|
|
|
●日米交渉当時の日本陸軍の部隊編成 |
|
|
日本陸軍は「部隊」と呼ばれる大小様々な集団の集合体でした(各部隊は「○個」と数えました)。この部隊の中でもっとも基本的な単位であったのが、「師団」「旅団」です。各師団はそれぞれ約1万5千人〜2万人、各旅団はそれぞれ数千人の人員によって構成されていました。これらの師団・旅団は常設的なものでしたが、実際の作戦行動の際には複数の師団・旅団が「軍」を構成しました(「第14軍」「第25軍」など)。さらにいくつかの軍がまとまって「方面軍」や「総軍」という大きな部隊を構成しました(「北支那方面軍」「南方軍」など)。
師団は、いくつかの種類の部隊に分かれていました。基本的には、3個歩兵連隊あるいは4個歩兵連隊、1個砲兵連隊、1個騎兵連隊(あるいは捜索連隊)、1個工兵連隊、1個輜重兵連隊などが1個師団を構成しました。それぞれの連隊は3個から4個の大隊に分かれ、さらに大隊には、中隊、小隊、分隊という、より小さな単位の部隊が含まれていました。
本来は国内の諸地域に配置されていた各師団が戦地に派遣されると、それぞれの師団のあとには「留守師団」と呼ばれる部隊が置かれました。留守師団は、新しい師団の編成、派遣されている部隊への兵員の補充、新兵の徴集や教育、担当する管区における防衛や警備などの業務を担当しました。
〈 師団の基本的な構成 〉
|
|
|
|
|
|
日米交渉当時の日本陸軍各部隊は、大本営の指揮のもとで、日本国内だけでなく、満州(現在の中国の東北部)、中国の北部や中央部、仏領インドシナなどにも配置されていました。日本列島には東部軍(関東地方、甲信越地方などを管轄)、中部軍(中部地方、近畿地方を管轄)、西部軍(中国地方、四国、九州を管轄)、北部軍(東北地方、北海道などを管轄)が置かれ、朝鮮半島には朝鮮軍、台湾には台湾軍、満州には満州軍が駐屯しました。日中戦争(支那事変)が拡大すると、日本は昭和14年(1939年)9月に支那派遣軍を編成し、蒋介石率いる重慶国民政府との戦争を継続しました。さらに、日米開戦が迫った昭和16年(1941年)11月になると、仏領インドシナにおいて南方軍を編成し、蘭領東インドなどの東南アジアへの進攻を準備しました。
〈 日本陸軍の主要な部隊の編成:昭和16年(1941年)12月現在 〉
|
|
|
|
また、当時の主要な部隊の人事についてはこちらの表をご覧下さい。
|
|
当時の日本陸軍の部隊の編成に関連して、以下のような資料があります。
資料1:C04121449900 支那派遣軍司令部開設の件(1画像〜2画像) |
|
|
|
資料2:C04123783600 編成待命間の指揮隷属に関する件(1画像〜2画像) |
|
|
|
資料3:C01003474100 出動部隊の将校職員表並人馬一覧表提出の件(1画像〜22画像) |
|
|
|
資料1は、支那派遣軍の総司令部から陸軍省や参謀本部などに宛てて、昭和14年(1939年)10月1日に総司令部が中国の南京に開設されたことを通達したものです。
資料2は、楯部隊(第55師団)の参謀長だった加藤源之助という人物から川原直一陸軍省副官に宛てたものです。この資料には、「編成部隊及留守部隊ノ編成待命間指揮隷属関係表」として、師団長や軍司令官の指揮系統をわかりやすく示した図が掲示されています。
資料3は、植田謙吉関東軍司令官が、「ノモンハン事件」のさいに出動した部隊の人員表を、陸軍省宛に提出したものです。ノモンハン事件とは、昭和14年(1939年)に起きた、主にモンゴルのハルハ河流域における日本・満州国軍とソ連・モンゴル人民共和国軍との戦いのことです。この資料には、ノモンハン事件に出動した第23師団山縣支隊や第2飛行集団などの部隊の職員名簿が含まれています。
|
|
|前のページに戻る| |