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杉原千畝と「命のビザ」 ~東洋のシンドラーと呼ばれた外交官~
※印の画像はクリックで拡大します。
杉原千畝とは
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杉原千畝(すぎはらちうね)、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官です (1) (2)。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。
この「命のビザ」の物語をめぐって、アジ歴の資料から何が見えてくるのでしょうか。
「東洋のシンドラー」
杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。 (3) は、当時の在カウナス日本領事館です。彼が多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれることになったドラマの舞台がこの場所です。
ところで、「東洋のシンドラー」の「シンドラー」とは何のことか、ご存知でしょうか。これもまた人の名前です。オスカー・シンドラーというドイツ人(生まれは現在のチェコ)の実業家で、やはり第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる人物です。彼は、ドイツ占領下のポーランドで自らが経営していた軍需工場(戦争のために必要な物資を製造する工場)に労働者としてユダヤ人を雇い入れ、その身柄を保護することで、1200人に上ると言われるユダヤ人の命を救いました。彼がユダヤ人労働者の保護を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれています。これをタイトルにした映画は大きな反響を呼び、シンドラーという人物はさらに多くの人の知るところとなりました。
こうしたシンドラーの行いになぞらえて、のちに杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになったのです。
ユダヤ人迫害と難民
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さて、杉原が在カウナス日本領事館領事代理となった頃には、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激しくなっていました。このような状況下では、ドイツ占領下のポーランドをはじめ、ナチス・ドイツの影響の強い地域から逃れてきたユダヤ人にどのように対処するか、ということが国際的な問題となりました。日本もその例外ではありませんでした。 (4) は、松岡外務大臣が在サンフランシスコ総領事にあてて、昭和15年(1940年)7月26日に出した電報の一部です。この中では、ヨーロッパから日本経由でアメリカに渡るユダヤ人難民が、この月の13日横浜発の鎌倉丸という船に13名、22日発の氷川丸という船に77名あり、引き続き多数に上るであろう、と述べられています。このように、日本にもかなりの数のユダヤ人が逃れて来ていましたが、その多くは、日本を通過してさらに他の国に避難していきました。日本では、ユダヤ人に限らず、すべての外国人について、避難先の国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しない、という方針を決めていました。
ビザ発給をめぐる問題
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しかし、それだけでは対処しきれない問題が出ていたことが、 (5) の内務省警保局(警察部門を管轄)長から外務省に宛てた文書からわかります。ここでは、ますます増加するヨーロッパからの避難民の中には、避難先の国で入国許可を取ることができる、と偽って日本の通過ビザを得て来日しておきながら、実際には行き先がなく、それを理由に日本にとどまろうとする者がいる、と書かれています。また、日本までの乗船券しか持っておらず避難先の国に行くための費用もない者がいて、取り締まりに困っている、とも述べられています。これらは、ヨーロッパの戦火を逃れた避難民全般のことを指していますが、添えられている表 (6) を見ると、やはりユダヤ人が含まれています。そして、いちばん左、国籍が「猶太系 リスアニア」(ユダヤ系 リトアニア)となっている人物の「通過査証月日及官庁」の欄には、「同年(昭和十五年)七月十六日 在カウナス帝国領事代理 杉原千畝」と書かれています。つまり、この人物は、杉原からビザの発給を受けて日本にやってきたことがわかります。しかし、その背景には以上のような難しい状況があったのです。
「命のビザ」のために
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(6) に書かれていたように、昭和15年(1940年)7月16日には、杉原によるユダヤ人へのビザ発給は既に行われていましたが、これは決して順調に進められたわけではありませんでした。 (7) は、この直後の7月28日に杉原より本国の外務省に宛てて出された電報で、その末尾には、日本通過ビザの発給を求めて連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けている、とあります (8)。しかし、実は、このようにビザ発給を求めて領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々でした。この規則というのは、昭和13年(1938年)10月7日に外務大臣から各地の在外公館に宛てて発せられたもので、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などが定められていました。(レファレンスコード:B04013205200 民族問題関係雑件/猶太人問題 第四巻 分割2 77画像目~80画像目)
本国はあくまでこの規則に従っていたため、杉原に対して、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可を出すことは最後までありませんでした。それでも杉原は、独自の判断で発給を続けたのです。こうして発給された日本通過ビザによって日本に渡ったユダヤ人の中には、先ほど見たように、避難先の国の入国許可を得ていないために、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々も多かったでしょう。しかし、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができたことは、まさに彼らの命を救ったことにほかなりませんでした。ソ連への併合にともない、杉原のいたリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖されていきました。日本領事館もまた閉鎖することを求められ、杉原もこの地を離れなければなりませんでしたが、それでも杉原は最後までビザの発給を続けたと言われています。
杉原千畝の人道性
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このような杉原の行為の人道性が特に注目されるようになった背景としては、ユダヤ人へのビザ発給をめぐる他の国の領事館の状況が大きな意味を持つと考えられます。ユダヤ人へのビザ発給を行っていたのは、杉原のいる日本領事館だけではありませんでした。 (9) は、昭和15年(1940年)9月12日に在ハンブルク(漢堡)総領事から外務大臣に宛てて出された文書の前半部分です。ここには、中南米その他の国々の領事や総領事の中には、ビザの発給の際に避難民に手数料以外に高額な代金を要求しているものがいる、と書かれています。しかも、そうやって発給されるビザの中には、本国の了解を得ていないいわゆる空査証(空ビザ)があり、これでは実際にその国に行っても入国が認められないため、通過国でその扱いに困っているとも述べられているのです。
このように、決して人道的とは言えないビザ発給の実態がある一方で、本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした杉原の勇気と人道性は、現在に至るまで高い評価を受けています。
(10) は、昭和16年(1941年)2月に、在プラハ総領事代理となっていた杉原から本国の外務大臣に宛てて出された電報です。ここでは、リトアニア人と旧ポーランド人に発給したビザの数は2,132枚、このうちユダヤ系については約1,500枚と推定される、と述べられています。ビザは、1家族につき1枚あればよかったことから、杉原千畝が「命のビザ」によって救ったユダヤ人の数は、少なくとも6,000人に上ると言われています。