(レファレンスコード:A07061666300 1画像目)">
明治期も、今と同じように、外国との関係をめぐるさまざまな事柄を管理しているのは外務省でした。日本から海外に渡る人についても、外務省は記録を残しています。 (1) は、明治8年度(明治8年7月~明治9年6月)の外務省の報告書に書かれている表で、「海外行ノ免許ヲ得タル我官民ノ総数」と題されています。この表では、「國名(国名)」(渡航先)ごとに海外旅行の免状の「現数」(発行済みの有効な免状の総数)が示されています。この免状というのは、海外への渡航を国が許可したことを示す免許証、つまり現在で言うところの旅券(パスポート)のことで、要は、当時はこれがなければ海外に渡航することができなかったということです。表によれば、明治8年(1875年)6月時点でのイギリス行きの免状の「現数」は131、アメリカ行きの免状は304となっています。
しかし、ここで注目したいのは、表の左下の「清」です。免状の「現数」はなんと473となっています。この時期の日本人の渡航先としてもっとも多かったのが、清、つまり中国だったのです。
また、その左隣の朝鮮については、明治8年(1875年)6月時点での「現数」は記入されていませんが、これは、この時点では日本と朝鮮との間に正式な国交が結ばれていなかったからです。明治8年度には「付与」(明治8年7月~明治9年6月の期間に公布された免状の数)が13と記されていますが、これは、明治9年(1876年)2月26日に「日朝修好条規」が締結された後に発行されたものと考えられます。
(2) は、同じく外務省の報告書の明治19年度版です。これを見ると、明治8年度には13であった朝鮮行きの免状の「付与」の数が、この年度には5,036にも上っています。これは、明治19年度に発行された海外渡航免状全体の数の実に37%に当たる数です。
開国、そして最初期の海外渡航、と聞くと、私たちはついアメリカやヨーロッパの国々のことを想像しがちです。しかし、このような資料を見てみると、当時の日本は、アジアの国々に対してこそ開かれていたとも言えるのではないでしょうか。
さて、ここまで見てきた免状ですが、これが今と同じく「旅券」という名称に変わったのはいつなのでしょうか。 (3) は、明治期のさまざまな布令(命令・法令)をまとめた文書(布令便覧)の一部ですが、これによれば、「海外行免状」と呼ばれていたものが、明治11年(1878年)2月20日に「海外旅券」に改称されたことがわかります。また、この時にはこれとあわせて「海外旅券規則」が定められ、旅券申請の手数料は金50銭とすること、帰国後30日以内に旅券を返納することなどが取り決められました。(レファレンスコード:A07090065200 単行書・布令便覧 外交二 15画像目~20画像目)
日本で最初の鉄道は、明治5年9月12日(1872年10月14日)、新橋駅(後の汐留駅、現在は廃止)と横浜駅(今の桜木町駅)との間で開通しました (4)。
(5) は、この12年後、明治17年(1884年)11月1日付改正の際の、新橋-横浜間の時刻表と運賃表です。これによれば、当時のこの区間は、新橋、品川、大森、川崎、鶴見、神奈川、横浜の7駅で、上り列車・下り列車ともに1日に13本が運行されていたことがわかります。また、時刻表から計算すると、新橋から横浜までの所要時間は、すべての駅に停車するもので55分、途中で品川と神奈川のみに停車する急行(明治15年に運行開始)で45分だったようです。ちなみに、現在のこの区間の所要時間は、東海道本線で20分弱、京浜東北線で35分ほどですから、当時の汽車でもなかなか早かったのですね。
運賃を見てみると、新橋-横浜間では、片道だと、上等車1円、中等車60銭、下等車30銭。これが往復になると、上等車1円50銭、中等車90銭となっており、25パーセントの割引になっています。この当時、お米10キログラムが80銭、卵100匁(375グラム)が10銭でしたから、鉄道というのはとても高価な移動手段だったことがわかります。限られた人々にしかできない贅沢であったと言えるかもしれません。
(6) は、同じく明治17年の神戸-大津間の時刻表と運賃表です(1月16日改正)。この区間は、1日に、上りが9本、下りは8本が走っており、その所要時間は上り3時間44分、下り3時間50分となっています。運賃は、神戸から大津までの上等車が片道で2円85銭ですが、逆に大津から神戸までは2円35銭となっており、上りと下りで料金が異なっていたことがわかります。