三笠はやがて、戦艦初瀬に代わって常備艦隊の旗艦を務めるようになりました。【資料6】の常備艦隊の日誌では、明治36年(1903年)11月5日付の記述から、「旗艦三笠」と書かれるようになっているのがわかります(13画像目)。
明治36年(1903年)12月28日、常備艦隊は解隊され、「明治三十六年度海軍戦時編制」に準拠して、新たに第一艦隊、第二艦隊、第三艦隊が編制されました。さらに、第一艦隊と第二艦隊をあわせて連合艦隊が組織されました。 朝鮮半島や満州(現在の中国東北地方)における勢力範囲をめぐる日露交渉が行き詰まり、両国間の緊張が高まる中で、日本軍内ではロシアとの戦争に向けた準備が本格的に進められていたのでした。
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▲連合艦隊司令長官東郷平八郎大将 (財団法人三笠保存会所蔵)
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三笠もまた、この時に連合艦隊の一員となりました。【資料7】には連合艦隊の編制を示した文書が含まれており、ここでは第一艦隊に所属する艦艇の筆頭に三笠の名前が書かれています(44~53画像目)。
また、【資料8】には、連合艦隊の第一艦隊、第二艦隊の旗艦を定めた際の、連合艦隊司令長官東郷平八郎中将から山本権兵衛海軍大臣への12月28日付の報告があり、三笠が第一艦隊司令長官の旗艦となったことが示されています(1~3画像目)。東郷中将は第一艦隊司令長官と連合艦隊司令長官を兼任していたので、その乗艦と定められた三笠は、すなわち連合艦隊の旗艦となったことを意味しました。【資料9】には連合艦隊の詳しい編制表があり、各艦隊、各戦隊に所属するすべての艦船名を確認することができます(3~4画像目)。
【資料9】の日誌はまた、編制から翌年2月の日露開戦までの時期の連合艦隊の様子も伝えています。年が明けて明治37年(1904年)1月7日、三笠は艦底の塗り替えを行うために佐世保軍港にある海軍佐世保工廠の船渠(ドック)に入り、1月10日に工事を終えてここを出ています(5~7画像目)。この時、連合艦隊の艦船は船体の色を「濃鼠色(黒一白三ノ比量配合)」に統一することが指示されていたことも書かれています(6画像目)。また、戦隊ごとの砲撃訓練、石炭や物資、食糧の積載、ロシア艦隊の情報収集など、艦隊が開戦への備えを着々と進めている様子がうかがえます(5~15画像目)。
2月に入ると、日露開戦は目前と見られる情勢になり、【資料9】の日誌の内容も、開戦に備えた艦隊の配置や、最初の攻撃の計画、さらにその目標とされていた旅順港のロシア艦隊の様子についての情報が多くなります(15~18画像目)。そして、明治37年(1904年)2月5日、連合艦隊に、ついに政府がロシアへの宣戦布告を決定したという海軍大臣山本権兵衛からの通達の入った封書が届けられました。この通達の最後では、連合艦隊司令長官東郷平八郎に艦隊出撃を命じる「大海令第一号」が発令されていました。ここで連合艦隊に命じられた任務は、東洋にあるロシア艦隊の全滅を第三艦隊と共に図ることでした。また、当面の任務として、連合艦隊は黄海方面のロシア艦隊を撃破すること、第三艦隊は鎮海湾を占領し対馬海峡(朝鮮海峡)を警戒することが命じられました(19~20画像目)。こうして、三笠は連合艦隊旗艦として、艦隊を率いて日露戦争の舞台へと向かうことになります。 |
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