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日露戦争と捕虜 ~国際ルールと実際~

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戦争の世紀と捕虜の問題

19世紀から20世紀にかけての時代は、世界中で大きな戦争が次々に起きた時代でした。ヨーロッパで起きたナポレオン戦争(1803年~1815年)、アメリカの南北戦争(1861年~1865年)、そして、第一次世界大戦(1914年~1919年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)。また日本が経験した日露戦争(1904年~1905年)は、それまでの戦争に比べて規模もその犠牲もはるかに大きな争いでした。

こうした国と国との争いが続く中で、法的な、また倫理的な課題のひとつとして浮かび上がってきたのが、捕虜(古い言い方では「俘虜」)をめぐる問題です。第二次世界大戦後の国際法、例えば1978年(昭和53年)に発効した「ジュネーヴ諸条約第一追加議定書」によれば、捕虜とは「戦闘員であって敵対する紛争当事者の権力内に陥ったもの」(第三編第二部第四十四条「戦闘員及び捕虜」より)を指しますが、これは端的に言えば、敵対する国に捕らわれた将兵のことです。このように敵国に捕われる人々は、有史以来、戦争が起きるたびに見られました。しかし、時代が下るにつれて国際紛争の規模は大きくなり、さらには産業の発達によって各国が大きな軍隊を持つようになると、ひとつの戦争の中でも万単位の将兵がぶつかり合うこととなり、そこで大勢の将兵が敵国の捕虜となって、戦争中はもちろんのこと、戦後も長期間にわたって拘束され続ける事が珍しくなくなりました。それと同時に、彼らをどのように扱うべきか、というルールもまた問われるようになっていきました。

その結果、各国は、国際条約などによって捕虜の問題に対処するための共通ルールを定める一方で、国内法によって自国の中での捕虜の扱いに関する制度を設けるようになります。しかしながら、これらの制度によって実現した状況は、必ずしもその本来の理念に沿ったわけではありませんでした。

捕虜の取り扱いと国際法

  • (1) 陸戦の法規慣例に関する条約

    (1) 陸戦の法規慣例に関する条約

  • (2) 蓋平定立病院に収容されたロシア兵捕虜

    (2) 蓋平定立病院に収容されたロシア兵捕虜

  • (3) 陸戦の法規慣例に関する条約

    (3) 陸戦の法規慣例に関する条約

  • (4) 俘虜情報局条例制定

    (4) 俘虜情報局条例制定

ここでは、明治37年(1904年)~明治38年(1905年)にかけて行われた日露戦争における捕虜に関連する資料を見てみましょう。日露戦争では、満州(中国東北部)、朝鮮半島、日本海などで日露の大軍が戦った結果、多くの捕虜が出ました。捕虜に関する当時の国際的な規定に従って、日本では、愛媛県の松山、愛知県の豊橋をはじめとする各地にロシア人捕虜のための収容所が設けられました。

当時の捕虜に関する国際的な規定の範例は、明治32年(1899年)に発効された「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦条約)です。 (1) はこの条約の条文です。これを見ると、この条約が「戦闘に関する一般の法規慣例は一層精確ならしむるを目的とし又は成るへく戦闘の惨苦を減殺すへき制限を設くるを目的として」(原文カナ旧字)締結された事がわかります。

また、この条約の「第二章 俘虜」の第四条と第七条には、それぞれ「俘虜は博愛の心を以て取扱ふへきものとす」「政府は其の権内に在る捕虜を給養すへき義務あり(中略)食糧寝具及被服に関し俘虜は之を捕獲したる政府の軍隊と対等の取扱を受くへし」(いずれも原文はカナ旧字)として、条約加盟国による捕虜虐待を禁じる条項が設けられています。(レファレンスコード:A03020484400 陸戦の法規慣例に関する条約 19画像目~20画像目)

日本は明治33年(1900年)、この条約を批准しました。日露戦争が始まる4年前のことです (2)

「陸戦の法規慣例に関する条約」には、(3) にある通り、「俘虜情報局」と言われる「俘虜に関する一切の問合に答ふるの任務を有し各俘虜に関する銘銘票を作る為各当該官衙より総て必要なる通報を受領する」(原文カナ旧字)機関の設置に関する条項が含まれています。ここでいう「銘銘票」とは現在の「履歴書」、また「官衙」とは現在の「官庁」に相当する用語です。日露戦争が始まると、日本政府はロシア政府と同様に、自国の捕虜になった敵国人の情報を管理・通達する「俘虜情報局」を新設しました。 (4) は、この「俘虜情報局」に関する国内法としての「俘虜情報局条例」の制定を桂太郎内閣総理大臣宛てに申請した際の、山本権兵衛海軍大臣、小村寿太郎外務大臣、寺内正毅陸軍大臣の名義による文書です(明治37年(1904年)2月15日付)。

日露戦争とその後

  • (5) 俘虜の刑罰に関する件

    (5) 俘虜の刑罰に関する件

  • (6) 俘虜の刑罰に関する件

    (6) 俘虜の刑罰に関する件

  • (7) 陸軍俘虜帰還者審問書類

    (7) 陸軍俘虜帰還者審問書類

  • (8) 営口において送還される捕虜のロシア軍医一行

    (8) 営口において送還される捕虜のロシア軍医一行

  • (9) 明治37年(1904年)9月29日付閣議決定

    (9) 明治37年(1904年)9月29日付閣議決定

  • (10) 防衛総司令官の布告

    (10) 防衛総司令官の布告

しかし同時に、日本政府の権力内にある敵国人捕虜の処罰についても、法的な整備が行われた点にも注目すべきでしょう。 (5) (6) は、日露戦争におけるロシア人捕虜を処罰する勅令案を枢密院で審議した際の、明治37年(1904年)10月15日配布の文書です。(6)には、元々の文章に対して加筆修正が行われていますが、これは枢密院の書記官長による朱書記入です。ちなみに「枢密院」とは日本帝国における天皇の諮問機関、つまり天皇に対して政策に関する助言や勧告を司る機関で、具体的には(6)に見られるように勅令(天皇が発する命令)の原案に加筆修正する等のかたちで政策立案に関与していました。

また日本軍の場合、ロシアの捕虜になった将兵に対して帰国後に「俘虜審問委員会」で敵に捕らわれた際の状況を取り調べる事がありました。 (7) は、捕虜となったある軍人を取り調べた「俘虜審問委員会」がまとめた、明治39年(1906年)3月5日付の「具申書」です。同文書によると「俘虜審問委員会長」は、審問対象となった少尉の事例を「本人は頭部に刀創を受け人事不省となり敵に捕へらるたるものにして職責上名誉を毀損せざるものと認め」て、当人を「軍法会議」にかけたり行政処分を課すには及ばないと結論しています。ここで言及された「軍法会議」とは、軍隊独自の法制(軍法)によって運営される裁判所のことです。

さて、かつての捕虜は、戦争が終わるまで収容所に抑留されていたわけでは必ずしもありません。日露戦争では、例えば医療従事者、あるいは兵隊としての勤務(兵役)ができないほど負傷した捕虜などは、戦争中であっても帰国が許されました (8)(9) は、捕虜の帰国に関係して出された明治37年(1904年)9月29日付の閣議決定を伝える文書です。それによると、ロシアの軍艦「リューリック」の元乗組員で日本の捕虜となっていた「七十歳に達したる者一名」を「兵役に堪へさる者」(原文カナ)と同様の扱いをして帰国を許可する旨が記されています。

ところで日露戦争で見られた捕虜の扱い方は、その後どのように変わったのでしょうか。(10) は、昭和17年(1942年)10月19日付の「防衛総司令官」の布告の内容を伝えています。この布告によれば、日露戦争から約30年を経た日中戦争から第二次世界大戦の最中、日本軍は航空機を投入して敵国の民間施設を爆撃する一方、昭和17年(1942年)にアメリカ軍の航空機が日本を空襲すると、日本領を空襲した「敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行為」をした捕虜は「軍律会議に付して死又は重罰に処す」(原文カナ旧字)ことと定めていたことがわかります。敵国に捕らわれた兵士の処遇の問題は、アフガニスタン、イラク、ソマリアでの戦争を始め、今なお世界中で繰り返し問われています。

<参考文献>
  • “千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書(議定書Ⅰ)”.
    Ministry of Foreign Affairs of Japan(MOFA). Retrieved May 01, 2009 ( http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/k_jindo/pdfs/giteisho_01.pdf )
  • 内海愛子 『日本軍の捕虜政策』青木書店、2005年