明治38年(1905年)5月27日、ついに日本近海へとたどり着いたロシアのバルチック艦隊と日本艦隊の主力部隊は、対馬沖における「日本海海戦」で激突します。この戦いで、日本艦隊はロシア艦隊の大半の艦船を撃沈あるいは大破させて勝利しました。また7月7日には陸軍の部隊が海軍の援護のもとでロシア領サハリン島(樺太)南部への上陸を行い、島の全土を占領しました。
6月に入り、日本から講和の斡旋を求められていたアメリカのルーズヴェルト大統領は、日本海海戦での日本の勝利に対する評価も踏まえ、日露両国に対して講和の勧告を行いました。そして、ロシアがついに講和のテーブルにつくことになり、8月10日、日露両国代表がアメリカのポーツマスに集い、講和会議が開始されました。この時、交渉の焦点となったのは、陸海の様々な戦闘において優位を保ってきた日本に対し、ロシアがどこまで敗北を認め、賠償金の支払いや領土の譲渡に応じるかということでした。これは非常に難しい議論となりましたが、両国ともに戦争の終結を急がねばならなかったため、最終的にはアメリカの説得に応じるかたちで講和の条件が合意されました。
明治38年(1905年)9月5日、日本とロシアの代表の間で「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結されました。条約の内容は、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものでした。
このような条約内容での合意に至った交渉の経緯は、8月末には日本国内でも報道されていました。死傷者総数20万人以上という犠牲と、重税や生活の切り詰めによって約20億円(当時の国家予算は7億円)もの戦費を負担するという金銭的な犠牲を払ってきた多くの国民は、戦勝による見返りを期待していました。しかし、伝えられた交渉の内容は、これを大きく裏切るものだったのです。こうして、東京では講和に反対する市民によって「日比谷焼打事件」と呼ばれる暴動が引き起こされました。講和条約の調印は、まさにこの事件と同じ日に行われたのでした。
10月15日、日本の明治天皇と、ロシアの皇帝ニコライ2世は共に「日露講和条約」を批准し、ここに国際法上で正式に日露戦争が終結しました。 |
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