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ポーツマス講和会議 ~小村寿太郎と交渉の「舞台裏」~
※印の画像はクリックで拡大します。
日露戦争とポーツマス講和会議
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明治37年(1904年)2月6日、日本とロシアとの間で戦争が勃発しました。日露戦争です。その主な舞台は、朝鮮半島と、満州(中国東北部)の南部でした。戦争が長引くにつれ、旅順港閉塞作戦や奉天会戦、日本海海戦などの戦闘で勝利をおさめていた日本の国力は次第に低下していきました。一方のロシアでも革命(ロシア第一革命)が起こり、国内は混乱状態に陥りました。
こうして、日本とロシアの双方で、戦いを続けることが難しい状況となりました。そこで、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領の仲介によって、戦争を終わらせるための話し合い(講和会議)が行われることになりました。
それが、明治38年(1905年)8月10日に始められた日露講和会議です (1) (2) (3) 。この会議はアメリカ合衆国ニューハンプシャー州のポーツマスという町の近郊で行われたので、ポーツマス講和会議とも呼ばれています。その結果、この年の9月5日に、日本とロシアの間で日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ、18ヶ月間にわたって続いた日露戦争は終結しました。
さて、日露戦争を終結させたのがポーツマス講和会議とポーツマス条約であるということはよく知られていますが、それでは、1ヶ月に及ぶ講和会議の「舞台裏」では何が起きていたのでしょうか。アジ歴の資料で探ってみましょう。
「舞台裏」の記録
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ポーツマス講和会議では、なかなか話がまとまらない状況が続きました。このため、後半にはいろいろなかたちで話し合いが行われるようになっていました。つまり、正式な講和会議(本会議)とは別の場での会議があったのです。これはまさに「舞台裏」での出来事と言えるでしょう。アジ歴には、こうした場で何が話し合われたのかを確認することのできる記録があります。「日露講和談判筆記 附両国全権委員非正式会見要録」という文書には、本会議での参加者たちの発言の内容と、「秘密会議」や「非正式会見」の様子が記録されています。日本側全権代表の小村寿太郎( (1) :手前の列の左から3番目、および (4) )や、ロシア側全権代表のセルゲイ・ウィッテ( (1) :奥の列の左から3番目)の講和会議での実際の発言内容を確認できることも貴重ですが、ここでは、「舞台裏」に注目してみましょう(レファレンスコード:B06150094000 日露講和談判筆記 附両国全権委員非正式会見要録)。
会議の日程
この記録に基づいて、本会議とその他の会議の日程を整理すると次のようになります。非正式予備会議 | 8月 9日 | 10:00~11:30 |
---|---|---|
第1回本会議 | 8月 10日 | 10:15~11:50 |
第2回本会議 | 8月 12日 | 9:45~18:30 |
第3回本会議 | 8月 14日 | 10:00~18:00 |
第4回本会議 | 8月 15日 | 10:00~18:00 |
第5回本会議 | 8月 16日 | 9:45~18:30 |
第6回本会議 | 8月 17日 | 9:45~18:30 |
秘密会議 | 8月 18日 | 10:00~15:25 |
第7回本会議 | 8月 18日 | 15:25~16:30 |
秘密会議 | 8月 23日 | 9:30~12:00 |
第8回本会議 | 8月 23日 | 14:30~15:30 |
秘密会議 | 8月 26日 | 15:30~16:00 |
第9回本会議 | 8月 26日 | 16:30~16:40 |
秘密会議 | 8月 29日 | 10:00~10:50 |
第10回本会議(最終本会議) | 8月 29日 | 10:55~17:00 |
非正式会見 | 9月 1日 | 11:30?~ |
非正式会見 | 9月 1日 | 20:30~22:00過ぎ |
非正式会見 | 9月 2日 | 16:00頃~? |
非正式会見 | 9月 2日 | 21:00~? |
講和条約調印 | 9月 5日 | 15:50~? |
秘密会議、非正式会見
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このように、本会議以外に、本会議が始まる前日8月9日の「非正式予備会議」、8月18日、23日、26日、29日の「秘密会議」、そして9月1日と2日の全4回の「非正式会見」が行われていることがわかります。このうち、すべての「非正式会見」は、「ホテル・ウエントウオルス」(Hotel Wentworth)で行われたと記録には書かれています。このホテルはポーツマスの隣町のニュー・キャッスルにあり、日露両国の代表団が宿泊していました。つまり、「非正式会見」は、本会議場まで行かず、宿泊先のホテルで両代表団が小村の部屋とウィッテの部屋を交互に行き来して行われていたのです。こうした話し合いが講和会議の後半になって行われるようになったのは、主に、休戦議定書(戦闘を停止する上での取り決め)や講和条約の条項の内容など、細かな部分の詰めを行うためだったようです。
こうして、講和会議の開始から1ヶ月近くを経た8月29日の秘密会議と本会議の場で、ようやく両国代表の間で講和の内容が合意されました。そして、9月5日の15時50分頃から両国全権代表は講和条約への調印を行い、日露戦争は終結しました (5) (レファレンスコード:A03020652300 御署名原本・明治三十八年・条約十月十六日・日露両国講和条約及追加約款)。
会議の「困難」
ここまで見てきたように、ポーツマス講和会議はハードなスケジュールで進められました。そして、その内容もまた非常に難しいものでした。戦争において、どちらかの国が完全に優位に立っているわけではなく、日本もロシアも戦争を続けるのが難しくなったという状況で始められた講和会議ですから、どのような取り決めを行うかという点で、お互いの意見が食い違うこともしばしばあったようです。「非正式会議」などで細かな点での調整を行っているのも、こうした状況によるものでした。結局のところ、締結された講和条約では、日本は満州や大韓帝国における利権を得たものの、ロシアから戦争賠償金を得ることはできませんでした。日本国内ではこれに対する不満の声が高まりました。
小村寿太郎、病に倒れる
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このような困難な交渉を日本側全権代表として担ってきた小村寿太郎は、苦労がたたったためか、講和条約締結の直後に発熱、腹痛を訴えました。 (6) は、9月10日に小村からアメリカのグラント将軍に対して出された電報です。この中で小村は、「昨夜から病気です」と述べ、翌日に予定されていたと思われる昼食会の辞退を申し出ています。 (7) は、9月13日午前に滞在地のニューヨークから本国に出された報告です。「ゴヲルブラッダア」(胆嚢)が炎症を起こしたために胃液が出ず、消化不良を起こしているという病状が記されています。 (8) は同じ日の午後に届けられた報告ですが、ここでは、夕方になって医師の診察を受けたところ、腸チフスの疑いがあるという診断結果であったと書かれています。
静養~帰国
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こうして、病気であることが明らかとなった小村は、静養のために現地にとどまることになりました。その間、高平公使らによって、本国への病状報告が頻繁に行われました。この中でも (9) は、9月14日の午前に小村本人から本国の桂外務大臣に出されたものです。小村は、医師の診断は腸チフスの初期段階であり、少し経てば旅行も可能だろうとのことなので翌日の出発を決心したが、このまま無理に帰国してもすぐに公務に復帰するのは無理であると判断し、やむを得ず10月2日にバンクーバー経由で帰国することにしたと述べています。このようなことは、小村にとっては「実ニ遺憾ノ至リ」であったようです。 (10) は、その出発の日、10月2日にバンクーバーから出された電報です。小村は全快し、病後の衰弱がある以外には通常の状態に戻っている、と報告されています。こうして、小村はようやく帰国の途についたのです。条約締結から既に1ヵ月ほどが過ぎていました。