北上を続ける日本軍は、第一軍・第二軍・第四軍の3つの軍が3方向からそれぞれ遼陽を目指し、その地でロシア軍を包囲殲滅することを目標としていました。遼陽は交通の要衝であり、戦略的意義が極めて高く、ロシア軍もこの地で日本軍を迎え撃とうと陣地を構築して待ち受けていました。遼陽における戦いが非常に重要な意義を持つことは、当時の資料においても指摘されています(関連資料1)。日本軍の兵力は約13万、ロシア軍の兵力は約22万(そのうち、戦闘直後の日本側資料によれば歩兵は約13万、関連資料2)という大規模なものでした。
8月26日、日本軍の右翼(一番東側)に位置する第一軍がロシア軍の陣地に対する攻撃を開始し、第二軍・第四軍も同様に遼陽の南側に位置するロシア軍陣地を攻撃しました。第一軍は遼陽の南東部の陣地を占領しましたが、第二軍・第四軍は遼陽南方の高地である首山堡を中心とした陣地に拠ったロシア軍の反撃を受け、大きな損害を被りました。この戦いの過程で戦死した橘周太少佐は後に軍神として祭られることになります(関連資料3)。
8月31日、第一軍は遼陽の近くを流れる太子河を渡河して、北方の奉天に向かう交通路を遮断し、ロシア軍の退路を絶つ構えを見せました(関連資料4)。この動きを見たロシア軍は、それに対処すべく軍の多くに太子河を渡河させ、遼陽東北方に移動させました。第一軍は激戦の末遼陽東北方の高地である饅頭山を確保し、これによって鉄道の連絡に脅威を感じたロシア軍司令官のクロパトキンは北方への退却を決意して、9月4日を期して一斉に奉天方面に撤退していきました。これに対して、日本軍は弾薬の欠乏と将兵の損害・疲弊のために追撃を行うことができませんでした。
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