公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
ホーム 日米交渉とは ダイジェスト 詳細年表 主要人物 用語解説 参考資料室 アンケート
ダイジェスト
日米交渉とは
日米関係の変遷
背景
日米交渉の記録
写真館
 昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争(支那事変)は中国側の抵抗が強く、「国民政府ヲ対手(あいて)トセス」との近衛内閣総理大臣の声明などで泥沼化し、同時に日米関係は急速に悪化しました。

蘆溝橋上で万歳をする日本軍将兵たち(毎日新聞社提供)

日中戦争・炎上する上海浦東方面(毎日新聞社提供)

パネー号事件に関する米国の態度
(レファレンスコード:A03023960100)
 同年12月12日には、日本海軍機が中国の揚子江に停泊していたアメリカの砲艦パネー号を撃沈、これによりアメリカ国内の世論は硬化し、アメリカ政府内部には「戦争にならない範囲で日本に財政、経済上の圧迫を加える各種の方法をとることが出来る」との強硬意見も出ました。その後、日本軍による在中国アメリカ人への加害や中国におけるアメリカ権益の侵害が続き、昭和14年(1939年)7月26日、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告しました。この時の日本の外務大臣は、後に駐アメリカ大使として日米交渉に携わる野村吉三郎でした。

 同年9月1日、ドイツ軍はポーランドに進駐し第二次世界大戦が始まりました。世界恐慌以来、世界のブロック経済化が進み日本の貿易活動は欧州の植民地から排除されていきました。
 このような情勢下、日米両国は、昭和11年(1936年)1月の日本のロンドン軍縮条約脱退宣言と12月のワシントン条約失効によって軍拡競争に突入していました(ワシントン体制の崩壊)。さらに、昭和15年(1940年)1月26日、日米通商航海条約も失効し、ここに両国関係は「無条約時代」に入りました。
 一方、ヨーロッパでは、昭和15年(1940年)5月1日にヒトラーが西部戦線攻撃開始を命令、ドイツ軍は、電撃作戦によりオランダを制圧しました。さらに5月14日にはフランスの防衛線であるマジノ線を突破し、英仏連合軍を大西洋岸のフランス・ベルギー国境近くにあるダンケルクに追いつめました。6月4日には、ダンケルクからも撤退し、大陸での軍事的足場を失い、6月14日、ついにドイツ軍はパリ入城を果たしました。さらに、9月7日にはロンドン空爆を開始していました。
 このように急変する国際情勢下、日本では昭和11年(1936年)の2・26事件以来顕著になった軍の政治への介入を背景に、国民の期待を担って昭和15年(1940年)7月22日に第二次近衛内閣が発足、外務大臣に松岡洋右、陸軍大臣に東条英機、海軍大臣に吉田善吾が就任しました。同日開かれた、大本営政府連絡会議において「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定、さらに26日には、「基本国策要綱(大東亜新秩序、国防国家建設)」を閣議決定、対米戦争も想定した国策転換を行ないました。
 この方針に基づいて、9月22日に北部仏領インドシナ進駐を実施し、次いで9月27日には、日独伊三国同盟を締結しました。締結を推進した松岡外務大臣は、日米関係の「此ノ上ノ悪化ヲ防グ手段」として「毅然タル態度」で米国に対するために同盟を締結したと御前会議で説明しました。三国同盟締結に対してルーズヴェルト米大統領は10月12日、「脅迫や威嚇には屈しない」と演説を行ない、日米関係は更に悪化しました。

日独伊三国同盟条約調印式(毎日新聞社提供)

北部仏領インドシナに進駐する日本軍
(毎日新聞社提供)

松岡洋右外務大臣発近衛内閣総理大臣宛書翰、
レファレンスコード:A03023521400、
表題:任特命全権大使
海軍大将 野村吉三郎(4画像目)
 なお、松岡外務大臣は7月の就任早々に、「松岡人事」といわれる大幅な人事異動を行ない、駐ソ連大使には東郷茂徳に替わって建川美次を、駐ドイツ大使には来栖三郎の後任として大島浩をすえるなど、旧来から一貫して外交に携わってきた人々を解任し、陸軍出身者を任命しました。その一環として、松岡大臣は、8月22日に堀内謙介駐アメリカ大使に対して帰国命令を出し、新任大使として海軍出身の野村吉三郎を選びます。野村は当初3ヶ月あまりの間、就任を固辞しましたが、松岡大臣や海軍関係者の説得の結果、駐アメリカ大使を引き受けました。
 そして同じ頃、昭和16年(1941年)4月16日の野村大使とハル米国務長官との会談で取り上げられることになる、いわゆる「日米諒解案」策定に深く関わるウォルシュ司祭とドラウト神父がアメリカより来日し、松岡外務大臣をはじめとする軍や政界の指導者に会い、三国同盟締結以来暗礁に乗り上げていた日米関係を改善するための交渉を持ちかけていました。そして、翌年2月の野村大使のアメリカ赴任によって日米関係は新しい局面を迎えます。
All Rights Reserved,Copyright Japan Center for Asian Historical Records 2005.