|
|
フランクリン・ルーズヴェルト | コーデル・ハル | グルー |
|
(毎日新聞社提供)
|
|
フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)
1882年1月30日〜1945年4月12日
アメリカの政治家。日米交渉当時のアメリカ合衆国大統領。ハーヴァード大学を卒業後、1910年にニューヨーク州上院議員になりました。1912年の大統領選で民主党のウィルソンを支持して活躍し、ウィルソンの当選を迎えて、海軍次官の地位につきました(1920年まで在任)。第一次世界大戦中もこの地位で活動しました。海軍次官を辞任した翌年の夏、小児麻痺に襲われ、以後闘病生活が続きました。しかし、1929年には、ニューヨーク州知事に就任(1933年まで在任)、1932年には大統領選に勝利し、翌年3月、アメリカ合衆国第32代大統領となりました(1945年まで在任)。就任後は、3つのR(復興Recovery、救済Relief、改革Reform)を機軸とする「ニューディール」政策を打ち出して、世界恐慌後の経済復興政策を展開しました。対東アジア政策では、1939年、日中戦争の拡大に伴い日本に対して日米通商航海条約の破棄通告を行なう一方で、重慶国民政府への援助を強化しました。1940年には、日本軍の北部仏領インドシナ進駐、日独伊三国同盟の成立を見て、対日経済制裁措置を強化しました。また、1941年に入り、日米交渉が進められる中、7月の日本軍の南部仏領インドシナ進駐をに際し、在アメリカ日本資産の凍結を行ないました。その後、12月8日の日本軍の真珠湾攻撃によって、日米は戦闘状態に入りました。 |
|
|
|
|
(毎日新聞社提供)
|
|
コーデル・ハル(Cordell Hull)
1871年10月2日〜1955年7月23日
アメリカの政治家。日米交渉当時のアメリカ合衆国国務長官。カンバーランド大学卒業後、法曹界や州議会議員として活動を経て、下院議員(テネシー州選出、民主党所属)になりました。1931年に、上院議員に当選、1933年3月4日、フランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると、その下で国務長官(外交を担当)を務めました(44年11月30日まで在任)。任期の初期には、彼が経済問題(特に税法)に精通していたことから、ロンドン世界経済会議に出席し、約4年間に18ヶ国との間に互恵通商協定を結びました。この協定の主旨は、締約国間で低関税率を採用して、両国の通商をできるだけ拡大しようというものでした。また、大統領と協力してラテン・アメリカ諸国に対する善隣外交を進め、1933年秋にはソ連を承認し、米ソ国交の礎を築きました。1941年、外交政策の責任者として、日本政府の野村駐アメリカ大使との外交交渉にあたりました。同年11月26日、日本側の対アメリカ妥協案(甲案・乙案)に対する拒否を示す「ハル・ノート」を野村大使と来栖特命全権大使に通告しました。1944年11月30日、病気のために国務長官を辞任するに至りましたが、国際連合創立を決めたサンフランシスコ会議においてアメリカ代表に任命されるなど、アメリカ国内でその功を称えられました。翌1945年には、ノーベル平和賞を受賞しています。 |
|
|
|
|
(毎日新聞社提供)
|
|
ジョセフ・グルー(Joseph Grew)
1880年5月27日〜1965年5月25日
アメリカの外交官。日米交渉当時のアメリカ駐日大使。ボストンの名家に生まれました。ボストンの名門グロトン校を経て、1902年にハーヴァード大学を卒業しています。外交官としては、1904年にカイロ総領事館書記生に任命されたのを皮切りにして、メキシコシティ、サンクト・ペテルブルク、ベルリン、ウィーンなどに駐在しました。第一次世界大戦勃発時には、駐ドイツ大使館の参事官・臨時代理大使を務めていましたが、アメリカ参戦後には国防省西欧部代理部長、パリ講和会議ではアメリカ全権団の書記官として勤務しました。その後、デンマークやスイスで公使を歴任し、1932年のローザンヌ賠償会議ではアメリカ代表となりました。1924年から27年まで、国務次官を務め、外交官制度の改革、専門職業化に貢献しました。その後、駐トルコ大使を経て、1932年に特命全権大使として日本に着任しました(1941年まで在任)。戦前のアメリカの代表的知日家の一人として知られています。1939年7月、日米通商航海条約の廃棄通告後も、日米関係の悪化を食い止めるため、アメリカ国務省に対して暫定協定の締結を具申しました。 |
|