公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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用語解説
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人物(外国)
 ●アメリカ
ウェルズ(Summer Welles)  
1892年〜1961年
  アメリカの外交官。日米交渉当時のアメリカ国務次官。1937年、国務次官に就任しました(1943年まで在任)。『ハル回顧録』(邦訳初出1949年)では、ウェルズはルーズヴェルト大統領と古くから家族ぐるみの付き合いがあり、両者はしばしば直接会って、ハル国務長官の知らないところで国策決定の交渉をしていたとされています。1941年には、国務長官代理として、日本軍の仏領インドシナ進駐問題やツツイラ号事件について、野村特命全権大使と交渉を行ないました。『ハル回顧録』によれば、同年8月17日アメリカ大統領から野村大使に手交された文書の起草にかかわっていたとされます。
グルー(Joseph Grew)
1880年〜1965年
  アメリカの外交官。日米交渉当時のアメリカ駐日大使。1932年、特命全権大使として日本に着任しました(1941年まで在任)。アメリカの代表的知日家の一人として知られています。1939年7月、日米通商航海条約の廃棄通告後も、日米関係の悪化を食い止めるため、国務省に対して暫定協定の締結を具申しました。
ハル(Cordell Hull)
1871年〜1955年
  アメリカの政治家。日米交渉当時のアメリカ国務長官。1933年、ルーズヴェルトが大統領に就任すると、その下で国務長官を務めました(44年まで在任)。1941年、外交政策の責任者として、日本政府の野村駐アメリカ大使と外交交渉を行ないました。同年11月26日、日本側の対アメリカ妥協案(甲案・乙案)の拒否を示す「ハル・ノート」を野村大使と来栖特命全権大使に通告しました。
フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)
1882年〜1945年
  アメリカの政治家。日米交渉当時のアメリカ大統領。1932年の大統領選に勝利し、翌年3月、大統領に就任しました(1945年まで在任)。対東アジア政策では、1939年、日中戦争の拡大に伴い、日本に対して日米通商航海条約の破棄通告を行なう一方で、重慶国民政府への援助を強化しました。1940年には、日本軍の北部仏領インドシナ進駐、日独伊三国同盟の成立を見て、対日経済制裁措置を強化しました。また、1941年に入り、日米交渉が進められる中、日本軍の南部仏領インドシナ進駐に際して、7月に在アメリカ日本資産の凍結を行ないました。その後、12月8日の日本軍の真珠湾攻撃によって、日米は戦闘状態に入りました。
 ●中国(重慶国民政府)
蒋介石(Jiang Jieshi)
1887年〜1975年
  中国の政治家・軍人。日米交渉当時の重慶国民政府の行政院長。1907年、陸軍速成学校に学んだ後、日本に留学しました。この留学中に中国国民党の前身である中国同盟会に加わりました。1925年の孫文の死後、北方政府に対する攻撃を指揮しました。この攻撃によって、上海・南京を占領すると、南京を首都と定めました。その後、国民党内の勢力争いの中で、軍事力を背景に孫文の後継者としての地位を確立し、1928年10月、南京国民政府主席に就任しました。蒋介石は、国民党による中央集権体制の確立を目指し、共産党と対立することになりますが、日本に対抗するために1937年には共産党との協力体制を樹立しました。1938年8月には戦争の激化に伴い、中央各行政機関を重慶に移転しました。
胡適(Hu Shi)
1891年〜1962年
  中国の知識人・外交官。日米交渉当時の重慶国民政府の駐アメリカ大使。1910年にアメリカに留学し、初めはコーネル大学で農学、ついでコロンビア大学で哲学を学びました。1917年に帰国し、26歳の若さで北京大学教授に迎えられ、活発な言論活動を行います。1938年にその経歴が評価され、駐アメリカ大使となり、重慶国民政府の対アメリカ外交の一翼を担いました。
 ●中国(汪兆銘政権)
汪兆銘(Wang Zhaoming)
1885年〜1944年
  中国の政治家。日米交渉当時の汪兆銘政権の主席。日本の法政大学に留学中、孫文らの中国革命同盟会に加入し、革命運動に参加しました。1924年、国民党中央執行委員に就任し、翌年の孫文の死後は国民党の指導者として宣伝部長を務めました。1937年の日中戦争勃発後は対日妥協を唱え対日抗戦派と衝突を続けました。1939年に当時の国民政府の所在地である重慶を脱出して来日し、日本政府の協力で政権樹立工作を進め、翌年3月には南京に「国民政府」を樹立して主席に就任しました。
 ●ドイツ
ヒトラー(Adolf Hitler)
1889年〜1945年
  ドイツの政治家。日米交渉当時のドイツ総統。1919年9月、ドイツ労働者党(後のナチス党)に入党しました。1923年11月にミュンヘンで蜂起し、ベルリンの民主共和政府を倒そうとしましたが、失敗しました。1924年の出獄後、合法路線によって党を再建し、1934年8月にドイツ総統になりました。一党独裁体制を強めつつ、軍事力の強化に努め、オーストリアやチェコスロバキアへの侵攻を行ないました。そして、1939年9月のポーランドへの侵攻によって、第二次世界大戦が勃発しました。
リッべントロップ(Joachim von Ribbentrop)
1893年〜1946年
  ドイツの政治家・外交官。日米交渉当時のドイツ外務大臣。1932年にナチス党に入党しました。翌年、ヒトラー内閣が成立すると、ヒトラーの外交顧問に登用され、外交活動を展開しました。1936年には日独防共協定を成立させています。1938年には外務大臣に就任、1939年の独ソ中立条約、1940年の日独伊三国同盟の締結をはじめ、ドイツ外交の推進役となりました。
 ●イタリア
チアノ(Galeazzo Ciano)
1903年〜1944年
  イタリアの政治家・外交官。日米交渉当時のイタリア外務大臣。ムッソリーニの娘婿・側近としてイタリア政府の政策遂行に貢献しました。1936年には、外務大臣に就任しました(1943年まで在任)。1940年の日独伊三国同盟締結において、イタリア政府の代表者として調印しました。
ムッソリーニ(Benito Mussolini)
1883年〜1945年
  イタリアの政治家。日米交渉当時のイタリア内閣総理大臣。1919年、政治団体「イタリア戦闘ファッショ」(後のファシスト党)を結成し、社会主義諸勢力を攻撃して、勢力を拡大しました。1922年10月、数万のファシスト武装隊によるローマ進軍を背景に、イタリア国王より組閣の命を受けました。彼の政権は、1925年から26年にかけて国内における独裁体制を確立しました。1930年代には、ヒトラーの政策に歩調を合わせるようになり、1935年にはエチオピアに侵攻、1936年にはスペイン戦争に介入しました。1939年のドイツによるポーランド侵攻においては、当初中立を表明しますが、1940年の日独伊三国同盟締結によって、第二次世界大戦に参入していくことになりました。
 ●イギリス
チャーチル(Winston Churchill)
1874年〜1965年
  イギリスの政治家。日米交渉当時のイギリス内閣総理大臣。1899年の補選における落選を経て、1900年に保守党議員として下院に当選し、議員としてのキャリアをスタートさせました。1904年、自由党に転じ、第一次世界大戦中には重要閣僚を歴任しました。1939年9月、イギリスがドイツに対し宣戦を布告した日に海軍大臣に就任しました。1940年5月には内閣総理大臣に就任し、1941年8月にはルーズヴェルト米大統領とともに大西洋憲章を発表しました。
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