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【資料20】~【資料21】は、連合艦隊第一艦隊、あるいはそれらの旗艦を務めた戦艦「三笠」の戦闘記録です。こうした記録は、基本的に戦闘ごとに時系列的に経緯を整理し、これに被害や消耗品のデータを加えたつくりとなっていますが、この中には、上で見たような航跡図とともに、その戦闘で傷ついた艦船の略図やある程度詳細な図面が付されている場合があります。
【資料20】の4~5画像目は、第一艦隊の戦闘詳報に付されている、「明治三十七年二月九日及ビ八月十日海戦ニ於ケル軍艦三笠弾痕図(右舷側)」(ただし「二月九日及ビ」の箇所には抹消線が入れられているようにも見えます)と題された図で、明治37年(1904年)2月9日の旅順港攻撃及び8月10日の黄海海戦が終了した時点での、連合艦隊旗艦兼第一艦隊旗艦の戦艦「三笠」の破損箇所を、艦体の右側(右舷)から見た様子が描かれています。 11~12画像目は、同じく左側(左舷)から見た様子が描かれた図面です。これらの図面では、砲弾や弾丸が艦の装甲を貫いてできた「貫通痕」、砲弾が炸裂してできた「炸裂痕」、大小の砲弾の破片が当たってできた「小弾片破痕」「大弾片破痕」、砲弾や弾丸が当たりながら貫かずに跳ね返ったことによってできた「不貫通痕」、動索(帆の操作などのために動かすロープ)や静索(マストを固定しておくロープ)が千切れてしまった「破断動静索」が示されています。
▲【資料20】第1艦隊戦闘詳報(8) 4~5画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
▲【資料20】第1艦隊戦闘詳報(8) 11~12画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
【資料21】の37~40画像目は、戦艦「三笠」の戦時日誌に付された、「前砲塔十二尹(インチ)右砲身破壊ノ図」と題された図で、明治38年5月27日から28日にかけての日本海海戦の際に、ロシア軍の砲撃によって破損した戦艦「三笠」の前部12インチ砲の砲塔の様子が描かれています。80~81画像目は、「明治三十八年五月廿七.廿八日日本海々戦ニ於ケル軍艦三笠弾痕図(右舷側図)」と題された図で、日本海海戦が終了した時点での、戦艦「三笠」の破損箇所を艦体の右側(右舷)から見た様子が描かれています。 83~84画像目は、同じく左側(左舷)から見た様子を描いた図です。これらの図面でも、【資料20】の黄海海戦後のものと同じように、「貫通痕」、「炸裂痕」、「小弾片破痕」、「大弾片破痕」、「不貫通痕」、「破断動静索」が示されています。
▲【資料21】軍艦三笠戦時日誌4(3) 37~40画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
▲【資料21】軍艦三笠戦時日誌4(3) 80~81画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
▲【資料21】軍艦三笠戦時日誌4(3) 83~84画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
【資料22】は、日本海海戦に参加した日本艦隊の艦船の破損の状況を示した図面を集めたものです。3~18画像目は、「軍艦富士日本海々戦破損箇所全体之図」と題された図面で、戦艦「三笠」と同じ連合艦隊第一艦隊の第一戦隊に所属し日本海海戦に参加した戦艦「富士」の艦体の図面に、戦闘後の破損箇所が書き込まれたものです。25~28画像目は、同艦の艦橋付近の破損箇所を拡大して詳しく描いた図面です。
▲【資料22】軍艦破損図(1) 3~18画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
▲【資料22】軍艦破損図(1) 25~28画像目(防衛省防衛研究所所蔵)
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