日本において広報宣伝活動の重要性が認識されるきっかけとなったのは、第一次世界大戦であるといわれます。大正3年(1914年)からおよそ4年間にわたったこの戦争では、欧米の大国を中心とした複数の参戦国が軍事的、経済的に国家の総力を挙げて戦争をおこなう中で、各国の国民に自国の戦争遂行への積極的な貢献が求められました。またこうした戦争の性格から、敵対国の国民の戦意を低下させ、また直接参戦していない国の支持を得ることの必要性が強く認識されました。このような国内的、国外的な理由から、複数の参戦国で積極的な広報宣伝活動が展開されました。
こうした動向をうけ、当時の日本でも広報宣伝活動の重要性が認識され、大戦直後の大正8年(1919年)には陸軍省の官制(国の行政機関の名称・組織及び権限等についての規定)の外に陸軍大臣の直轄組織として新聞班(のちの陸軍情報部)が創設されたほか、大正9年(1920年)には外務省内に非公式な形で情報部が設置され、翌大正10年(1921年)には官制公布をもって正式な組織となりました。また海軍省でも大正13年(1924年)海軍軍事普及委員会が設置されるなど、各省がそれぞれ広報宣伝活動を担当する組織をそなえる状況が見られました。
資料1は、大戦直後の大正9年(1920年)に内田康哉外務大臣が、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ駐在の大使に対して、大戦中に各国で製作された「活動写真」のフィルムを入手することを命じた公電とそれに対する各大使の反応です。この資料からは、外務省が大戦中に各国で「プロパガンダ」用として戦況や工業等の活動状況を扱った「活動写真」が製作されたことを認識していること、このような製作意図を認識しつつ、日本国内に第一次大戦の状況を知らせるためにこれらの「活動写真」のフィルムの入手をはかっていることなどが見て取れます。
資料2は、外務省に正式な形で情報部が設置された際の官制改正に関する御署名原本です。ここでは外務省に新たに情報部を設置し、その部長には外務次官か外務部内の勅任官(明治憲法下において大臣、次官相当の階等に属する高級官吏)か親任官(勅任官のうち特に天皇による親任式をもって叙任された高級官吏)が就任することが規定されています。
資料3は、新設された外務省情報部が大正12年(1923年)に日本の一般事情や時事問題を写真に撮り在外公館に送付して現地の新聞や雑誌に掲載されるような有効利用を指示した公電と、それに対する各地の在外公館の反応をまとめたものです。この資料では、海外諸国を日本の諸事情に親しませるため、日本側写真を有効利用することが指示される一方、日本国内の新聞が社会欄を重視し、適切な写真を挿入して海外諸事情に関する興味ある記事を掲載しつつあるという状況を受けて、外務省情報部でも「将来此ノ傾向ヲ利用シ」この社会欄を通じて国民に海外事情を紹介するために海外各地の政治外交経済社会等に関する記事をなるべく鮮明な写真を添えて本省に報告するようにとの指示もなされています。また海外各地からの報告の中には、各地の新聞で用いられていた日本の写真を切り抜いて添付したものも見られます。
資料4は、昭和2年(1927年)に軍事映画製作を企画した日本活動写真株式会社(日活)が、陸軍省、参謀本部、外務省、内務省などと共に海軍省に協力を依頼した際の文書です。この中で日活は、多年軍事映画を製作し「聊か一般民衆に対し軍事思想の鼓吹に貢献」してきたが、今回は更に未だかつて日本では企画されたことのない「国家総動員とも称す可き」軍事映画を作りたいので協力を仰ぎたい、ついては3名の計画実行委員の派遣を願いたいことなどを述べています。
資料5は、資料4に対する海軍省の対応をしめす資料です。資料4の依頼をうけた海軍省内では、委員として派遣することが妥当がどうかを陸軍、外務、内務等の意向をふまえ回答案を作成することが、広報宣伝活動を担当する軍事普及委員会に求められています(2画像目)。これをうけて軍事普及委員会は、陸軍の広報宣伝活動を担当する陸軍省新聞班に「電話照会」をおこない、陸軍側の出席者が「別に委員と云ふか如き考へては無き趣」を確認して回答案を作成しています(5画像目)。ここからは、海軍と陸軍の広報宣伝担当部署間の情報交換の一端が見てとれます。
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