日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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日露戦争はやわかり

 
 

日露戦争への道

3.日清戦争から日露戦争へ

▲ロシアの要人たち
【右から】        
極東総督アレクセーエフ海軍大将   大蔵大臣ヴィッテ   ヒルコフ公爵
外務大臣ラムズドルフ伯爵    内務大臣プレーヴェ   陸軍大臣サハロフ中将
海軍大臣アヴェラン   駐日公使ローゼン男爵   駐清公使レッサー
(防衛省防衛研究所所蔵)

 これを見た朝鮮では、国王高宗の妃であった閔妃の一族がロシアに接近して、日本の勢力を排除しようとします。 これに危機感を持った日本公使三浦梧楼らは、閔妃と対立関係にあった大院君(朝鮮国王の父)を擁立するクーデターを企図し、日本軍人・警察官・民間日本人壮士や日本人に訓練された朝鮮人訓練隊を王宮に乱入させて、閔妃を殺害しました。このため朝鮮はロシアにさらに接近するようになります。
 日本は、ロシアと山県=ロバノフ協定(1896年)、西=ローゼン協定(1898年)を結び、朝鮮において日露が政治的に対等であることを確認し、対立を避けます。この間、明治30年(1897年)に朝鮮は大韓帝国と改称し、朝鮮国王も大韓皇帝となります。
 そして、明治31年(1898年)になると、日清戦争によって弱体化した清に対し、列強による勢力範囲の分割が本格化します。まずドイツが山東半島の膠州湾を、ついでイギリスが九龍半島と威海衛(威海)を、翌年フランスが広州湾を租借します。 そして、ロシアもまたこの時期に旅順大連租借し、 中東鉄道から分岐して、遼東半島の南端にある旅順大連に至る南支線の敷設権を獲得します。さらに、時期を同じくしてアメリカもハワイを併合し、米西戦争によってスペインからフィリピンを獲得しました。

 
 
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