公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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日米交渉とは
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日米交渉の記録
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背景
1. 日本国内情勢
2. 日本の対外政策
 ●日本国内情勢
  昭和7年(1932年)、急進的な青年将校らが、犬養毅内閣総理大臣を暗殺する5・15事件がおこり、政党内閣は終わりを告げました。昭和11年(1936年)2月26日には、陸軍の青年将校達が約1500人の兵を動かしてクーデターを決行し、首相官邸や陸軍省・警視庁などを占拠して、大蔵大臣など要人3名を殺害しました(2・26事件)。この事件はすぐに鎮圧されますが、軍部の発言力はさらに強まることになりました。事件の後、政治家は絶えずテロによる生命の危機にさらされることになり、陸海軍大臣を現役の軍人とする制度を楯にして、軍が組閣を左右するようになっていきます。

  昭和12年(1937年)7月、北京郊外の盧溝橋で、華北に駐屯していた日本軍と中国軍との衝突が起こりました。これをきっかけに、日中戦争が始まります。こうしたさなか、日本政府は、中国との戦争を押し進めるために、昭和13年(1938年)に国家総動員法を成立させ、議会にはからなくとも経済や国民生活を統制できるようにしました。やがて、町には町内会、村には部落会、さらに約10軒の家を単位とした隣組が組織され、これを通して勤労奉仕や献金、金属回収などが強制的に割り当てられました。

  昭和15年(1940年)春にドイツがヨーロッパで大勝すると、「バスに乗り遅れるな」と政界では国内新体制の構築が叫ばれます。やがて、立憲政友会や立憲民政党などの既成政党が自ら解散し、大政翼賛会が結成されました。
 ●日本の対外政策
中国

  満州(現在の中国東北部)に駐留していた関東軍は、昭和6年(1931年)9月18日、奉天(現在の瀋陽)の柳条湖付近で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍によるものとして攻撃を始め、満州を占領しました(満州事変)。

  昭和7年(1932年)に満州国を建国し、清朝最後の皇帝溥儀を執政に擁立します(昭和9年〔1934年〕に皇帝となります)。国際連盟は、中国の訴えを受けて、リットン調査団を派遣し実状を調べ、満州国の否認を決議します。日本はこれを不満とし、国際連盟を脱退しました。

  昭和12年(1937年)7月、北京郊外の盧溝橋で、華北に駐屯していた日本軍と中国軍の衝突が起こりました。これをきっかけに日中戦争(支那事変)が始まります。日本は戦線を拡大し、昭和12年(1937年)12月13日に国民政府の首都であった南京を占領しました。南京攻略にあたっては、日本軍による多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等がありました。

  この結果、日本は南京を占領しましたが、蒋介石率いる国民政府を屈服させることには失敗しました。昭和13年(1938年)1月16日に近衛文麿内閣総理大臣は「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」という声明を発表し、交渉による解決を打ち切る方針を示しました。一方で、国民政府は重慶に首都を移し、いわゆる援蒋ルートを通じてアメリカやイギリスなどから援助を受けながら、日本との戦争を継続していきました(重慶国民政府)。

  これを受け日本は、昭和15年(1940年)3月、蒋介石に次ぐ地位にあった汪兆銘を重慶から脱出させ、南京に新たに国民政府を設立させました(汪兆銘政権)。
東南アジア

  昭和12年(1937年)12月の日本軍による南京占領後、アメリカ・イギリスなどは重慶国民政府に対する支援を活発化させます。これに対し日本は、援蒋ルートの遮断のために、昭和15年(1940年)9月22日に北部仏領インドシナに進駐しました。このため日本とアメリカ・イギリス両国との対立は強まりました。両国は引き続き重慶国民政府に対する援助を継続し、さらに10月、アメリカは日本に対する屑鉄の輸出を禁止しました。

  昭和16年(1941年)初頭、日本はタイと仏領インドシナとの間の国境紛争の調停役を担い、これをきっかけとして双方に対する影響力を強めようとしました。他方、戦略物資獲得のための日本と蘭領東インドとの交渉は、イギリス・アメリカと協力関係にあったオランダの抵抗によって遅々として進まず、これによって南部仏領インドシナの戦略上の重要性は増大していきます。

  昭和16年(1941年)6月25日、大本営政府連絡会議では、ゴムやスズを手に入れるためには南部仏領インドシナを確保しなければならないとする統帥部の意見に沿って政策方針を決定し、同年7月28日に日本軍は同地に対する進駐を開始しました。

  この日本の動きに対し、アメリカは7月25日、イギリスは26日、オランダは27日にそれぞれ対日資産凍結令を公布しました。
ヨーロッパ

  ドイツは、イタリアと同盟を結び、ソ連とは不可侵条約を結び、昭和14年(1939年)9月1日、ポーランドに侵入しました。イギリス・フランスはドイツに宣戦し、ヨーロッパにおける戦争が始まりました。

  ドイツはヨーロッパ各地に進撃し、昭和15年(1940年)6月にはパリを占領し、フランスとの間に休戦条約を結びました。この条約を受けて、フランスでは、ドイツ寄りのヴィシー政権が成立しました。イタリアもドイツ側に立って参戦しました。

  他方、日本は昭和8年(1933年)の国際連盟脱退以降、国際社会で孤立していました。そこでドイツ・イタリアに接近し、昭和15年(1940年)9月に日独伊三国同盟を締結しました。翌年4月には、ソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を図りました。

  昭和16年(1941年)6月、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、アメリカはソ連を援助しました。こうして、日本・ドイツ・イタリアをはじめとする枢軸国と、イギリス・アメリカ・ソ連など連合国との対立が深まっていきました。
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