2019年12月19日 発行
浅草の名所といえば、何を思い浮かべるでしょうか? 浅草寺や花やしき、浅草六区の流れを汲む演芸ホール、今半のすき焼きや駒形のどぜう、今は見ることはできませんが国際劇場(現在の浅草ビューホテル)や凌雲閣なども浅草名所といえるでしょう。演芸や料理、様々な大衆娯楽と結びついてイメージされる浅草の名所ですが、もしかしたらここにもう一つ名所が加わっていたかもしれません。今回紹介するのは、このような名所になり得たかもしれない一大スポーツ娯楽施設「浅草オリンピア」の事業計画です。
浅草オリンピアの事業計画は、外務省外交史料館所蔵の「各国ニ於ケル民衆娯楽施設調査関係雑纂」(Ref.B04012500800)(以下「雑纂」)という資料に見ることができます。「雑纂」は、浅草オリンピアの建設・運営にあたり、(1)浅草オリンピアの建設主である東京体育興業株式会社が外務省に提出した「東京体育興業株式会社創立趣意書・起業目論見書」(以下「創立趣意書」)と、(2) フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの大公使館が外務大臣幣原喜重郎の依頼で調査した各国の娯楽施設に関する調査の回答、(3)回答を受けた通商局が東京体育興業株式会社に送付した書類、から構成されています。今回は「雑纂」のうち、とくに「創立趣意書」に注目して、昭和初年の浅草で計画された浅草オリンピアがどのような娯楽事業を構想したのかについて見ていきたいと思います。
(1) 昭和初期の浅草
1884年の公園地改正で、浅草公園は浅草寺境内を一区として六区まで区画整備されます。この際に歓楽街として整備されたのが浅草六区です。浅草六区は、1887年の常盤座の進出を契機として、明治30年代から40年代にかけて演劇場、活動写真館、オペラ館などが立ち並ぶ興行街として発達します。1890年には六区の北側に凌雲閣が建てられますが、これらの施設は1923年9月の関東大震災で壊滅的な被害を受けます。震災後には剣劇ブームの後、1929年頃からカジノ・フォーリーが隆盛します。1928年には松竹が浅草松竹座を開設、少女歌劇団「松竹楽劇団」のレビューが好評を博したほか、映画館では海外映画が上映され、人気となります。こうして昭和初期の浅草は、関東大震災からの復興の過程で、演劇・喜劇・海外映画を中心に、歓楽街として再び発展していきます(【注1】)。
浅草オリンピアは、このような浅草の転換期に構想されました。浅草オリンピアの建設予定地の新谷町18番地には、震災まで幸竜寺(新谷町16番地)の墓地がありました。震災以前から、新谷町付近一帯は多くの寺が立ち並ぶ地域であり(【注2】)、幸竜寺前の墓地では子供たちがチャンバラ遊びをしていたという証言があるように、この付近は地元の人々の日常生活の場所でした(【注3】)。幸竜寺は震災の被害を受けて1927年に烏山に移転し、一帯は更地となります(【注4】)。幸竜寺が建っていた場所は大通りに面し、大通りを渡れば浅草六区や浅草公園に接続できる好立地でした【画像①】。歓楽街が復興しつつあるなかで、震災で更地となった好立地の区画をどのように活用するか、というなかで出てきたのが、浅草オリンピア構想だったのです。
1930年7月10日の読売新聞は「浅草にスポーツの殿堂 運動なら何でも御座れの『浅草オリムピア』建設計画」という見出しで、浅草公園に大プール、柔剣道場、各種運動場を網羅した「一大スポーツ殿堂」として浅草オリンピアが計画され、9月中に工事に着手、来年末までに竣成と報じています。「スポーツの殿堂」と言われた浅草オリンピアとは、具体的にどのような施設だったのでしょうか? 「創立趣意書」を見てみましょう。
(1)東京体育興業株式会社とスポーツ娯楽事業
浅草オリンピアを構想した東京体育興業株式会社はどのような組織だったのでしょうか? 残念ながらこれを知る手がかりは管見の限りほとんどありません。先の読売新聞の記事では、浅草オリンピアの発起人に、前東京市長市来乙彦、根津嘉一郎、青木信光、大河内正敏、小倉常吉などが名を連ねており、政治家、実業家を中心とした組織であることがうかがえます。
東京体育興業株式会社は、なぜスポーツを中心とした娯楽事業を構想したのでしょうか? その目的を一言でいえば、スポーツを通じた健全な身心の涵養でした。同社は、学生・青年の運動競技の旺盛で、国民全体が「スポーツ熱の隆昌」を見るに至ったものの、生活の繁忙と施設の不足のため、スポーツを十分に楽しめていないことを指摘します。そして、このような状況に対して「男女の別なく、晴雨に拘はらず、郊外に出づる時間と旅費とを省き、暖房、冷却装置は勿論特に換気衛生の設備の完備せる殿堂」を建設し、訪れた人々が「心ゆく計りに運動し、大浴槽に汗を流す人々に安い美味しいものを」提供する「スポーツと、娯楽と、食堂とのデパートメント」事業が、国民のスポーツ熱に答える娯楽事業として成立すると考えました。東京体育興業株式会社は、こうした事業の一環として、劇場や活動写真、浅草寺見物などで多数の人々が訪れる浅草に浅草オリンピアを建設し、「新しい変った」娯楽事業としてスポーツ娯楽事業を成功させようとしたのです。
(2)欧米・日本の大衆娯楽施設
東京体育興業株式会社は、浅草オリンピア設立にあたり、西日本で展開されていた温泉を中心とする娯楽施設を参照します。その一つが大阪の築港大潮湯です。築港大潮湯は1914年に大阪市の築港で開業した施設です。真水・海水・温水の3種類の浴槽と、モーターでくみ上げた海水を滝として流す水泳プールのほか、レストラン、映画や演芸を見ることができる演芸場、一度に1,000人を収容できる380畳の大広間などを備えた築港大潮湯は、温泉・プールを中心に映画や演芸、食事などを一緒に楽しむことができる市内有数の娯楽施設でした(【注6】)。西日本で見られた温泉中心型の複合娯楽施設の成功が、浅草オリンピア建設計画を後押ししたと考えられます。
東京体育興業株式会社がもう一つ参照したのが欧米の娯楽施設でした。在ニューヨーク商務書記官首藤安人が外務大臣幣原喜重郎に宛てた「民衆娯楽施設調査方ノ件」では、ニューヨークの様々な娯楽施設を紹介します。例えばマディソン・スクエア・ガーデンについて、「市ノ中央ニ建築セラレ、場内中央ノ大演技場ノ外ニ展覧室ヲ設ケ、諸種ノ展覧会等ノ催シニ賃貸ス、収容能力三万五千人ト称セラレ、サーカス、拳闘、スケーチング、其他ノ競技ニ使用セラル」と、運動競技場を核としながら、展示スペースの賃貸など多角的な娯楽事業を展開していることを紹介します【画像③】。同社が各大公使館の調査をどれほど参照できたのかについては残念ながらわかりませんが、同社が各国の娯楽施設を意識しながら娯楽事業を展開しようとしていたことは、同時代の国内娯楽事業の国際的な位置づけを考えるうえで重要な手がかりとなるのではないでしょうか。
1930年9月には着工予定とされていた浅草オリンピアですが、その後同地に建つことはありませんでした。1935年5月、浅草オリンピアの建設予定地となっていた新谷町の幸竜寺跡地に、東宝が大劇場の建設を企てていることが報じられます(【注7】)。その後、東宝進出に対抗した松竹によって、最終的に同地には国際劇場の建設が決定します(【注8】)。1937年6月に完成し、7月3日に開場した国際劇場は、延面積4,338坪、収容人数5,000人を誇る大劇場として松竹の一大拠点となります(【注9】)。こうして「スポーツの殿堂」とされた空間は、「東洋一」の劇場となり、浅草の大衆演劇の象徴となっていきます。
本稿執筆にあたり、浅草オリンピア、国際劇場関係の新聞記事についてご教示いただいた東京都立中央図書館、新谷町周辺の地図資料などについてご教示いただいた台東区立中央図書館郷土資料室に厚くお礼申し上げます。
【注1】石角春之助『浅草経済学』文人社、1933年(一柳廣孝編『コレクション・モダン都市文化』11浅草の見世物・宗教性・エロス、ゆまに書房、2005年)。東京都台東区編『台東区史』社会文化編、1966年。[↑]
【注2】(東京市逓信局編『番地界入東京市拾五区分図 浅草区図』、1911年発行。1917年第2版発行)。2019年10月11日閲覧。[↑]
【注3】台東区芸術・歴史協会 台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる 下谷・浅草の明治、大正、昭和8』、1993年、87頁。[↑]
【注4】台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる 下谷・浅草の明治、大正、昭和Ⅲ』、1987年、57頁。[↑]
【注5】『照明日本』照明学会、1936年(西村将洋編『コレクション・モダン都市文化』21モダン都市の電飾、ゆまに書房、2006年)。『輝く日本 輝くネオン』整電社製作所、1937年(西村将洋編『コレクション・モダン都市文化』21モダン都市の電飾、ゆまに書房、2006年)。[↑]
【注6】(大阪市港区ホームページ「港区の歴史」、「歴史年表」より「1914(大正3)年 築港大潮湯開場」)。2019年10月11日閲覧。[↑]
【注7】『東京朝日新聞』1935年5月8日朝刊13面「興行王小林の巨弾 浅草に大映画殿堂」。[↑]
【注8】『読売新聞』1935年9月20日朝刊7面「この軍配“松竹”へ 有楽町の仇を浅草で 東洋一の“国際劇場” “東洋”の狙った敷地に建設」[↑]
【注9】「国際劇場新築画報」(『建築設備』4巻10号、建築設備研究会、1937年)。[↑]