三笠の引き揚げは困難なものとなり、これを成し遂げるには非常に長い時間がかけられました。【資料31】には、その経緯がまとめられています(1~11画像目)。明治39年(1906年)8月7日の午後、三笠の艦体を引き揚げる作業が開始され、事故から1年余りを経てようやく三笠は海上に帰ってきました(8~9画像目)。この日の作業には、1,647人の職工が携わったと記録されています(11画像目)。また、引き揚げ |
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▲黄海海戦で破損した戦艦「三笠」 の後部砲塔(防衛省防衛研究所所蔵)
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の後、「三笠変災査問委員会」は火災の原因を火薬の変質による発火であると結論づけていますが(51~54画像目)、この点については今日においてもなおいくつかの説があります。
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【資料32】には、明治41年(1908年)1月に、修理を終えた三笠が試験を行っていることが記された文書があります(2画像目)。再び現役へと復帰した三笠は、第一次世界大戦やシベリア出兵の際にも、艦隊の一員として務めを果たしています。【資料33】からは、大正3年(1914年)2月の時点で三笠が舞鶴鎮守府艦隊の旗艦を務めていること(1画像目)、また【資料34】からは、第一次世界大戦への参戦直後の大正3年(1914年)10月1日にも、同じ艦隊の旗艦に定められていることもわかります(36画像目)。【資料35】には、シベリア出兵中の時期にあたる大正9年(1920年)2月に、三笠が樺太(サハリン)方面で現地の日本人の保護という任務に就いていること(1~13画像目)や、その後第三艦隊に編入されたことが記されています(3、11画像目)。このように北方での任務に就くにあたって、三笠には大規模な防寒装備が施されました。【資料36】には、この時設置された新型の暖房装置の図があります(6~16画像目)。また、大正10年(1921年)9月16日に、三笠がウラジオストック港外のアスコルド海峡で座礁事故を起こしたことが【資料37】に記されています(3画像目~50画像目)。【資料38】にはその救助の経緯が記録されています(1~54画像目)。
やがて、大正11年(1922年)2月6日のワシントン軍縮条約によって、三笠の廃艦が決定されました。そしてその翌年の大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の際には大きな被害を受け、この直後に海軍から除籍されることになりました。
かつて日本帝国海軍連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠は、就役から20年余りを経て、ついにその役割を終え、解体を待つばかりとなりました。
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