戦艦三笠の建造が開始されたのは明治32年(1899年)、日清戦争を終えた日本がロシアとの緊張関係から軍備拡張に乗り出している最中のことでした。当時の海軍では、新たに戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を配備する計画、いわゆる「六六艦隊計画」が立てられて艦隊の強化が進められており、三笠はこの計画の最後の1隻として建造されました。
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▲「艦橋の図」(東城鉦太郎画)
(財団法人三笠保存会所蔵)
中央が東郷平八郎、右から3人目が秋山真之、 左から6人目が伊地知彦次郎(戦艦三笠艦長)
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この頃の日本では、多くの軍艦の建造を外国の造船会社・兵器会社に発注して行っていました。【資料1】は、イギリスの会社が日本から多数の艦船の建造を受注し、その際にイギリス海軍が多くの便宜をはかってくれたことについて、日本政府からイギリス政府に対して感謝の意を伝えようという内容の、明治35年(1902年)12月3日付の文章です。冒頭には、「明治二十六年以来我政府ヨリ英国私立造船会社ヘ注文シ製造シタル帝国軍艦ハ実ニ二十七隻ニ及ヒ…」と書かれています(2~3画像目)。
この27隻の軍艦の一覧もあり、この中には、「六六艦隊計画」によって建造された、戦艦敷島、戦艦朝日、戦艦初瀬、
巡洋艦高砂、そして戦艦三笠の名前も記されています(4画像目)。
【資料2】には、陸軍省軍務局兵器課に対して企業から提出された明治31年(1898年)12月付の願書があり、この中では、イギリスのシェフィールドにある造船会社のヴィッカース・ソンズ社が、ロンドンにある速射砲弾薬製造会社のマキシム・ノルデンフェルト社と合併し、新たにヴィッカース・ソンズ・アンド・マキシム社となったと述べられています(2~4画像目)。三笠の建造を担ったのが、合併によって軍艦・兵器製造の規模を拡大させたこのヴィッカース・ソンズ・アンド・マキシム社でした。同社で明治32年(1899年)1月に起工され、翌年の11月に進水(船体が完成し水上に浮かべられること)、その後、艤装(ぎそう:各種の装備を取り付けること)を施された戦艦三笠は、明治35年(1902年)3月1日、サウサンプトン(サウザンプトン)にて大日本帝国海軍に引き渡されました。
この直後の明治35年(1902年)3月6日、三笠はイギリス海軍の新造戦艦クイーン(Queen)の進水式に参列するため、プリマス(プリマウス)に向けて出港、翌日の早朝に到着します。【資料3】には、戦艦三笠初代艦長の早崎源吾が山本権兵衛海軍大臣に宛てた、進水式参列についての報告書があります(7~9画像目)。この報告で早崎艦長は、進水式にあたってイギリス側から非常に好意的な扱いを受けたのは、この直前の1月30日に結ばれた日英同盟の影響だと述べています。
こうして日本海軍での最初の「任務」を終えた三笠は、この数日後にプリマスを出港して日本を目指し、約2ヵ月後の明治35年(1902年)5月18日に横須賀港に到着しました。ここで整備を施された三笠は、再び出港し、籍を置く舞鶴鎮守府のある京都府舞鶴へと向かいます。【資料4】には、6月23日午後1時半に横須賀を出発し、神戸、呉、佐世保を経由して7月13日午前に舞鶴に到着するという、この時の航行予定表があります(23画像目)。
舞鶴港に到着した三笠は、常備艦隊に加わりました。【資料5】は常備艦隊の演習についての報告文書です。明治35年(1902年)7月18日付報告で示されている予定表にままだ三笠の名前がありませんが(19~23画像目)、7月26日付の報告ではこの表が改められ、戦艦富士(冨士)が除かれて代わりに三笠が加えられていることがわかります(37~38画像目)。これ以降、三笠は他の艦船と共に様々な訓練を積み重ねていきました。こうして、大日本帝国海軍の艦隊の一員としての三笠の「生涯」が始まりました。 |
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