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戦艦大和 ~最後の戦い~
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戦艦大和、その誕生
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第二次世界大戦当時、世界最大の戦艦を日本が建造したことをご存知でしょうか。その戦艦は「大和」(やまと)といいます (1)、(2)。アジ歴では、戦艦大和に関する当時の生の資料を見ることができます。その資料には、大和の戦いはどのように記録されているのでしょうか。
戦艦大和の構想は、第一次大戦後に遡ります。大正11年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約、続いて昭和5年(1930年)にロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6~7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。
海軍軍縮条約の期限は昭和11年(1936年)末でした。海軍の装備を制限する条約がなくなり、各国間での軍艦の建造競争となった場合、日本は総合的な国力で他の有力な国々に劣るため不利とならざるを得ません。そこで海軍は、艦船の数で勝負するのではなく、他国に勝る性能を有する戦艦を備えることを考えました。この際に重視されたのが、主砲の大きさでした。アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来する際にパナマ運河を通過していました。しかし、この運河の門の幅は33メートルであるため、ここを通り抜けることのできる艦船も幅がこれ以下の規模のものにほぼ限られました。戦艦で言えば、主砲の大きさが41センチ未満のものという計算になります。そこで日本海軍は、これを上回る大きさの主砲を備えた戦艦をアメリカ海軍が建造する可能性は低いだろうと判断し、さらに大きな46センチの主砲を備えた大戦艦の建造を計画したのです。こうして造られたのが戦艦大和でした。
戦艦から航空機へ
昭和16年(1941年)12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度にわたる攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。そのわずか二日後、日本海軍航空部隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈します。
日本のこの緒戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が大和のような戦艦から航空機へと移ったことを証明することになります。大和は「大艦巨砲主義」、すなわちより大きな砲弾をより遠くへ飛ばす戦艦を軸に海軍を編成するという作戦思想の産物でした。しかし、各国の航空機の性能が飛躍的に向上し、さらに洋上の基地となる航空母艦が主力になります。この状況の変化により、大和が必勝を目指していた戦艦による艦隊決戦自体が行われなくなりました。
昭和16年(1941年)12月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)6月19日~20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年10月23日~25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。
戦艦大和、最後の戦い
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そして昭和20年(1945年)4月5日、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下りました (3)。目的地はアメリカ軍が上陸を始めた沖縄でした。 (4) はこの作戦の時の軍艦大和の戦闘詳報です。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書のことです。同画像の右上には「軍極秘」の文字があります。
(5) のページ以下に、この時の大和の詳細な作戦行動が記されています。大和は4月6日15時20分に出撃します。出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜。 (5) の下の「記事」には、その配置図が記されています。
隊形を整えた艦隊に対して、伊藤整一第二艦隊司令長官は指揮下の各艦に対し「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」、との訓示を伝えました(戸髙一成『戦艦大和に捧ぐ』PHP研究所、2007年、161頁)。
4月7日の8時40分、大和は米軍の航空機の編隊を視認しました。12時34分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。しかし、数多くの米軍機からの攻撃を受け、およそ2時間後の14時23分に「前後部砲塔誘爆沈没」しました。 (6) によれば、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されています。 (7) は大和の被害状況を絵図としてまとめたもの、(8) は戦闘詳報の中に収録されている大和の行動図です。
生還者達の残した言葉
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4月7日の海戦は、日本側では「坊の岬沖海戦」と呼ばれています。10隻からなる艦隊は、大和のほか矢矧・磯風・浜風・朝霞・霞の計6隻が沈みました。帰還した4隻のうち、涼月は大破、冬月・雪風は被弾もしくは至近弾を受け、初霜はほぼ無傷でした。
生還者達は、この戦いをどのように書き記しているのでしょうか、(9) の「参考事例(戦訓)」には、次のようなことが記されています。
戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕がないということがしばしばであるが、特攻兵器を別として、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させるためには、慎重に計画を進め、準備をできるだけ綿密に行う必要があり、「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をもみすみす無駄死にさせてしまう、と書かれています。
また、大和を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦はあくまで冷静にして打算的でなければならない、いたずらに特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失うところが多く、得るところは非常に少ない、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれています (10)。
大和沈没とその後
4月7日の海戦の同日、後に戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎内閣が誕生し、親任式が行われました。その親任式のあと、鈴木首相は控え室で大和の沈没を知らされたと言われています。
『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』によると、4月30日、昭和天皇は、米内光政海軍大臣に対し下問され、「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と問われています。これに対し海軍人事局三戸壽少将と富岡第一部長は関係資料をもとに話し合い、「作戦指導ハ適切ナリトハ称シ難カルベシ」と結論付けました(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』朝雲新聞社、1976年、283頁)。
そして、この作戦の4ヶ月余り後、日本は終戦を迎えることになります。
- 栗原俊雄『戦艦大和-生還者達の証言から』岩波書店、2007年
- 戸髙一成『戦艦大和に捧ぐ』PHP研究所、2007年
- 原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典』新人物往来社、2003年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』朝雲新聞社、1976年。