【資料1】【資料2】は、日露戦争最初の戦闘となった、明治37年(1904年)2月8日から9日にかけての旅順港攻撃に参加した第二艦隊の一連の記録です。
【資料1】の19画像目は、2月16日付で第二艦隊司令長官上村彦之丞から連合艦隊司令長官東郷平八郎に提出された第二戦隊の戦闘詳報に付されている、艦隊の航跡図です。
旅順港の沖を通過しつつ旅順口外のロシア艦隊に攻撃を加え、そのまま向きを変えて離脱してゆく艦隊の動きが示されています。
20画像目は、この時の攻撃目標であった旅順口外のロシア艦隊の配置図で、艦船名の明らかでないものについては「高キ三煙突ヲ有スル戦艦」(高い3本の煙突のある戦艦)、「不明」などと記され、一部に戦闘の結果(「大火災」等)も付記されています。29~34画像目は、第二艦隊旗艦「出雲」の伊地知艦長から上村長官に提出された(日付不明)この艦の戦闘詳報に付されている、「連合艦隊旅順口敵艦攻撃航跡図」と題された航跡図で、第一艦隊の「三笠」(旗艦)、「朝日」、「冨士」、第二艦隊の「出雲」(旗艦)、「吾妻」「八雲」など、日本艦隊の艦船の並び順が記されていますが、ロシア艦隊の配置については「敵艦ノ位置ハ目測」とされています。
53画像目は、2月10日付で装甲巡洋艦「吾妻」の藤井艦長から上村長官に提出されたこの艦の戦闘詳報に付されている、「戦闘隊形及運動略図」と題された、戦闘の際の実際の各艦船の動きを示した図です。
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