日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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日露戦争トピック

 
 

戦艦三笠の半生

3.日露戦争開戦~日本海海戦

 明治37年(1904年)2月6日、連合艦隊の主力部隊は長崎の佐世保軍港を出港しました。【資料10】には、この佐世保出撃の時点で三笠に備えられていた食料や被服の数量データが記されています(7~8画像目)。また、この日の戦闘開始以降に三笠艦内で供給された食糧の内容について整理された表も見られます(6画像目)。長期にわたる戦闘を進める上では、食糧は重要な問題であり、三笠において、どのような食糧をどのようなかたちで供給すれば良いかを述べた一文も、この資料の中に見られます(4画像目)。

 三笠が最初に臨んだ戦闘は、ロシア海軍旅順艦隊の拠点である旅順港に対する奇襲作戦でした。佐世保軍港を出発した連合艦隊から、途中、第一艦隊所属の第一、第二、第三駆逐隊が旅順口へ、第二艦隊所属の第四、第五駆逐隊が大連湾へ、それぞれ本隊に先立って目的地に向かいました。 旅順港では、2月8日の深夜から翌9日の明け方にかけて、先行した駆逐隊による魚雷攻撃が行われました。9日の日中
▲旅順沖海戦
(財団法人三笠保存会所蔵)

になり、三笠を含む連合艦隊の本隊が旅順口外に到着し、ロシア艦隊に対して砲撃を行いました。
⇒この戦闘の様子は「日露戦争史」で関連資料と共に紹介しています。

 2月23日未明、三笠は第1次旅順口閉塞作戦の実行部隊の援護を行います。【資料11】には、閉塞隊の編制表があり、三笠からも第1閉塞隊の隊員が出されていることがわかります(2~3画像目)。
⇒この戦闘の様子は「日露戦争史」で関連資料と共に紹介しています。

 その後、三笠は幾度にもわたって旅順港への攻撃、及びここを拠点とするロシアの旅順艦隊への攻撃を繰り返し行いました。また、【資料12】にあるように、第2次旅順口閉塞作戦(3月27日)においても閉塞隊員を送り出しています(22~23画像目)。

 三笠が次に参加した大きな戦いは、明治37年(1904年)8月10日の黄海海戦でした。【資料13】には、この日の三笠の行動を詳細に記録した日誌があります。これによれば、午前9時55分に戦闘準備を整えた三笠は、午後12時30分に旅順艦隊を発見し、その数分後から午後8時過ぎにかけて、激しい戦闘を行っているのがわかります(25~27画像目)。【資料14】には、この日の戦闘の詳細がまとめられています(1~28画像目)。また、戦闘中の両軍の艦隊の航路も図示されています(7、10、13画像目)。この戦闘の際、三笠はロシア艦隊の攻撃によって、被害を受けました。【資料15】に、後日になってまとめられた艦体の被害状況の一覧表があります(22~31画像目)。また、【資料16】は、破損箇所を示した図です(4~5、11~12画像目)。
⇒この戦闘の様子は「日露戦争史」で関連資料と共に紹介しています。

 黄海海戦の後も、三笠は旅順口の封鎖を続け、ロシア海軍旅順艦隊への警戒を続けました。その後、明治37年(1904年)12月5日に、日本陸軍第三軍が旅順の203高地の占領に成功し、ここから砲撃を加えるようになると、遂に旅順艦隊は壊滅し、12月25日、三笠率いる連合艦隊は帰還の途につきました。【資料17】には、12月23日付で海軍大臣山本権兵衛から東郷連合艦隊司令長官に宛てられた、旅順艦隊の撃破をねぎらう電文があります(55~56画像目)。また、12月25日午前8時12分に広島県の呉軍港に向けて出発したことも記されています(59画像目)。三笠の呉入港は、12月28日の午後4時前のことでした(66~68画像目)。その日のうちに修理工事が始められ、そのまま年を越すことになります(69~71画像目)。

 【資料18】の日誌では、明治38年(1905年)2月に入る頃には三笠への武器・弾薬や石炭の積載が始められ、出撃の準備が進められていることがわかります(2~13画像目)。そして、2月10日に修理完了が告げられると(14画像目)、2月14日、三笠は呉から再び出撃しました(16~17画像目)。同21日に鎮海湾に投錨した三笠は(24~25画像目)、これからしばらくの期間、対馬海峡一帯で訓練を続けることになります。

 黄海海戦を経て、明治37年(1904年)末に旅順艦隊が壊滅し、明治38年(1905年)1月1日に旅順要塞が陥落すると、開戦当初から日本艦隊の主要な目標であった旅順攻撃は終息を迎え、海での戦いの焦点は、明治37年(1904年)10月半ばにバルト海沿岸のリバウ軍港を出撃して日本を目指していたロシア海軍バルチック艦隊を、日本海軍連合艦隊がどのように迎え撃つかという1点に絞り込まれていました。対馬海峡における三笠の訓練は、来たるべきバルチック艦隊との戦いに備えたものでした。

 明治38年(1905年)5月27日未明、特務艦隊の仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊の病院船を発見し、連合艦隊の全艦船に出撃命令が出されました。旗艦三笠は大本営に向けて「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレ共波高シ」の電報を発信して出撃します。そして、バルチック艦隊と対峙すると「皇国興廃此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」を意味するZ旗による信号を全艦隊に向けて発し、日本海海戦が始まりました。【資料19】の電文綴りでは、これらの電文も見ることができます(30~33画像目)。【資料20】の三笠の日誌には、この海戦の第1日目(27日)と第2日目(28日)についての日誌も含まれています(73~86画像目)。また【資料21】には、三笠の戦闘についての詳細記録があります(1~55画像目)。【資料22】には、両艦隊の動きを図示した記録があり、いわゆる「丁字戦法(T字戦法)」の様子も確認することができます(10~17画像目)。 【資料23】には、
▲「天気晴朗ナレ共波高シ」
(防衛省防衛研究所所蔵)


▲「皇国興廃此ノ一戦ニアリ」
(防衛省防衛研究所所蔵)




三笠の被害や死傷者についての記録があり(12~78画像目)、艦体の被弾箇所を示した図も含まれています(79~84画像目)。

 三笠率いる連合艦隊は、日露戦争中最大の海戦となったこの日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を破り、戦争の行方に大きな影響を及ぼすことになりました。
⇒この戦闘の様子は「日露戦争史」で関連資料と共に紹介しています。

▲日本海海戦後に降伏したネボガトフ少将率いる第三戦艦隊と
   これを誘導する日本艦隊主力部隊(防衛省防衛研究所所蔵)
関連資料10
レファレンスコード : C05110186600
件名 : 第6編 官衙及ひ艦団部隊会計/第4章 艦団部隊の会計経理/第1飾 各艦船
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関連資料11
レファレンスコード : C09020185800
件名 : 連合艦隊戦時日誌(1)
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関連資料12
レファレンスコード : C09050273800
件名 : 第2回閉塞に関する報告(1)
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関連資料13
レファレンスコード : C09050338000
件名 : 軍艦三笠戦時日誌2(3)
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関連資料14
レファレンスコード : C09050338100
件名 : 軍艦三笠戦時日誌2(4)
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関連資料15
レファレンスコード : C09050338200
件名 : 軍艦三笠戦時日誌2(5)
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関連資料16
レファレンスコード : C09050253200
件名 : 第1艦隊戦闘詳報(8)
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関連資料17
レファレンスコード : C09050339000
件名 : 軍艦三笠戦時日誌2(13)
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関連資料18
レファレンスコード : C09050339600
件名 : 軍艦三笠戦時日誌3(3)
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関連資料19
レファレンスコード : C09050518500
件名 : 日本海海戦電報報告1(1)
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関連資料20
レファレンスコード : C09050340500
件名 : 軍艦三笠戦時日誌4(2)
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関連資料21
レファレンスコード : C09050340600
件名 : 軍艦三笠戦時日誌4(3)
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関連資料22
レファレンスコード : C09050252900
件名 : 第1艦隊戦闘詳報(5)
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関連資料23
レファレンスコード : C09050340700
件名 : 軍艦三笠戦時日誌4(4)
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