リンドバーグ来日 ~その足どりを追って~
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リンドバーグ夫妻の北太平洋横断飛行
チャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)(1902年~1974年)はアメリカの飛行家です (1)。1927年に「スピリットオブセントルイス号 Spirit of St. Louis」と名付けたプロペラ機に乗り、ニューヨーク―パリ間の単独無着陸飛行に初めて成功したことで、今日もなお世界的に知られています。
昭和6年(1931年)、リンドバーグは妻アン(Anne)とともに水上飛行機シリウス号に乗って北太平洋横断飛行の途上で日本に立ち寄りました。ニューヨークを出発した後、アラスカ、アリューシャン群島、千島列島を経て、8月24日に根室に (2)、同26日に霞ヶ浦に到着しました (3)。国内ではほかに大阪、福岡に立ち寄り、9月19日、中華民国へと旅立っていきました。夫妻は日本各地で盛大に歓迎されましたが、ちょうどその滞日中の9月18日に満州事変が起こるなど、その後の日米両国政府の関係は険悪化の一途をたどってゆくこととなります。
リンドバーグ夫妻の来日記録
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まずは、リンドバーグ夫妻の日本滞在をめぐる記録を、アジ歴でたどってみましょう。
夫妻の来日に先立つ昭和6年(1931年)6月11日、日本では、逓信省において海軍省や陸軍省の関係者との会合がもたれ、飛行経路、着陸地点、歓迎行事などに関する申し合わせがなされました (4)。これと同じ日、海軍省でも駐米大使館付の下村武官が堀軍務局長に、「リンドバーグ大佐夫妻の取扱に関する件」と題して、米国内で人気があり最高の社会的地位(ホワイトハウスサークル)にある夫妻に対して、最大限の便宜を供与するよう願い出ています (5)、(6)、(7)。
リンドバーグ夫妻来日の際には、横断飛行を報道するために彼らの動きを追っていた多くの外国人記者も同時に日本にやってきました。彼らは夫妻の行程にあわせて中華民国にも足を伸ばし、勃発したばかりの満州事変に関する情報収集を活発に行いました。ニューヨークタイムス紙のアーベント記者もその一人です。南京の上村領事から幣原外務大臣に宛てられた電報には、アーベントに関して「日本軍行動ニハ充分釈然タラサルモノアル様見受ケラレタリ」との報告が見られます (8)。
その後のリンドバーグ
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太平洋横断飛行を終えたのち、リンドバーグはどのような人生を送ったのでしょうか。彼は当時、日米友好の架け橋としても期待されていましたが、この点についてはどうだったのでしょうか。アジ歴ではアメリカ帰国後のリンドバーグの活動の一端をうかがうことのできる資料をいくつか見ることができます。 (9)、(10) は、その中のひとつです。
来日からちょうど10年が過ぎた1941年5月、日本外交協会の『ルーズヴェルト政策の動向とわが対策』には「リンドバーグの口吻」という項目が見られます。この資料には親独派のリンドバーグが「ドイツは決して米国を侵略しない、そんな心配をして居るのは間違ひだ。それが為に戦備を整へるのも間違ひだ」と述べた後、「この際英独は米国の斡旋に頼って速かに妥協し、兄弟墻に鬩ぐ愚をやめて、その代りに相携へて有色人種等の顔の白くない人達の世界をもっと幸福にしてやる方が白人の使命ではないか」という趣旨の発言をしたとされています。
これに対して協会は、リンドバーグが「ドイツに行っていろいろ吹き込まれて来てああ言って居るところを見ると、リンドバーグのこの思想が果して米国に於て発生したものか、それとも彼のドイツ滞在中にインスパイヤされて彼の胸中に宿ったものか…」と推測します。さらに、「最悪の場合、即ち白人が提携して有色人種の世界を頼みもせぬのに幸福にしてやらうと乗出して来さうになった場合、その最悪の事態に處してやはり最も睨みの利く発言権を日本に持たせるものは、海軍力を措いて他に無いと申しませんが、海軍力を以て最大とする、とういふ気持でございます」とコメントを締め括っています。