三笠の解体決定が発表されると、各地からその保存を求める声が起こりました。【資料39】には、三重県度会郡大湊町長が外務大臣に出した陳情書があります(10~14画像目)。ここでは、日本海海戦で活躍した歴史的記念物として三笠は永遠に忘れることはできない、と述べられています。やがて三笠保存運動が盛んになり、「三笠保存会」が組織されました。保存会の会長が内閣
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▲記念艦「三笠」 (財団法人三笠保存会所蔵)
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総理大臣に出した請願書では、各国政府と交渉して三笠を何らかのかたちで保存できるようにして欲しいと訴えられています(16~17画像目)。
こうした運動の結果、大正14年(1925年)1月には、現役には復帰できない状態にすることを条件として、三笠の記念艦としての保存が決定されました。このために、戦闘用の装備の一切を取り除くあるいは使えなくするなどの整備がなされ、艦体を横須賀の岸壁に固定するための大規模な工事が行われました。【資料40】には、三笠を固定する工事の見取り図があります(13~21画像目)。保存工事は大正15年(1926年)11月11日に完了し、翌日に保存式が執り行われました。【資料41】には、保存式の日付で、三笠がそれまで工事・管理を行っていた横須賀の鎮守府の手を離れ、その保存・管理が「三笠保存会」に委託されることが述べられた文書があります。
こうして、戦艦三笠は記念艦としていわば「第二の人生」を歩むことになりました。しかし、この「第二の人生」もまた決して平穏なものではありませんでした。太平洋戦争後には、「三笠保存会」が解散し、艦体は荒廃し、その保存が危ぶまれました。しかし、この時再び大規模な保存運動が起こり、やがて「三笠保存会」も再び結成されました。それ以来、この「三笠保存会」のもとで、記念艦「三笠」はその「第二の人生」を今も歩み続けています。 |
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