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帝都再建 ~関東大震災からの復興~
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未曽有(みぞう)の大震災発生
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大正12年(1923年)9月1日の午前11時58分、神奈川県西部(または相模湾北西部)を震源とするマグニチュード7.9の大地震(関東地震)が起きました。関東大震災の発生です。この地震により、震源付近の神奈川県内を中心に、南関東一帯の広い地域で、家屋の倒壊をはじめ、火災、津波などによる大きな被害が出ました。死者・行方不明者は約10万5千人、このうちの約88パーセントにあたる約9万2千人は火災による犠牲者だったといわれています(1)。
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首都東京では、各所で発生した火災(100箇所近くからの出火があったといわれます)が強風を受けてすさまじい勢いとなって広がり、官公庁の庁舎をはじめ多くの主要な建物を呑み込みました。(2)の資料では、目黒にあった海軍技術研究所で、地震発生直後に市街地で上がった火の手が火薬庫に引火して爆発が起こったことなどが報告されています。火災の激しさが表れている記録です。
この大火災は9月3日の午前まで続き、市域の面積の約44パーセントが焼失したともいわれています。なお、当時の東京は、今日の東京都全体に相当する地域が「東京府」(とうきょうふ)、23区に相当する地域が「東京市」(とうきょうし:全部で35区でした)とされていました。また、人々は東京をよく「帝都」(ていと:大日本帝国の首都という意味)と呼びました。関東大震災は、この帝都の半分近くを焼け野原にしてしまったのです。
帝都復興への道
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都市機能が完全に停止した帝都東京で、懸命な救助・救援活動、そして復旧活動が始まります。また、海外からも救援の手が差し伸べられ、さまざまな国から救援物資や義捐金が送られてきましたが、中でもアメリカは、9月5日に海軍の艦船が物資を積んで横浜に入港し、その数日後にはアジア艦隊のアンダーソン司令長官ができる限りの救援を行うことを日本政府に対して申し出るなど、非常に積極的な姿勢でした(3)。
その一方で、政府内では復興に向けた準備がいち早く開始されていました。震災発生の翌日に発足した山本権兵衛内閣では、この日のうちに、復興事業を担う特別な機関である「帝都復興院」の設立が提案されています。その後の議論を経て、帝都復興院は、内閣総理大臣直属の機関として9月27日に実際に設立されることとなり(4)、各所から優れた技術者が集められ、その総裁には、数か月前まで東京市長であった内務大臣の後藤新平が就任しました(5)。
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帝都復興のリーダーとなった後藤は、壮大な復興構想を打ち立てます。この構想は、国の主導による復興事業という方向性が強く、被災した土地をすべて国が買い上げて整備を行うという方針が掲げられていました。しかし、この手法は土地の持ち主の権利を侵害するものだとして批判を浴び、実現には至りませんでした。
それでも、後藤の主導のもと帝都復興院が作り上げた復興計画は、大規模な道路整備や土地区画の整理などが盛り込まれた、まさに帝都をつくり変えるもので、その実現のために莫大な額の国家予算が必要とされていました。その額は、当時の日本が国債の発行によって借り入れることのできる限度額であった15億円の半額にあたる7億5,000万円にのぼっていましたが(後藤の最初の案では30億円だったとも40億円だったともいわれます)、12月に始まった第47回帝国議会では、首都の復興にばかり国家予算が注ぎ込まれると地方が不満を持つと批判され、さらに主要な道路の整備以外は地方自治体に任せることなども決定され、最終的な予算額は4億6,800万円にまで削減されました(6)。なお、この直後に起きた虎ノ門事件の責任をとって山本内閣が総辞職した際に、後藤新平も帝都復興院総裁と内務大臣の職を辞しています(後任は水野錬太郎です)。
そして、議会のもうひとつの結論として、帝都復興院が大正13年2月に廃止されることになりました。つまり、復興計画が定まった時点で、復興事業を内閣総理大臣が直接管理するという体制は停止されたのです。代わって、計画実行を担うため、内務省のひとつの部局として「復興局」が開設されました(7)。
帝都復興事業6年間
後藤新平の構想や帝都復興院の最初の案からは、内容・予算ともに大幅に縮小されてしまった帝都復興計画でしたが、それでも、復興局のもと、東京と横浜では6年間の工程でさまざまな復興事業が進められていきました。
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(8)は、昭和3年(1928年)12月の時点で復興局がまとめた復興事業の進捗状況の報告です。これによれば、国が主体となって、区画整理、幹線道路の整備、橋の整備、地下に埋め込んだ水道管、ガス管、電線、電話線などの整備、河川や運河の整備、公園の整備、住宅地や商工業地域の指定、防火対策の助成、地質調査などの事業を行い、その一方で、東京府、東京市、神奈川県、横浜市が主体となって、道路整備や上下水道の整備に加え、小規模な公園やゴミ処理施設、衛生施設、教育施設(小学校など)の整備といった事業を行っていたことがわかります。
東京では、国によって52本の幹線道路が整備されましたが、これらの道路は現在でもほぼそのまま都内の主要な通りとなっています。現在の港区の新橋交差点から台東区の大関横丁交差点まで続く昭和通りは、昭和3年(1928年)に完成しました。また、現在の新宿区の新宿大ガード東交差点から中央区の浅草橋交差点まで続く靖国通りは、この時に幅が広げられたもので、当時は大正通りと呼ばれていました。帝都を南北に走る昭和通りと東西に走る大正通りは、道路整備計画の中心的な位置づけとなっていました。
このほか、崩落してしまった隅田川の多くの木造の橋に代わって、「震災復興橋梁」と呼ばれる9つの鉄製の橋が造られています。このうち、両国橋、厩橋、吾妻橋は国によって造られ、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋は東京市によって造られました。ほかにも、東京全体で103の橋が整備されています。東京の三大公園と呼ばれる、隅田公園、浜町公園、錦糸公園も、当時「震災復興公園」として造られたものです。
このように、震災復興事業によって整備された数々の道路や施設が、並行して進められた大規模な土地区画整理とともに(9)、今日の首都東京の基礎をかたちづくったのです。
帝都再建成る
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帝都復興の成果は、その当初から大きくアピールされていました。震災発生の数か月後には、「這回の大震災に際し諸外国官民の倚せたる至大の同情援助に対する我国官民感謝の一端を表明し且つ震災及復興等に関する実況を海外に紹介する為」、つまり、諸外国から寄せられた多くの支援に対する感謝の気持ちを示すことや、被害の様子や復興の様子を海外に伝えることを目的として、外務省情報部が映画を製作し、在外公館を通じて各国に配布していました(10)。文部省(現在の文部科学省)でも同時期に同様の映画が製作されているようです。こうしたアピールは、外国からの援助や、特に国債の発行による海外からの資金調達に頼りながら復興を進めていた日本にとっては重要なものだったのでしょう。
昭和4年(1929年)10月には、帝都復興の達成を記念する「帝都復興展覧会」が日比谷公園内で開催されました。主催者である東京市政調査会(東京市長時代の後藤新平によって組織された研究機関です)会長の阪谷芳郎は、「…過去七年以来官民努力の結成に依り漸く完備の域に達せんとする帝都復興事業其他復興帝都の市政及一般市民の復興状態等を明瞭にし国都文化の紹復と市民精神の振作更張に貢献仕度存候」、つまり、7年間の人々の努力によってようやく達成されようとしている復興の状況を示すことで、首都の文化の再興と人々の精神の高揚に貢献したいと述べています(11)。この展覧会の展示内容は(12)に見ることができます。
また、翌年の昭和5年(1930年)8月には、「帝都復興記念章」がつくられ、授与の対象者は「帝都復興の事業に直接関与したる者」「帝都復興の事業に伴う要務に関与したる者」と定められました(13)。つまり、この記念章は帝都復興の功労者を称えるためのものでした。(14)では、対象者として、震災当時に内閣総理大臣であった山本権兵衛やその閣僚たちをはじめ、数多くの政治家や行政官たちの名前が挙げられていますが(画像はその一部です)、しかし、この中には帝都復興の道を最初に切りひらいた後藤新平の名前はありません。後藤はこの前年の昭和4年(1929年)4月13日にこの世を去っていました。
帝都復興記念章創設の4ヶ月前、昭和5年(1930年)4月1日には復興局が廃止され、その業務は内務次官が局長を務める復興事務局に引き継がれました(15)。この復興事務局も昭和7年(1932年)4月1日に廃止され、帝都復興事業は制度として完全に終わりを告げました。
- 中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門委員会編『災害史に学ぶ 海溝型地震・津波編(案)』、『災害史に学ぶ 内陸直下型地震編(案)』(内閣府(防災担当)災害予防担当、平成23年3月)
- 独立行政法人防災科学技術研究所・自然災害情報室ホームページ「防災基礎講座 災害はどこでどのように起きているか」