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大津事件 ~ロシア皇太子遭難をめぐって~

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名誉回復されたロシアのラスト・エンペラー

  • (1) ロシア皇太子ニコライ・ギリシャ王子ジョージ像

    (1) ロシア皇太子ニコライ・ギリシャ王子ジョージ像

ソヴィエト連邦が崩壊すると、それと同時に、この国家の基礎となっていた社会主義イデオロギーも否定されることになりました。これにともない、1918年7月にボリシェビキによって殺害され、ロシア帝国最後の皇帝となったニコライ2世(ニコラス=アレクサンドロヴィチ)((1)右)に、今ロシアで再び注目が集まっています。彼の埋葬地が特定され、現在ではそこに修道院が建設されています。彼とその家族は聖者に叙され、そこには彼らをモチーフとしたイコンが飾られています。

皇太子時代に来日したニコライ2世

ニコライ2世は、皇太子時代(当時22歳)に日本を訪れています。父であるロシア皇帝アレクサンドル3世の名代としてシベリア鉄道の起工式に参列するため、1890年11月にロシアを離れ、エジプト、インド、スリランカ、シンガポール、ベトナム、中国などを巡遊し、明治24年(1891年)4月27日に長崎に寄港しました。日本ではロシアで皇太子にも面会したことがある有栖川宮威人親王を接伴役として歓迎の準備が綿密に整えられていました。ニコライは、長崎、鹿児島、神戸、京都、大阪、奈良、横浜、東京、鎌倉、熱海、日光、仙台、松島、盛岡、青森と日本を縦断し、5月31日に離日する予定でした。(レファレンスコード:C03030652900 露国皇太子殿下御待遇の件)

ところが、ある事件が起きたことにより、結局、東京に立ち寄ることもなく、5月19日に予定を早めて離日することとなりました。

大津事件の顛末

  • (2) 大津事件関係資料

    (2) 大津事件関係資料

  • (3) 辞令文写

    (3) 辞令文写

その事件が大津事件(湖南事件)です。5月11日に琵琶湖を遊覧したロシア皇太子は、大津にて警護にあたっていた滋賀県巡査の津田三蔵に斬りつけられ、頭部を負傷しました。 (2) は、事件に関わる品々です。手前は津田が事件の際に使用したサーベル、その右上にあるのがニコライの血染めのハンカチです。

津田がニコライを襲った時、これを体を張って阻止した車夫の向畑治三郎と北賀市太郎は、のちに勲8等と年金36円を受け、帯勲車夫(勲章を付けた車夫)と呼ばれることとなりました。 (3) は彼らへの勲章と年金の授与を伝える辞令の写しです。

事件がもたらした政治的危機に対する対処策

  • (4) 勅令第46号写

    (4) 勅令第46号写

  • (5) 連絡先・訪問先

    (5) 連絡先・訪問先

  • (6) 連絡先・訪問先

    (6) 連絡先・訪問先

周到な歓迎の準備をしていたにも関わらず、政府が用意した警護者が国賓に対して殺害を企て斬りつけたということは、近代国家の外装を纏った日本の威信を大きく傷つけることとなりました。この事件を受けて、5月16日に勅令で新聞雑誌などの関係記事を事前検閲するなどの緊急措置が執られ、世論操作、言論統制が行われました。 (4) はこの勅令の写しです。このことからも事態が緊迫していたことがうかがい知れます。この事件は、明治日本が直面した未曾有の政治的危機でした。

  • (7) アレクサンドル三世から小松彰仁親王への書簡(和訳)

    (7) アレクサンドル三世から小松彰仁親王への書簡(和訳)

  • (8) アレクサンドル三世から小松彰仁親王への書簡(仏文)

    (8) アレクサンドル三世から小松彰仁親王への書簡(仏文)

(5)(6) は、事件後の各所への連絡や訪問についてのリストです。これを見ると、事態の処理に際して、政府当局者や裁判官、検察官のみならず、政府高官、天皇側近、天皇自身を含めた皇族が積極的に関わったことがわかります。ロシアによる領土割譲の要求など最悪の事態を懸念する声も上がりましたが、天皇自らが謝意を表明したことがロシア側に高く評価され、被害者の皇太子ニコライが事件に対して冷静に対処し、皇帝アレクサンドル3世も事件を平和的に敏速に片付けようとしたため、良好であった日露関係が、この事件によって悪化するという事態には陥りませんでした。 (7) は、アレクサンドル3世自らが、ニコライの容体が穏やかであることを伝えた小松彰仁親王に宛てて感謝を述べた書簡の和訳、(8) はそのフランス語原文の写しです。

犯行の動機

  • (9) 兇行者津田三蔵負傷図

    (9) 兇行者津田三蔵負傷図

  • (10) 露国皇太子殿下を傷けたる現場略図

    (10) 露国皇太子殿下を傷けたる現場略図

  • (11) 兇行者津田三蔵に関する上申

    (11) 兇行者津田三蔵に関する上申

  • (12) 町井義純第二回調書

    (12) 町井義純第二回調書

津田三蔵自身も、捕縛される際に傷を負いました。 (9) はその傷の様子です。 (10) は事件の現場の見取り図、 (11) は津田の取り調べの記録です。このやり取りの中で、津田は、「俄に逆上して」犯行におよび、犯行時のことは「一時目が眩みまして覚えていません」と答えています。(12) は、津田の同僚であった町井義純巡査の証言の記録です。これによれば、「露国の皇太子が日本に御出なら先ず東京に御出になるべきに鹿児島に一番に行かるるは西郷あるがためなるべし」、つまり、ニコライが東京でなくまず鹿児島に向かったのは西郷隆盛がそこにいるからである、と津田は考えていたようです。当時、西郷がニコライとともに生還したという風説が広まっており、津田もこれを信じていたようです。津田は西南戦役に参加し、この戦いで勲章を受けていました。したがって、西郷が帰ってくれば自分達の功績もなくなり、勲章も取り上げられてしまうので困る、と危機感を抱いていたのです。こうした心理も津田の犯行動機の一つであったようです。

事件によって顕在化した問題 ~裁判権の独立

ロシア皇太子の来日前に、ロシアと日本の間では、ロシア皇太子への不敬の所業に対して皇族に関する刑法規定を準用することが秘密裏に取り決められていました。大審院長であった児島惟謙は、この取り決め存在を知らされていましたが、津田に対して刑法116条(「天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す」)ではなく、通常謀殺未遂を適用するよう担当判事を説得し、その結果、大審院は津田に無期徒刑の判決を下しました。この津田に対する量刑を確定する過程は、当時の日本において、政府からの司法権の独立の確立に大きく寄与し、その意味で大津事件にまた新たな意義を付け加えることとなりました。

<参考文献>
  • 尾佐竹猛『大津事件-ロシア皇太子大津遭難-』、岩波文庫、1991年
  • 展示図録『企画展 大津事件』大津市歴史博物館、2007年
  • 楠精一郎『児島惟謙―大津事件と明治ナショナリズム―』、中公新書、1997年