後に調査したものを基に大本営海軍部幕僚が作成した報告書です。

 

 本報告書はまず遼陽会戦前後のロシア軍の状況について述べた後に(1~7画像目)、遼陽会戦に参加したロシア軍の詳細な部隊表、兵力などについて記しています(17画像目)。

 

 また、37画像目には、開戦から遼陽会戦までのロシア軍、日本軍双方の損害・死傷者数などの表があります。

 

 さらに、78~79画像目においては、遼陽会戦におけるロシア軍の詳細な配置図が見られます。

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関連資料3
レファレンスコード : C09122045600
件名 : 10月15日 陸軍大臣へ 歩兵少佐橘周太進級の件に付照会(大迫少将より電報) 同官より回答 第2軍参謀長へ右回答通知

■資料解説

 

 首山堡をめぐる戦いで戦死した橘少佐を進級させることを要請した文章です。

 

 その文章の中で、

 「歩兵少佐橘周太の功績は所謂抜群中の抜群なる者に付き仮令時日の遅延せるも軍司令官より詳細なる状況を具し稟申せらるる件は今日に於ても充分進級せしめ得るの余地ありや至急返待つ」

と書かれており、遼陽会戦において活躍した橘少佐をぜひとも進級させるべきであることが述べられています(5画像目)。

 

 他方、3画像目においては、戦闘終了直後はその進級の必要性が認められておらず、今日の申請に対してもそれを確約することはできない旨が述べられており、「軍神橘少佐」の姿は後になってから作られていったものであることが窺えます。

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関連資料4
レファレンスコード : A03023691400
件名 : タイムスの日露戦争批評(百四)日本第一軍の渡河

■資料解説

 

 第一軍の渡河について、9月2日付イギリスのタイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 

 その記事の中で、第一軍の渡河によりロシア軍が包囲の危機に陥っているとして、

 「茲に遂に第二のセダン(普仏戦争仏軍全滅の地)を演出せしむるに至りたりとすべき機会更に多きが如し」

と述べており、遼陽会戦をセダンの戦いに比していることがわかります。ここからも明らかなように、このタイムズ(タイムス)の記事は日本寄りの立場で書かれていますが、実際にはセダンの戦いとは異なって、日本軍はロシア軍を包囲殲滅することはできませんでした。

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関連資料5
レファレンスコード : C06041191500
件名 : 8月24日より9月5日に至る死傷者概数、名簿

■資料解説

 

 遼陽会戦前後において死傷した、第一軍の士官(尉官・佐官)の名簿です。

 

 この間だけで計115名の士官が死傷したことがわかり、日本軍の損害の大きさの一端が窺えます。日本軍はこれ以降、戦いを行う際に重要な役割を果たすべき士官の不足に悩まされていくことになります。

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関連資料6
レファレンスコード : C09050769600
件名 : 第2軍戦報(3)

■資料解説

 

 遼陽会戦についての、第二軍の戦闘報告です。

 

 34~47画像目が遼陽会戦の戦闘報告となっており、第二軍の戦闘の詳細について述べられています。第二軍が主に担当した首山堡をめぐる攻防においてだけでも約7千もの損害があったことがわかります(42画像目)。

 

 また、遼陽会戦の状況について、

 「全般に就て今回敵の防戦は実に死守的にして決して退却の意図なかりしことを推知し得可し」

と述べており(47画像目)、ロシア軍の抵抗が激烈であり、その突然の退却が日本軍にとって意外なものであったことがわかります。

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参考文献   軍事史学会編集『日露戦争(二)―戦いの諸相と遺産―』錦正社、2005年
参謀本部編『明治三十七八年日露戦史』第三巻、東京楷行社、1912年
谷壽夫『《明治百年史叢書》第3巻 機密日露戦史』原書房、1966年
デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾作太男、三谷庸雄共訳『日露戦争全史』時事通信社、1978年
山田朗『世界史の中の日露戦争』吉川弘文館、2009年
I・I・ロストーノフ編、及川朝雄訳、大江志乃夫監修『ソ連から見た日露戦争』原書房、2009年
第1次旅順総攻撃に戻ります 沙河会戦に進みます
 
 
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