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本当です。ガソリンの代わりに木炭で走るバスが、かつて存在しました。
木炭バスは、後部に積んだ窯で木炭を燃やしてガスを発生させ、そのガスを噴射してエンジンをまわす構造でした。
馬力が弱いため、エンジンがかかるまでに大変な時間を要したと言われています。
しかしながら、かつてガソリンの使用が禁止されていた時代に、代替燃料として木炭や薪、石炭などがバスや自動車に用いられたのです。
それでは、なぜガソリンの使用が禁止されていたのでしょうか。
画像1 木炭バス(広島電鉄提供)
日本は自国に大油田を持ちません。
ガソリンや重油の原料となる石油の9割以上を輸入に頼っていました。
そうしたなか、1937(昭和12)年7月の日中戦争勃発により、軍用に大量の石油が必要になります。
このため、国民生活における石油使用を、抑制せざるを得ない状況に陥りました。
商工省の外局として設置された燃料局は、8月に石油の消費規制準備を行い、11月、各省次官会議で石油消費節約のための実行方針が決められました。
その1つに、「木炭、薪などガソリン代用燃料使用装置の普及を図り、官公用バス、トラック、ガソリンカーなどは、すみやかに薪炭ガス発生炉を使用する」という条文があります。
翌38(昭和13)年3月になると、商工省令「揮発油及び重油販売取締規則」(のちに「石油販売取締規則」に改定)が公布され、切符制による販売制度が採用されるようになりました。
日中戦争が進むにつれて、アメリカ、イギリス、オランダは対日外交を硬化させ、日本に対して経済制裁を敷くようになっていきます。
1941(昭和16)年7月28日に日本軍が南部仏領インドシナに進駐すると、8月1日、アメリカはついに日本への石油輸出を全面禁止としました。
その当時、日本は石油輸入の約7割をアメリカに依存していました。
このことが決定打となり、9月1日からバスやタクシーのガソリン使用を全面禁止することが鉄道省から発表されました。
代替燃料を使用した車のみが営業を許可されたのです。
この頃、艦艇や航空機用燃料として多量の石油を要した海軍は、陸軍とともに資源を求めて南方進出を推進する一方で、人造石油の製造を行っていました。
しかし、生産された石油量は、消費を満たすには遠く及ばない状況でした。
そして9月6日、日本は御前会議で対米開戦を決意します。(Ref.C12120238900)
開戦から2日後の12月10日、アメリカのラジオ放送は、開戦の背後にあった問題として、「石油の涸渇が日米戦に到らしむ」(Ref.A03024789800)と報じました。
1945(昭和20)年に戦争が終結しても、物資の不足は続いていました。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は占領政策において、「非軍事化と民主化」を目的として日本国内での石油採掘を制限し、輸入を引き続き禁じました。
そのため、木炭バスはまだまだ人々の足となって活用されます。
しかし、1949(昭和24)年にGHQの占領政策の転換から石油に関する制約が解かれると、翌50(昭和25)年から輸入が再開されます。
1952(昭和27)年には燃料油の配給及び価格統制が撤廃され、燃料事情は急激に好転しました。
木炭バスはこうして静かにその役目を終えました。