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幣原喜重郎 ~その人と外交~
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駐米大使~ワシントン会議全権として
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戦前の日本を代表する外交官の1人 幣原喜重郎 (明治5年(1872年)~昭和26年(1951年))は (1)、明治29年(1896年)に外交官試験に合格したのち、仁川領事館を振り出しに各地の在外公館に勤務し、大正4年(1915年)には外務次官に就任しました。これに続く彼の外交舞台での働きを、アジ歴の資料で追ってみましょう。
大正8年(1919年)、幣原は駐アメリカ特命全権大使に着任しました。 (2) はその任命の際の上奏文です。幣原大使は、1921年11月12日~1922年2月6日に開催されたワシントン会議に全権として関わりました。この会議で彼が特に力をいれて取り組んだのは、太平洋問題(「四国条約」)と中国問題であったと言われています。「四国条約」は、日本・アメリカ・イギリス・フランスの間で締結された条約です。主に、太平洋諸島に関して締約国間で紛争が生じ、通常の外交交渉での解決が見込めない場合には、共同会議を開催し解決にあたることなどを取り決め、太平洋の現状維持をはかろうとするものでした。
そもそも、この条約が検討された発端は、日英間で懸案となっていた日英同盟更新問題を処理するためでした。イギリスは当初、日英同盟の内容を実質的には変更せずに、アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱しましたが、これに対して幣原は、イギリス提案から軍事色を取り払い、何か問題が起きた際には関係国間で互いに協議するという試案を英米両国に提示しました。この「幣原試案」をもとに日本・イギリス・アメリカ・フランスの4か国で協議が進められ、 1921年12月13日に4か国代表が本条約に調印、日英同盟はこれに吸収される形で解消されました。 (3) はその条約書の一部です。
一方、中国問題とは、いわゆる「対華21ヶ条要求」に端を発する山東省の権益問題の解決に関わる交渉です。中国側の強硬姿勢もあり、交渉は困難を極めましたが、36回と言われる交渉を重ね、大正11年(1922年)2月4日、「山東懸案解決条約」が調印されました。 (4) はその中国側の批准書の一部です。
外務大臣として~「ワシントン会議の精神」
中国問題に向き合う
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幣原が外務大臣を務める中で、一貫して懸案となったのが中国問題でした。当時の中国では辛亥革命後の混乱状態にあり、奉直戦争をはじめとする内戦が勃発していました。これに対し、幣原は不干渉の態度をとります。また、1922年10月から開催された北京関税会議では、率先して中国側の関税自主権を承認する方針を打ち出しました。1926年7月、蒋介石率いる国民革命軍が北伐を開始しました。北伐軍は、同年8月には長沙を、10月には武漢を陥れ、翌27年3月には上海、南京を占領するに至りました。その後内紛により北伐は一時中断されましたが、1928年4月に再開し、6月には北京を陥れ、同年12月に張学良が国民政府に帰順し、中国は一応の統一を見ることになります。この北伐の過程においては日本をはじめとする列国との間に対立を引き起こしました。
1927年3月に起こった南京事件の処理において幣原は、派兵を差し控えると共に、蒋介石を援助して自ら治安維持に当たらせる方針を採りました。(7) は、幣原がこうした考え方を表明したことを伝える文書です。「出来得れは南軍側の中心人物たるへき蒋介石等をして速に自発的に処罰、賠償、陳謝、保証の四解決に関し承認する旨声明せしめ事件の円満解決を計るを得策なりと信す」と書かれています。国内では、こうした幣原の対応を「軟弱外交」であるとして激しく非難しましたが、幣原は方針を曲げることなく関係列国を主導して事件解決に当たりました。しかし、4月に漢口で日本人水兵と中国民衆との間に衝突が発生し(漢口事件)、内外から幣原外交に対する批判が高まる中、金融恐慌の発生により、4月20日、若槻礼次郎内閣は倒れ、幣原も外相を辞職しました。
再び中国との交渉へ
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昭和4年(1929)7月に成立した浜口雄幸内閣で外相に復帰した幣原は、再び中国との交渉に当たります。
最初の懸案は中国の関税自主権承認問題でした。国民政府による北伐の完了後、アメリカ、イギリス、フランスなどの各国がこれを承認していたため、日中間の交渉のみが残されていました。幣原は、重光葵在上海総領事に臨時代理公使を兼任させ、この交渉にあたらせました。その結果、昭和5年(1930年)5月6日、条件付きで中国の関税自主権を認める「日華関税協定」が重光臨時代理公使と王正廷外交部長との間で調印されました。(8) はその条約書の一部です。
また、当時の日本は、大正2年(1913)6月の閣議決定に基づいて、中国を「支那」と呼称していました (9)。しかし中国側はこれを好まず「中華民国」の呼称を用いるよう求めていました。これに配慮する形で浜口内閣は、昭和5年(1930年)10月、原則として「中華民国」の呼称を使用することを閣議決定しました( (10)、 (11)、 (12)、 (13) )。
満州事変と外務大臣辞任
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このように、幣原は対中関係の改善を進めていましたが、それに対する大きな壁として満州問題がありました。当時中国政府は、不平等条約の破棄、利権回収の実現を求める急進的な外交政策をとっており、日本の旅順・大連などの権益も回収の対象とされました。これに対して、日本では満州の利権を死守すべきであるとの議論が高まっていました。
こうした状況下で、昭和6年(1931年)9月18日に満州事変が勃発しました。「今次の事変は全く軍部の計画的行動に出でたるものと想像せらる」という在奉天(現在の瀋陽)林総領事の電報((14))に接していた幣原は、閣議において事態の不拡大を軍部に求め、中国との直接交渉で解決を図ろうとしました。しかし、現地関東軍の独断行動によって事態は拡大し、中国側も直接交渉を避け国際連盟での討議を追求するなど、幣原の方針は窮地に追い込まれました。そんな中、満州事変の混乱などが原因となって若槻内閣は総辞職し、幣原も外相の座を降りました。 (15) はこの時の幣原の辞表です。
その彼が日本の国政の中枢に復帰するのは、敗戦後の昭和20年(1945)10月9日、新政府の内閣総理大臣としてでした。