発動機の写真 ※
「ツェッペリン伯号」が着陸したのは海軍航空船隊の飛行場でした。そして、これを迎える準備や着陸前後の行動については、基本的に海軍省が取り仕切っていました。しかし、外国から飛行船がやってきて、日本の上空、しかも首都東京の空を飛び国内に降り立つということは、日本としても大変なことでした。
したがって、事前に、海軍省に加えて、ドイツ本国から飛行許可の申請を受けた外務省、民間航空機の運行を管轄する逓信省、「防空」という軍事的な観点から空を管理する陸軍省、という4つの官庁の間で、規則や、着陸場所、航路、日程などについて綿密なやり取りが行われました。(レファレンスコード:C01006302800 独逸「ツエツペリン」航空船世界1週飛行に関する件)
また、「ツェッペリン伯号」に対する技術的な関心も高かったと思われ、海軍技術研究所は詳しい調査を行っています。その報告書には、 (3)(4)(5)(6) のような見取り図や、 (7)(8) のような発動機の写真が含まれています。
さて、「ツェッペリン伯号」が着陸地点に近づいてくると、海軍大臣の許可のもとで、日本放送協会によるラジオの中継放送が始まりました。 (9) は、中継放送の許可を申請した文書です。これによれば、中継は、着陸前から、「ツェッペリン伯号」より飛行場に送られてくる通信の内容をニュースとして放送することから始まっています。そして、着陸の様子と、歓迎セレモニーでの乗組員や日本側の人々の挨拶が中継されたようです。このような現場からの中継の臨場感は、多くの人々を引き付けたことでしょう。また、そもそも、このような綿密な中継が実施されたこと自体が、「ツェッペリン伯号」来日という出来事に対する注目の度合いを表しているとも言えるのではないでしょうか。
大空を旅することへの憧れは、誰もが抱くものですが、「ツェッペリン伯号」は、そんな人々のロマンにこたえ、熱狂を巻き起こしたのです。
次に、もうひとつのロマンについて見てみましょう。 (10) は、南極探検で有名な白瀬矗(しらせ のぶ)中尉です。南極観測船「しらせ」も彼の名前からとっています。白瀬中尉が「開南丸」で芝浦を出港したのは明治43年(1910年)11月28日、南極上陸が明治45年(1912年)1月16日、彼自身が「大和雪原」(やまとせつげん、やまとゆきはら)と名付けた地点に到達したのは同月28日でした (11)。この1年以上におよぶ南極探検について、アジ歴の資料から何がわかるのでしょうか。
(12) は、南極探検の許可を陸軍大臣に願い出た文書です。行き先となる「一、国名」は、「英領新西蘭ヲ経由シ南極洲」、つまりイギリス領ニュージーランドを経由して南極に行くとしています。また、「二、旅行ノ目的」は、「学術的探検」、「三、旅行ノ期間」は「明治四十三年十一月ヨリ明治四十五年七月ニ至ル一年九ヶ月間」となっています。この文書の日付は11月2日ですから、出発の3週間ほど前ということになります。
さて、実は、この白瀬中尉の南極探検は決して順調に始まったわけではありませんでした。(13) は、明治43年(1910年)4月13日に、南極探検のための船を貸して貰えるよう白瀬自ら海軍大臣に願い出た文書です。この文中では、政府から補助金を貰えることになりそうだが、それは衣類や食糧などの実費分で終わってしまい、船を買うお金もない。そこで、海軍省から船を貸してもらえないか、と述べられています。
しかし、白瀬のこの希望がかなわなかったことが、第27回帝国議会の際の衆議院の議事記録からわかります。明治44年(1911年)3月18日の議事では、「南極探検事業国庫補助ニ関スル建議案」と題され、白瀬の南極探検に国として資金援助をするかどうか、という議論が行われています。ところが、この中で言われていることは次のようなものです。
白瀬は海軍省から船を借りることができず、希望したものよりも小さな船で出発したが、それでは南極にたどり着けないのではないかとの懸念があった、と。要は、決して十分な準備が整っていない、特に資金不足については深刻な状況で出発したというのです。そこで、この議会で資金援助が提案されているわけですが、その意図は、白瀬の南極探検を応援しよう、というのとは少々異なりました。それは、日本人が寒い土地でもすぐれた働きをすることを証明したい、ということであったり、国が援助を怠ったために日本の船が沈没してイギリスに助けられでもしたら面目が立たない、ということであったりと、結局のところ、外国に向けた日本という国家のアピールが目的だったのです。最後には、イギリスやドイツも南極探検に多額の資金を出しているのだから、これを日本でも国家的事業と考えて援助をするのは当然、という主張がなされています。(レファレンスコード:A07050011900 第27回帝国議会・衆議院議事録・明治43.12.23~明治44.3.22 304画像目)
ここで忘れてはならないのは、この議論が行われているのが、既に白瀬が南極に向けて出発した後だったということです。しかも、最後まで彼の南極探検隊は政府の援助を得ることはなく、義捐(援)金に頼るのみであったと言われています。 (14) は、明治43年(1910年)12月2日付、つまり白瀬が日本を出発した直後の文書で、「極地探検万国会議」についてのやりとりですが、この最後には、個人で南極探検を計画している者がいるが政府は一切これに関係していない、という一文が添えられています。これは恐らく白瀬のことでしょう。このような状況で南極探検に挑んだのですから、白瀬中尉の苦労が相当なものであったことは想像に難くありません。
未知の世界の探検というロマンの裏には、このような現実があったのです。