【資料6】~【資料9】は、明治38年(1905年)5月27日から28日にかけて、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊との間で戦われ、日露戦争の勝敗の行方に大きな影響を及ぼした日本海海戦に参加した第一艦隊の一連の記録です。
【資料6】の14、18、20、21、24、26画像目、【資料7】の3、7画像目では、それぞれ5月27日と28日の戦闘の推移についての詳細な報告文の合間に、各局面での日本艦隊とロシア艦隊の位置関係を示す略図が挿入されています。
【資料8】の10~17画像目は、第一戦隊に所属した戦艦「敷島」の戦闘詳報に付されている、上のものと同様の、戦闘の推移に従って日露両艦隊の位置関係を示した略図です。10画像目の図は、「廿(二十)七日午后(後)二時廿(二十)分頃 関係位置」と題されており、一般に「T字戦法」あるいは「丁字戦法」と呼ばれる日本艦隊の動きが示されています。19~24画像目は、「日本海海戦航跡図」と題された図で、左右2つの図に分かれています。左図(19、22画像目)は、加徳水道(朝鮮半島南東部)を出撃し、27日午後に対馬沖でバルチック艦隊と交戦し、やがて夜間の戦闘へと移っていくまでの航跡が示されています。
右図(20~21、23~24画像目)は、27日夜間から北方に移動し、28日の日中にバルチック艦隊の残存艦船と再び戦闘を行い、その後舞鶴港に帰港するまでの航跡が示されています。
26~28画像目は、「明治三十八年五月二十七日 日本海々戦図」と題された図で、上の「日本海海戦航跡図」の左図(19、22画像目)の右側中央部分にあたる内容です(異なる点もあります)。ここには27日日中の戦闘の際の日露両艦隊の動きが示されています。南方(図の下方)から北上してきているのがロシアのバルチック艦隊です。図下方(28画像目)の中央辺りで円のような形を描いている日本艦隊の動きが、「T字戦法(丁字戦法)」と呼ばれているものです。30~31画像目は、「明治三十八年五月 日本海々戦航跡図」と題された図で、上の「日本海海戦航跡図」の右図と左図をあわせたような内容ですが、28日の戦闘以降の航跡は、舞鶴への帰港ではなく再び対馬方面への南下となっています。
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